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意識高い低い論争にサヨナラサヨナラ

「意識高いですね」と言われると、からかわれている気がするトモヒロです。一時ほどの勢いはないかのように見受けられる、意識の高い低いで人様を品定めするような物言い。意外に息が長く何とも言えない面持ちで見聞きする今日この頃です。
どちらかと言えば意識の低い方に属する僕ですが、遅まきながら自分なりの解と言いますか、立ち位置のようなものをまとめてみます。

そもそも意識の高い低いとは?

「意識の高い」「意識が高い」は、コトバンクによると

ある事柄に対して強く意識している。ある理念をよく理解している。 「環境問題に関して-・い」

という風に、事柄とセットで使われる言葉とされている。低い側についても同様であることは、容易に想像できるかと思います。

実は違う「意識が高い人」と「意識高い系の人」

未だに混同されるケースが多いこの2つ。気にはなっているのですが、いちいち指摘していくと労力を割いたのに面倒くさがられるという目も当てられない状況に陥りかねません。そんな個人的な都合を理由に、意識高い系についてざざっと書きます。

・意識が高い人を装っている
・どことなく感覚の合わない人を見下している
・実は深い考えや信念を持っておらず、影響力のある人の受け売りにすがっている

一見して自意識過剰のようでありながら、実は意識を持ち合わせていない虚像のようなものといったところでしょうか。

意識の高い低いは、それほど重要なところではない

ここまで引っ張っておいてアレなんですが、大切なのは意識の高い低いよりも「どれだけの物事に対して自分の考えを持っているか」だと思います。
ある事柄について「考えが無い」のはマズいからです。「意見の引き出し」とした方が分かりやすいでしょうか。端的に言えば数の話であり適用される範囲の広さでもあります。

自分の考えがない、という危険性

例えば論理的な意思決定や自発的な行動。多元化あるいは多様化する価値観への対応が難しくなります。これらは自らの考えが判断基準の拠り所となるからです。考えを持っていないと、偏見や思い込みや他人の意見などを判断基準とせざるを得なくなります。凝り固まりやすく、流れやすく、騙されやすくなると言っても過言ではありません。

また、失敗や目標に達しない成果の要因を単に意識の低さとする(具体的な原因があやふやなまま精神論で押し切ってしまい再発防止の役に立てられない)現場を見かけることもあり、このような人を嫌な気分にするだけの反省はあってはならないと思います。

意識への意識を改める無意識系のススメ

「意識という言葉に囚われ過ぎではないか?」僕はそう考えています。曖昧で使いやすい言葉が独り歩きしていることに、もっと多くの人が違和感を持っても良い頃ではないでしょうか。他に大切なものはたくさんありますし、それだけではどうにもならないふわっとした概念に準拠した批評や批判は非生産的であり不健全な試みだと思います。
そこで、僕は無意識系(意識無い系)をひっそりと提案します。
例えば、
・名詞としては「意識」単体ではなく〇〇意識と、方向性を示した表現を心がけてみる
・身近なところで意識という言葉が飛び交ったとき「それは本来どう表現されるのが好ましいのだろうか?」と疑問を持ってみる
・日常生活の大半を占めるとされる、無意識下の行動に注目したり改善を試みたりしてみる
・般若心経の無眼界乃至無意識界(むげんかいないしむいしきかい)について少し学んでみる

最後だけ毛色の違うものが混じっていますね。

要は「言葉そのものやそれにまつわる用語、概念などについて見識を深めておくと、耳当たりの良さにごまかされない知性を得られますよ」という経験則です。語彙力、大事です。そして、それは使いやすい言葉の意味を考えたり、ほかの言葉への置き換えを試みたりするだけで少しずつ育てることができます。結局、面倒くさい話になってしまったかもしれませんが、そろそろこの辺で。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。