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About me … 私という人間を紡いだもの

こんばんは、maoです。
いつも投稿を読んでいただき、そしていいねをポチッとして下さる皆様ありがとうございます🙇🏻‍♀️💕 

ずっと家族の話が続いたので、今日は私自身のお話をしたいと思います(笑) 本当に長いので、途中休憩して下さいね☕️


幼少期

私は生まれも育ちも東京です。

私の父は工業用機器、あらゆる精密機械のシステムエンジニアのエキスパートで、大手メーカーのOEM生産や一番大きい物はアナログTVからデジタルTVに変わった時に、一番重要な画像処理に使われるチップを埋め込み、それを組み込んだ工業用機器として、各メーカー用にカスタマイズしておりました。その為、父は精密機器に使う部品を世界中から取り寄せる為、その国のメーカーと単独で取り引きしていたので、我が家は常に外国人が出入りし、家族ぐるみで仲良くしていたせいか、常に英語はもちろん世界中の文化や食べ物、言語に溢れた家庭でした。

母は、そんな父と二人三脚で会社を切り盛りしておりました。とてもおおらかで、自分の事より周りを優先して、何事も人の為に率先して動くような人です。学生時代にバレーボールでエースアタッカーで、実業団でも活躍しておりました。私より背が高いです。

2つ違いの妹は、母に顔と体型が良く似ていて体も大きく、背も170センチあります。私は160センチなのですが、妹はすでに小学校では160ありました。私と違い、手先が器用で家庭的です。

そんな家族の元で生まれた私は、性別を明らかに間違えたとしか言いようがない女の子の要素が皆無な子で、女の子がするような人形遊び、おままごとが苦手で、どちらかというと男の子と虫捕り・ざりがり釣り・木のぼりや缶蹴り・アスレチックばかりやるよう子でした。まさかこの時未来で男の子を4人も授かるなんて夢にも思いませんでした。そのおかげもあり、息子達を育てる為のノウハウが役に立ちましたが(笑)。ちなみにうちの主人は、男の子の遊びが全くもってできませんが。(虫嫌い・土いじりできない・アスレチック怖い・お家大好き・人形遊び得意)

また、ものすごく好奇心旺盛だったので、興味を持つとすごい集中力を発動させていたようで、母によると3歳までにひらがな・カタカナ・数字を習得し、母が読み聞かせに買った本を1人で毎日声を出して読んでいたらしいです。5歳の時には私が何か持て余しているのを察して、父がアメリカで試しに買ってきた英語の学習ワーク集を与えて、それを1人でコツコツとやりスペルを全部書けるようになっていたそうで、そのおかげもあり全部覚えていて、何の躊躇なく中学の時英単語全部書けていました(笑)。この事が私の将来のビジョンにつながったきっかけでもあります。

体力も半端なく、体も柔らかくめちゃくちゃアクティブな子で、男子より猿みたいだったので母が泣いてました。パルクールみたいな事が好きだったので、男友達といつもうんていやって、上り棒で一番上まで行ったら、そこで前周りしてターザンのように降りてきたら、鉄棒でぐるぐる回転して、ジャングルジムをスパイダーマンのようにかけ上がり、ブランコ立ち漕ぎしてそこから飛び降りてはケガするような子でして(苦笑)、小学校ではマット運動が好きな子達と競走するかのようにバク転したり、逆立ちして歩いたり、今じゃドン引きですよね😂😂😂 男子としょっ中取っ組み合いのケンカもするし、それで怒られ廊下に立たされるわで母は呼び出されるわだし、ホント実家では母泣かせの内容で、今じゃ息子達にまで話のネタにされてます。この体力が後のアルバイトと子育てに活きています(笑)。

奇抜な10代の青春時代

中学にあがると周りがジャニーズで盛り上がる中、子供の頃から我が家ではビートルズをはじめアメリカやUKロック、日本のGSを聴いて育ったせいか、当時バンドブームも相まって、好きなバンドのライブばかり行ってました!
洋楽も好きだったので、将来は漠然としていましたが、海外に行きたいと言う気持ちが強くなっていました。ミーハーで当時大好きだったイギリス人の影響もあり、

海外留学→国際結婚

の構図しか頭になかったので、高校は外国語と海外の大学に力を入れている高校に進学しました。当時は、原宿行ってはヒステリックグラマー、ベティーズブルー、VIVA YOU を着てラバーソール履いてるような奇抜なファッションをまとっていました(笑) 髪も赤い時代もありました🫣
↑今もこのブランドあるのかなぁ??🤣

卒業後は何としとも留学をしたかったので、資金集めにアルバイトを1日5つ高額日雇いも含め掛け持ちして(睡眠時間毎日4時間)、フル稼働20日で約30万近く貯めました。父に留学を反対され、意地になり、頭をフル回転させ効率よく稼ぐ方法と掛け持ちの順番を決め、もちろん交通費全額支給の仕事をうまくフィットさせたところ、予想以上の金額になりました。多分あの体力と金額は二度とやれないなぁ〜と我ながら感心です(笑)。流石の頑固一徹の父も、私のそのド根性には見直したというより、あきれてほぼドン引きでしたが 笑😆

留学時代

その甲斐あり、アメリカのコロラド州という日本人が少ない自然が豊かな街に留学いたしました。標高がとても高く日本のアスリートの方が幅広く訪れる場所です。ちなみに私が住んでいたアパートの部屋の前向かいには、あの水泳の元オリンピック選手の鈴木大地さんがいらして、よくベランダでお風呂上がりにビール片手の鈴木さんと目が合いました(笑)
勉強でへべれけになりながらも、沢山の諸外国や日本人の友人達と遊んだり、ドライブ行ったり、ごはん作ったり楽しい時間を過ごし、現地で知り合った方のベビーシッターや漢字と日本語を教えるアルバイトもやりました!(日本に帰国してはバイト三昧、学費稼ぎ!)

そこで知り合ったのが、私の主人です。
国際結婚を夢みていた私がまさか彼と結婚するなんて思いもしませんでしたが…。これは未だ我が家に語り継がれる鉄板エピソードです😆


父からの応援要請、父の夢を支える


ある日のこと父からエアメールが届き、そこにはこれから日本が新たな試みに挑戦すると。この事が、日本の生活をガラッと変え全てデジタル化する事で便利な世の中になると。日本のインターネットの普及率を上げ、電話、テレビ、パソコンが一つで済む時代に変革するから、その一大プロジェクトを任されたと。大手テレビ局と各大手メーカーとうちがタッグを組む事になったから、父1人では限界がある為、これから精密機器を取り扱う全ての海外メーカーとのやりとりを私にやって欲しいとの手紙でした。もう、目が初めて点になりました(笑)。
父がこれまでやってきた日本の生活を豊かにするお手伝い、新しい試み、海外水準に並ぶ夢…これを目標に、仕事やお客様を選ばず無理難題にも応えながら、それ以上のクオリティーを目指してやってきて、こうしてお声をかけていただいた事は私にとって父を誇りに思いますし、私もこんなドリームプロジェクトの後押しをして、父の為に最大の花道を作ってあげようと、学業に区切りをつける決心をしました。


帰国と闘い


22歳で帰国。先に家業を継ぐ為帰国していた主人とは遠距離交際を続けながら、私はすぐ父の会社に入り、工業用の組み込み式ソリューション(シャーシ・マザーボード・モジュール等)に関しての知識が全くない為、まず学ぶ事から始めました。専門的な事は無理でも、概要を知る事で取り引き先とのやりとりを円滑にする為です。わからない所は父に聞きながら、そしてアメリカ、ドイツ、台湾の取引先と、弊社代理店、日本の大手企業様の会社概要とご担当される方、もう何もかもを短期に吸収する事が急務必須で、あの頃の記憶がないくらい毎日が充実していました。父は、一番あの頃が寝ていなかったのではと思います。同時進行で、各テレビ局分の全く違う規格製品の組み込みをしていたのですから。規格も違えば、扱う機器もそれに見合う製品を探して、提案をして規格を通し実験もしなければなりません。私も海外の時差があり、毎日夜中に電話をしメールを送る日々。眠さとキャパ超えした脳を奮い立たせる毎日でした。そんな時、当時モジュールに使用されている石でレアアースが世界的に不足した時期で、絶望的に入手困難で大量購入が非常に難しくなっていました。日本サイドの各メーカー様の資材部さんから納期について怒号もかいましたが、計画が多少遅延する事を前提として日本の各企業様と交渉し、父があらゆるルートで探し、海外のメーカーとその下請けメーカーと私達親子でダメ元で交渉を重ねて重ねて何とかヨーロッパ中からかき集めてもらい、納入までこぎつけました。その熱意が伝わり、長きに渡りやりとりで親しくなったドイツのメーカーが私達にわざわざ会いに来て下さり、このプロジェクトに関わる企業様数名と談笑する事もでき、明るい未来を予感しながら1年半の歳月が経ちました。このドイツの会社の元社長さんとは、今もやり取りしていて仲良し☺️ 私の第二のお父さんのようです。(地震がきただけで、心配してメールがきます 笑)


感動の新しい幕開け


父はこれまで共に闘ってきた日本サイドの全てのメーカー様のご担当者皆さんと、すでに無二の親友のように強い絆で結ばれていました。父はこのメンバーみんなを連れて、台湾のメーカーに会いに連れていったほど。こんな素敵な仲間達とみんなのアツい思いをしたためてこれまで試行錯誤で、日本の新しい未来の為に長きに渡り頑張ってきたのですから。私にとっては、この全てのプロジェクトに関わった皆さんの大河ドラマを作りたい気分です(笑) 不甲斐ないど素人の娘の私を気にかけ、支えてくださり、励まして、時には厳しいお叱りも。でも熱い思いと情熱と、商品に対する優しい愛があって、私は人生で大きな経験をさせていただきました!

父は残念ながらこの時すでに不治の病に侵されていたのでした。またこの話は次回にでもお話しますね。

今当たり前のように目の前で観ている大画面の向こうに、沢山の情熱と無数の失敗や実験を経て思いを一つにしたロマンがあるわけです。もうあの頃関わって下さった皆さんは、きっと大きな役職或いは引退されているかもしれませんが、亡き父に代わり私の感謝の気持ちも添えて御礼申し上げます。(亡き父のお葬式にも沢山の弔電や大勢の方が駆けつけて下さいました)

この後すぐ、私は主人と結婚して今に至るわけです。


こんなジェットコースターのような私のエピソードは、これはごく一部なのですが基盤がここにあり、その後の生き方に大きな影響をもたらした事は事実です。人間関係や様々な経験を紡いだからこそ、今の私がおります。


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