そばと、きみ。
この小説は、2020年1月22日、クリープハイプの「愛す」リリースの際、二次創作として執筆したものです。
今回、ライナーノーツ企画開催にあたり、本来の趣旨とからは外れるとは思いながらも、彼らの楽曲を受けてわたしから生まれたものの一つとして、企画への応募タグをつけさせていただいた次第です。
================================
午後から降り出した雨にうんざりしながら会社を出る。
今日こそは早く帰って自炊しようと思っていたのに、時計の針は既に20時を回っている。
折りたたみ傘を態とらしくばさばさと開き、駅に向かって歩き出した。
今日の夕食をどうしようか、疲れた頭をフル回転させて考える。雨だし温かいものが食べたいなぁ、あ、そうだ、駅前のお蕎麦屋さん、久しぶりに行ってみようかな。頭の中の自分と会話していると、目的の蕎麦屋が見えてくる。
「はーいいらっしゃーい」
ちょっと色褪せた暖簾をくぐって引き戸を開けると、おばちゃんの張りのある声が響く。学生時代は結構通っていたけど、東京から帰ってきてからは初めて足を向けた。10年前と何も変わらない、暖かい木のカウンターに腰掛けると、おばちゃんがにこにこしながら湯のみとおしぼりを出してくれた。
「すみません、牛肉とろろそば、マグロ丼のセットで」
「はいよーお待ちくださーい」
程なくして、柔らかな湯気を立てたおそばと、つやつやと光るマグロ丼がやってきた。
れんげをすこぉし沈めてあたたかいかけ汁をすすると、冷えたからだと疲れた頭がちょっとだけ緩んだ気がした。
「あ、月見…」
とろろに殆ど隠れて見えていなかったけれど、殆ど生に近い半熟卵が浮かんでいるのを見つける。
「やっぱりそばには、きみじゃなくちゃだめだな」
東京にいた頃、と言っても去年の話だけど、付き合っていた男の子は、全然素直じゃなかった。
もちろん、悪い人じゃなかったけれど、とにかく自分の気持ちを口に出すのが苦手な人。そんな所もいじらしくて可愛いな、慣れてきたらもっとお互いのことをちゃんと話せるよな。そう思って付き合っていたけれど、とうとうそんな機会はやってこないまま私たちは別れた。
最後の最後まで、私に好きだとか愛してるとかそういう言葉を口にしなかった奴が、付き合いたての頃に遊びに行った長野のお蕎麦屋さんでぽそりと呟いたのが「やっぱりそばには、きみじゃなくちゃだめだな」。
「それって私の事?」
悪戯っぽく聞き返すと、慌てて全否定されたんだっけ。
ずるずると暖かいおそばを啜りながら思い起こす。
変化を恐れないでどんどん突き進む私と、頑なに自分を曲げないあいつ。
どっちがいいとか悪いとかじゃなくて、距離の詰め方が真逆だっただけ。ただそれだけ。お互い我慢できなくなって別れがやってきただけ。
「でも、私はきみがすきだったんだけどな」
なんとも言えない感情の昂りを自覚して、私は半ば無意識に卵の君に箸を突き立てた。
とろりと濃い黄色が溢れて、かけ汁の中に溶けだす。柔らかさを持った黄身は、かけ汁に取り込まれることなくちゃんと自我を保ってゆうゆうと揺蕩うように広がっていく。
箸でそおっと黄身を被ったそばを持ち上げると、キラリと反射してぽとりと熔けた。
やっぱりそばには、きみじゃなくちゃ、だめだな。
「ごちそうさまでしたー」
「まいど!またお待ちしてまーす」
今となってはあいつが私のことをどう思っていたかなんてわからない。わからないから別れた。そばには、黄身だけじゃないもん。とろろもあるし肉もあるしおあげだって天ぷらだって、近ごろならコロッケだってある。
私はもうきみなんて、いなくたって。
捻れた鞄の持ち手を整えてから、私は駅に向かって歩き出した。
================================
余談ですが、この曲のリリース日、本当に牛肉とろろそばとマグロ丼のセットを食べたことからこの作品が生まれました。
そばやのおばちゃん、いつもありがとうございます。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?