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【つの版】ユダヤの闇02・贖宥免罪

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

16世紀には欧州全土に宗教改革の嵐が吹き荒れます。カトリック教会ではこれに対して反宗教改革が起こり、ユダヤ人はますます肩身が狭くなりました。ゲットーが誕生した時代背景を見ていきましょう。

◆銭◆

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華都絢爛

中世後期、イタリア中北部にはヴェネツィア、ジェノヴァ、ミラノなどの都市国家が栄えましたが、ルネサンス文化の担い手の代表としてフィレンツェを挙げないわけにはいきません。1406年にピサを併合したフィレンツェ共和国では、銀行業者メディチ家ジョヴァンニが教会大分裂に介入して対立教皇ヨハネス23世を擁立し、教皇庁会計院の財務管理者となりました。

ヨハネス退位後もメディチ家の地位は維持され、ジョヴァンニの子コジモはフィレンツェの実質的支配者となり、その子ピエロ、孫ロレンツォの時には黄金時代を迎えます。彼らは多くの芸術家のパトロンとなり、国際的にもフィレンツェの君主として扱われました。しかし1492年にロレンツォが逝去すると、子のピエロは20歳という若さで人望がなく、メディチ銀行もロレンツォの放漫経営で破綻寸前でした。

この時、フィレンツェ市民の支持を集めたのがドミニコ会の修道士サヴォナローラです。彼はメディチ家の専横と腐敗を指弾し、清貧と敬虔に立ち返るべしと説いて熱狂的な信者を集め、反メディチ派が彼のもとに集まります。

時の教皇アレクサンデル6世は強欲な男で、息子チェーザレ・ボルジアら一族に領土を配分しましたが、ナポリ王フェルディナンドは彼と領土を巡って対立します。教皇はナポリ王を牽制すべくフランス王シャルル8世と手を組んでいたのですが、1494年にフェルディナンドが逝去すると、シャルルはナポリの王位を要求してイタリアに侵攻します。

フランス軍は長年の戦争で鍛え上げられていて滅法強く、イタリア諸国を蹂躙、南下します。フィレンツェはやむなくフランスに降伏し、メディチ家は追放されてサヴォナローラが実権を握りました。教皇アレクサンデルは、ローマでシャルルを迎えつつ、政治力を駆使して対仏軍事同盟を構築します。シャルルはやむなく撤退し、教皇の権勢はかえって高まりました。サヴォナローラは孤立した末に過激化し、1498年に火刑に処せられます。

とはいえ反メディチ派は根強く、しばらくはメディチ家抜きの共和政が行われますが、共和国大統領に選ばれたソデリーニは優柔不断で、フィレンツェは周囲の強国に翻弄されて右往左往する有様でした。マキャヴェッリはこの時代にフィレンツェの政治官僚を勤め、苦労を重ねています。

教皇アレクサンデルは、息子チェーザレ・ボルジアを公爵に任じて教皇領内の豪族や都市を服属させますが、1503年にマラリアに罹って死去しました。後任の教皇ユリウス2世は反アレクサンデル派で、チェーザレは捕縛されて没落し、1507年に戦死します。

教皇ユリウスはアレクサンデルの政治方針は受け継ぎ、諸国に対仏大同盟を呼びかけ、フランスの影響をイタリアから駆逐します。1512年にはメディチ家のロレンツォの子ジョヴァンニとジュリアーニがフィレンツェに帰還し、メディチ家によるフィレンツェ統治が再開されました。

1513年に教皇ユリウスが亡くなると、枢機卿であったジョヴァンニが新たな教皇に選出され、メディチ家初の教皇レオ10世となります。彼が発行を開始した贖宥状が、ルターによる宗教改革の発端となるのです。

贖宥免罪

贖宥(しょくゆう、ラテン語:Indulgeo)は、己の罪を悔い改めて贖い、神の怒りを宥めることを意味します。罪人には贖罪のための罰金が課され、教会に寄付を行うことは罪滅ぼしになるとされました。教会にとってもカネは大事ですから、11世紀末の十字軍以来「寄付による贖宥」はしばしば行われました。聖地奪還のために戦う者や巡礼者は罪を帳消しにされ、彼らを支援して寄付をすることも贖罪の手段として奨励されたのです。教会は寄付を行った者に贖宥状(indulgentia、免罪符とも)を発行し、証明書としました。

レオ10世は、ローマのサン・ピエトロ大聖堂を改築するための費用を贖宥状の発行で賄おうとしました。こうしたことは中世に広く行われており珍しくありませんが、発行の経緯とやり方が問題でした。

神聖ローマ帝国ブランデンブルク選帝侯ヨアヒムの弟アルブレヒトは、1513年にマクデブルクの大司教に、1514年にマインツ大司教に選出されました。マインツ大司教はドイツにおける最高位の聖職者で、7人の選帝侯の筆頭であり、グルデンという金貨の発行権すら持ちます。

ドイツのグルデンは、ヴェネツィアのドゥカート、フィレンツェのフローリン、フランスのリーヴルに相当します。15世紀のつましい家庭の年間生活費が24グルデン、熟練職人の年収が50グルデンといいますから、1グルデンは現代日本の貨幣価値だと12万円程度でしょうか。王侯貴族の年収は1万グルデンを下りません。16世紀後半には新大陸から銀がなだれ込んできて銀の価値が暴落し、価格革命が起きました。

彼は複数の大司教の位を兼務するため、多額の献金を教皇に行いました。これはドイツの財閥フッガー家からの借金でしたが、フッガー家は彼に巧妙な稼ぎ方を吹き込みます。すなわち「サン・ピエトロ大聖堂建設のため」との名目で贖宥状を自領で独占販売し、収益を教皇への献金とするというものです。これなら善男善女がカネを出してくれてアルブレヒトの懐は痛まず、教皇ともWIN-WIN関係です。そして教皇自身もフッガー家から多額の借金をしていたので、収入は全部フッガー家に流れ込みます。ナムアミダブツ!

教皇の許可を得て1517年に販売が開始された贖宥状は飛ぶように売れ、アガリの半分は教皇への献金、半分はマインツ大司教の借金返済にあてられました(当然秘密で、表向きは全額ローマへ送られるとされます)。庶民は1枚1グルデン、貧乏人は半グルデン、富裕市民は6グルデン。ドミニコ会の説教師テッツェルは「グルデンがチャリンと棺に落ちれば、煉獄にいる霊魂は天国へ飛んでいく」などと説いたといいます。ひどいのになると「あらかじめこれを買っておけば、悪事をしても許される」と言ったとか言わないとか。

煉獄とは地獄へ落ちるほどではなかった死者が送られる領域で、苦難によって罪を清めれば天国へ行けると信じられていました。カネで贖罪になるのなら、カネで死者の魂が救われるというのは庶民にもわかりやすい理屈です。チャイナでは冥銭を焚いて死者の冥福を祈りますし、日本でも三途の川の渡し賃(六文銭)を棺に入れます。地獄の沙汰も金次第です。

さて、ここにルターが現れます。彼は聖アウグスチノ修道会の会員で、1506年には司祭となり、ザクセン選帝侯領のヴィッテンベルク大学で神学博士として講座を受け持っていました。彼はカトリック教会や教皇を批判する意図はなく、マインツ大司教やフッガー家の陰謀についても知らず、贖宥状の発行そのものは認めていましたが、「罪の懺悔なしにカネだけで罪が贖われるのはおかしい」と考えたのです。

人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。(ローマ人への手紙3:28

パウロも「人間は律法の行いだけで義とされる(神に罪を許される)ことはなく、信仰(心から神を信じ悔い改めること)によってのみ義とされる」と説いています。この部分は「ユダヤ教の律法を守らないと救われない」という意見に反論したものですが、宗教は心の問題なのでまあそうですね。

本来の贖罪とは、神と聖職者の前に出て「私の罪をお許し下さい」と乞い願い、然るべき手続きで秘蹟(お祓い)を受け、供物や金銭を捧げものとし、それが受け取られることで成立するものです。ユダヤ教の律法にも書かれています。それを省略しては意味がないではないか、というのがルターの意見です。実際古くから議論があり、ルターも目新しいことを言ったわけではありません。しかし当時の政治状況などが絡んで大問題になりました。

論題掲示

1517年10月末、ルターは贖宥状の問題についてラテン語で意見を書き、贖宥状を販売しているドミニコ会修道士たちに公開討論を申し込むため、ヴィッテンベルク城教会の門扉に貼り付けました。当時はインターネットがないので物理的な掲示板です。また手続き上、同様の書面をドイツの首座司教であるマインツ大司教アルブレヒトにも送りました。贖宥状とアルブレヒトの関係について、ルターはまだ何も知りません。

こうしたことはよくあることで、当初は問題視されませんでした。アルブレヒトは「修道士同士の小競り合い」とし、マインツ大学にはこの件についての議論を禁止しました。アルブレヒトから書簡を転送された教皇は、聖アウグスチノ修道会のドイツの長シュタウピッツにこの件を委ね、シュタウピッツは「当修道会の総会で議論しよう」とルターに理解を示したといいます。

当時のザクセン選帝侯フリードリヒ3世は、自領内での贖宥状の販売を禁止し、ドミニコ会修道士を領内から追放していました。これは宗教的な理由ではなく、経済的な理由からです。彼自身も盛んに贖宥状を販売しており、各地の聖遺物を買い漁ってコレクションし、これを拝みに来る巡礼者らからカネを集めて儲けていました。しかしマインツ大司教の発行する贖宥状は、ローマ教皇を潤すばかりでザクセンにカネが入らないのです。

テッツェルはザクセン領の国境近くまで行って贖宥状を販売したので、ザクセンからも多くの庶民が買いに行きました。これを苦々しく思ったフリードリヒは、ルターを支援することにしたのです。ウィクリフを支援したランカスター公、フスを支援したヴェンツェルと同じく世俗的な理由です。

またルターの論題は、当時の最新情報伝達技術である活版印刷で数百部のパンフレットに複製され、ドイツ各地の聖職者や神学者、哲学者や大学関係者へ配布されました。ラテン語なので知識人にしか読めませんが、ドイツ語に翻訳されたものも現れ、結構話題になったといいます。当時の識字率は低いため、文盲の庶民には文字の読める人が講談めいて読み聞かせるしかありませんが、難解な教義など知らない庶民にとっては「坊主どもが言い争っちょるげな」という程度の認識でしょう。ザクセンの殿様が贖宥状だか免罪符だかを買うなと仰せですから、それに絡んだこととは察しがつきます。

1518年1月、テッツェルはルターに反論して贖宥状を認める論文を発表し、ルターは地獄に落ちる異端者で火刑にすべきだと気勢を上げました。公開討論はしませんでしたが、ルターは4月に聖アウグスチノ修道会の総会で激しくテッツェルらを批判し、小論『贖宥と恩恵とについての説教』を刊行しました。これは神学者向けのラテン語ではなく庶民向けに(読み聞かせしやすいように)ドイツ語で書かれ、表現も簡潔・鮮明・過激となっています。

いろいろな思惑が絡み合い、ルターの起こした騒動は欧州全土を揺るがす宗教改革及び大戦争へ繋がっていきます。そして無関係なはずのユダヤ人は、多大な迷惑を被ることになりました。

◆Mein◆

◆Land◆

【続く】

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