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【つの版】邪馬台国への旅13・倭國亂

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

倭人諸国の位置関係、習俗と来て、ようやく卑彌呼の共立、邪馬臺國を盟主とする「倭國」の成立について語る時が来ました。しかしその前に、卑彌呼共立の前提となる倭地と周辺世界の歴史状況を語らねばなりません。

なぜそうなったかを推測するには、事実を積み上げ理詰めと常識で考えていく思考が大切です。あくまで蓋然性が高いとつのが勝手に思ってるだけで、事実は全く違うかも知れません。あなたも考えてみましょう。

◆時はまさに◆

◆二世紀末◆

倭國亂

其國本亦以男子爲王。住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。
その國は、もとまた(他の諸国と同じように)男子を王としていた。その状態にとどまる(住)こと七十年から八十年して、倭國は乱れ、相互に攻伐して年月を歴(経)た。

「倭國亂」だとするのは『後漢書』だけで、ほかはみな「倭國亂」です。男子の倭國王とは、西暦57年に後漢の光武帝から金印紫綬を賜った「倭奴國王」と、その子孫と思われ半世紀後の西暦107年に朝貢した「倭國王帥升」です。彼らは特に女王とは言及されていないため、男王だったのでしょう。彼らについてはチャイナ側に記録がありますし、つのも伊都國や奴國のところで触れました。その70~80年後というと、何が起きたのでしょうか。

漢末動乱

西暦107年から77年後の西暦184年(後漢の霊帝の光和七年甲子)、チャイナで宗教結社「太平道」が「蒼天已死、黄天當立、歳在甲子、天下大吉」のスローガンを唱えて全国で武装蜂起し、「黄巾の乱」を起こしました。これは後漢により年内に鎮圧されましたが、後漢の支配体制は大いに揺るぎ、反乱も各地で頻発し、反政府武装勢力(群盗)が割拠し始めます。

西暦189年、董卓が朝廷の実権を握ると、翌年袁紹らが反董卓連合軍を率いて東方で決起。世に名高い三国志の時代…の前、漢末動乱時代の到来です。董卓は首都洛陽を焼き払って長安に遷都し、後漢の支配体制はほとんど崩壊しました。2世紀末から3世紀にかけては気候変動で世界的にやや寒冷化し、飢饉と疫病と戦乱によって多数の死者や難民やモヒカンが発生しました。

このようなチャイナの動乱は、東夷諸国にも影響を及ぼします。『三国志』東夷伝韓条に「桓帝(在位:146-168)・霊帝(在位:168-189)の末年、韓・濊が強盛で郡県は制することができず、民(楽浪郡の住民)は多く韓国に流入した」とあります。北の高句麗もしばしば遼東郡(遼寧省遼陽)を襲撃し、民を奪いました。西暦187年には張純と張挙が烏桓族と組んで漁陽郡(北京付近)で反乱を起こし、河北や山東を荒らし回っています。

この乱の後、189年に董卓の部下・徐栄の推挙で遼東郡の太守となった公孫度は、中央の混乱に乗じて半自立政権を樹立し、夫余や高句麗と結び、玄菟郡(撫順)と楽浪郡(平壌)を接収します。そして自分の支配領域を幽州から勝手に切り離して平州と名付け、遼東侯・平州牧と名乗りました。

さらに遼東半島南端の大連から渤海海峡の彼方へ派兵して青州東萊郡(山東省煙台市と威海市)も手中に収め、営州を設置しました。北海国(山東省濰坊市)相の孔融は遼東から軍馬を購入していたといいます。いい気になった公孫度は、天子のみが行う諸々の祭祀を勝手に執り行い、馬車や旗にも皇帝のものを用いました。人脈的には董卓派でしたが、董卓も徐栄も死んでしまうと、河北の覇者となった袁紹ともうまくつきあっていたようです。

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このような動乱の時代に、漢倭奴國王、あるいは倭國王帥升の子孫は、また他の倭人の国々はどうしていたでしょうか。

この時期について、『後漢書』では「桓霊間、倭國亂」とし、『晋書』では「漢末、倭人亂」とし、『梁書』では「漢靈帝光和中(178-184)倭國亂」とします。しかし魏志倭人伝では「住七八十年」とするだけです。梁書が光和年間としたのは黄巾の乱に合わせてでしょうし、後漢書が桓霊の間としたのは東夷伝韓条の状況や、桓帝末年の「党錮の禁」を後漢衰亡の始まりとする歴史観によるものです。ともあれ漢末動乱と倭國亂を重ねています。

倭國亂の実相

考古学的には、2世紀末から3世紀にかけての倭地で「大規模な戦争状態があった」という状況はないようです。山城的性格を持つ高地性集落の数はむしろ減っています。2世紀末、伊都國の領域である平原遺跡に埋葬された「女王」と思しき被葬者は大量の鏡や玉を副葬されており、特に直径46.5cmの「八咫鏡」は有名です。伊都國王を頂く北部九州の「倭奴國」はまだ繁栄してはいたのですが、後ろ盾たる後漢の崩壊や韓・濊の乱で楽浪郡との交通が混乱し、一極集中的権威は衰え、倭國の対外代表の座を巡って諸国が睨み合う状況が続いたと思われます。ある程度の小競り合いはあったでしょう。

この頃、倭地には既にいくつかの地域連合が生まれていました。これまで見てきた通り、北部九州から四国南西部にかけては広形銅矛を祭具とする「倭奴國」、中南部九州には免田式土器を用いる「狗奴國」、山陰から北陸にかけては四隅突出型墳丘墓を築く「投馬(イズモ)國」、瀬戸内には円筒埴輪の先祖である特殊器台を用い大型円丘墓を築く「吉備國」、そして近畿には大型銅鐸を祭具とする「邪馬臺(ヤマト)國」がありました。また東海諸国(東渡海倭種)では三遠式銅鐸を用いています。

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それぞれの文化圏が成立するまでには様々な物語があったはずですが、あいにく文字として記録されなかったため、後世の伝説や考古学の成果から少しずつ事実を積み上げて行き、蓋然性の高さを目指すほかありません。属する文化圏は違っても、言語や風習に大きな差異はなく、海外から「倭」と総称される程度には共通性があったでしょう。いわゆる倭人だけでなく、漢字の文書を扱う新規渡来人(華僑・韓人)やその子孫、混血者もいたはずです。

ヤマトの変容

考古学上では、倭國亂の終結と卑彌呼の共立、すなわちヤマトを盟主とする倭人諸国連合の成立は、3世紀初頭と目されます。何が起きたのでしょう。

2世紀末から3世紀初頭にかけて、ヤマトに纒向遺跡が出現します。また、近畿から全国へ分布が広がっていく庄内式土器が現れ、最初の前方後円墳(纒向型前方後円墳)である纒向石塚古墳が出現します(箸墓古墳より前に前方後円墳は出現しました)。庄内式土器と前方後円墳は吉備の影響を受けており、吉備の楯築遺跡は纏向石塚古墳の30年ほど前に築造されましたし、吉備の特殊器台や、吉備独特の木製品「弧文円板」も纏向から出土しています。吉備とヤマトはどのような関係にあったのでしょうか。

天理市東大寺山古墳は4世紀後半頃の古墳ですが、その副葬品に「中平」という紀年の金象嵌銘がある鉄刀がありました。

中平□□(年)五月丙午造作文(支)刀百練清剛上応星宿□□□□(下避不祥)

中平とは後漢の霊帝の年号で、黄巾の乱が鎮圧されたことから改元され、西暦184年末から189年にあたります。副葬まで200年、この鉄刀がいつどのようにして伝来し、副葬されるまで保管されたかは不明です。これを「倭王卑彌呼へ公孫度から送られたもの」と断定するには弱いかも知れません。

帯方郡の設置

『三国志』東夷伝韓条にこうあります。

桓靈之末、韓濊強盛、郡縣不能制、民多流入韓國。建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡、遣公孫模、張敞等收集遺民、興兵伐韓濊、舊民稍出、是後倭韓遂屬帶方。
桓帝・霊帝の末年、韓・濊が強盛で郡県は制することができず、民は多く韓国に流入した。建安年間(196-220)、公孫康(公孫度の子)は、(楽浪郡の)屯有県(北朝鮮黄海北道黄州郡か)以南の荒地を分けて「帯方郡」とし、将軍の公孫模や張敞を派遣して遺民(漢の郡県から亡命した中国人=戸籍にある人間)をかき集め、兵を起こして韓・濊を討伐した。旧民(亡命中国人)はようやく出て、これよりのち倭と韓はついに帯方郡に属した。

建安9年(204年)、公孫度が逝去し、息子の公孫康が跡を継ぎました。この頃チャイナ本土では曹操が袁紹の大軍を官渡で撃破し(200年)、2年後に袁紹が病死すると、息子の袁譚と袁尚が跡目を巡って争います。公孫氏は青州を支配する袁譚に味方しましたが、曹操は建安9年に冀州(河北省南部)の袁尚を撃破して幽州(北京周辺)に追いやり、翌年に袁譚を倒すと張遼を派遣して山東半島から公孫氏勢力を駆逐しました。営州はここに滅びます。

幽州へ逃れた袁尚は部下の裏切りに遭い、兄袁煕と共に遼西の烏桓族のもとへ逃れましたが、建安12年(207年)に曹操に撃破され、今度は遼東へ逃げ込みました。公孫康は彼らを殺し、首を曹操へ差し出して恭順しました。こうして袁氏は滅び、公孫康は遼東(遼陽)・玄菟(撫順)・楽浪(平壌)の三郡を安堵され、曹操に従いつつこの地域を治めることになります。

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山東や遼西への進出を諦めた公孫康は、満洲や朝鮮半島へ進出します。建安14年(209年)、公孫康は高句麗を攻撃して撃破し、王兄の抜奇が涓奴部3万人を率いて公孫康に帰順しました。高句麗王の伊夷摸は首都の卒本城(遼寧省本渓市桓仁県五女山城)を放棄し、東の丸都城(旧玄菟城、吉林省集安市)に遷都しています。公孫康が帯方郡をソウル付近に設置(分置)し、韓や濊を討ったのもこの頃であろうと思われます。

帯方郡については01で触れました。漢の武帝が置いた真番郡の北部7県にあたり、『晋書』地理志・平州によれば列口(列水=大同江河口、黄海南道殷栗郡)、長岑(長淵郡)、昭明(信川郡)、海冥(海州市)、帯方(ソウル市)、含資(忠清北道忠州市)、提奚(尼谿慶尚北道聞慶市鳥嶺)の合計7県を管轄しました。屯有県は含まないようです。黄海北道鳳山郡沙里院市には帯方太守の墳墓がありますが、ここを帯方県とするには楽浪郡治(平壌)に近すぎます。戸数は西晋代で4900戸(2.45万人)とあります。

後漢政府が崩壊しても、対馬を介した倭地と韓の交易は継続していたでしょう。鉄や威信財は王や豪族の権威のためにも必要です。楽浪郡も多少混乱したとはいえ、公孫度が接収したため消滅はせず、東夷との交易は継続したはずです。倭國も別に後漢へ絶対的忠誠を誓っているわけでもありませんし、変わらず楽浪郡と交易関係を続け、銅鏡や財宝を手に入れていたことは想像できます。倭人は遼東公孫氏の政権をケツモチ(パトロン)にしたのです。

広域倭國の形成過程

これなら北部九州の伊都國・倭奴國の王がそのまま倭國王として存続してもいいのですが、なぜか東方のヤマトが台頭します。東方諸国が列島内の交易で力を付けてきたこと、その商業圏がさらに東へ伸びつつあったことなどから、これは倭地の王や豪族たち(及び倭地にいた華僑や韓人などの商人)が「海外交易に頼りすぎず倭地の開発と系列化を進める」ことを総合方針として選び始めたのでしょう。後漢の崩壊によって自立の機運が訪れたのです。

倭地の産物を輸出するにも、大人数を集めて広範囲から効率よく集めた方がコスパがいいですし、小国同士がいがみ合っているよりも大同団結して連邦となった方が交易路も広がり、スケールメリットが得られます。鉄を輸出している弁韓にせよ、その彼方の帯方郡や楽浪郡、遼東公孫氏にせよ、倭地からの輸入産品が増え多種多様になれば儲かります。こうしてオヤブン同士のダンゴウが繰り返され、利害関係やメンツ関係が調整され、ついに西日本ほぼ全域を覆う規模の「倭國」が形成された、と推測できます。既に弥生時代から、ヤマトは広域経済圏の結節地、国際市場として繁栄していました。ここに新たな倭王と王宮と祭祀場(朝廷)を設置すればいいわけです。

しかし、この連合にくみさない勢力もいました。狗奴國です。倭奴國の最も近くに位置する部族連合として半島との交易の権益を狙っていたと思われますが、九州の南半分VS西日本では勢力も提供できる物資も桁違いですから、渋々ながら倭國を承認したことでしょう。ただし倭國の官を入らせず、独自の王と官(将軍)を保持し、虎視眈々と北を狙うことになります。倭奴國・伊都國が自らの権力を名目上でも他国に委ねたのは、この狗奴國の脅威が差し迫っていたからかも知れません。

それに、伊都の倭奴國が権威と権力を握り続けた場合、しがらみと権益が大きくなり、東方諸国と大同団結することが難しくなります。「結局あいつの下かよ」と不満が燻り、狗奴國がつけこんでくるでしょう。そのため、文化圏の違いを乗り越えた新しい権威と政体、文化、価値観を築き上げねばなりません。その統合の象徴が卑彌呼であり、鬼道や銅鏡であり、纒向遺跡であり、前方後円墳だったのです。

◆Baba yetu,yetu uliye mbinguni yetu,yetu,Amina◆

◆Baba yetu,yetu uliye m jina lako e litukuzwe◆

今回はこれぐらいにしましょう。次回はようやく卑彌呼についてです。

【続く】

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