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【つの版】ウマと人類史:中世後期編13・土木之変

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 1424年7月、明朝の永楽帝は北方遠征からの帰還途中に65歳で崩御しました。相次ぐ大遠征や鄭和の大航海、朝貢貿易による出費で明朝は財政危機に陥っており、跡を継いだ皇帝たちは対外政策を見直して、内政に力を入れることになります。しかし、この間にオイラトが再び勢力を強めました。

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脱歓太師

 1424年、マフムードの子トゴンはケレヌート部の族長エセクを殺し、彼が担いでいたオイラダイ・カアン、別の族長バト・ボラドも倒して四オイラト部族連合をほぼ統一しました。また東の四十モンゴル部族連合(韃靼)の実権を握るアスト部のアルクタイを攻撃し、勢力を広げます。アルクタイはこれに対してオルク・テムルの子アダイを新たなカアンに擁立します。

 明朝では永楽帝の皇太子であった高熾が即位(洪熙帝)し、仁政を敷いたもののわずか一年で崩御します。その子の瞻基が跡を継ぎ(宣徳帝)、叔父の漢王高煦を処刑して専制政治を確立、自らの命令を実行する者として永楽帝同様に宦官を重用しました。彼は大越(ベトナム)や遼東(マンチュリア)から明軍を撤退させ、父の路線を継いで内政に力を入れるとともに、鄭和を南海・西洋に派遣して国威発揚につとめてもいます。この父子の時代は廟号の仁宗・宣宗から「仁宣の治」と讃えられ、明朝の最盛期でした。

 しかし対外遠征が行われないのをいいことに、オイラトのトゴンはアルクタイとアダイへの攻撃を繰り返し、1431年には本拠地のフルンボイル草原からも追い出してしまいました。アルクタイたちは大興安嶺東麓のウリヤンハイ三衛に逃亡し、これを撃破・駆逐して再起を図ります。三衛らはオイラトと手を結んでアルクタイを挟み撃ちにし、1434年にこれを滅ぼしました。

 1433年、トゴンは甘粛のエチナ地方にいたチンギス裔のトクトア・ブハを招き寄せて傀儡のカアンとし(タイスン・カアン)、アルクタイが擁立したアダイに対抗させます。アルクタイが滅ぶとアダイはエチナ地方に逃れ、明朝に従属していましたが、1438年に殺されます。ここにトゴン率いるオイラトがモンゴル高原を再統一し、トゴンは丞相チンサンに任命されて実権を握りました。大元大モンゴル国/モンゴル帝国の体裁は保っています。トゴンはトクトア・ブハにフルンボイル草原など高原東部を委ね、自分の姉を娶らせると、自らはナイマン以来の基盤である高原西部を支配しました。

 トクトア・ブハは、明朝や朝鮮の記録では「故元の後、韃靼の長」と記されますが、何家の末裔かは定かでありません。後世の史書『黄金史綱』によれば、エルベクの子ハルグチュクが妃オルジェイトとの間に儲けたアジャイの子とされます。エルベクはアリクブケ家のようですが、『蒙古源流』ではハルグチュクはエルベクの弟であり、ともにトグス・テムルの子でクビライ家であるとし、後世のトクトア・ブハの子孫もアリクブケではなくクビライ家だと主張しました。大元ウルスの祖クビライの子孫としたほうがアリクブケ家とするより箔がつくので、そう主張したのでしょう。アジャイも「父が死んだ時は妊娠三ヶ月で、母が再婚してから生まれた」と伝説にあり、出自の怪しさが伝わってきます。

土木之変

 1435年に宣徳帝が崩御すると、皇太子の祁鎮が10歳で即位し、正統と改元します(正統帝)。幼帝であるため太皇太后(祖母)の張氏が監国し、賢臣の三楊(楊栄・楊士奇・楊溥)が政治を行い、国内外は安定しました。しかし1442年に太皇太后が亡くなり、三楊も相次いで逝去すると、成長した天子は宦官の王振らを寵愛して国政を壟断させてしまいます。

 オイラトではトゴンが1440年頃に逝去し、子のエセンが跡を継ぎました。彼はカアンのトクトア・ブハとともに明朝へ朝貢し、友好関係を保つ一方、莫大な下賜品を部下たちに分配して国内の権勢を保ちました。明朝の記録において、トクトア・ブハ/脱脱不花は他の族長たちより上位の存在として承認され、「達達可汗(韃靼のカアン)」と呼ばれています。

 エセンは東西へ遠征して帝国を拡大し、東はウリヤンハイ三衛を服属させて女直・朝鮮にまで及び、西はハミやモグーリスターン、カザフ草原の遊牧民を攻撃しました。長らく分裂雌伏していたモンゴル高原の勢力は、久しぶりに東西に広がる大国となったのです。1447年にはティムール朝の君主シャー・ルフが逝去し、その帝国は後継者争いと外敵の侵攻で崩壊し始めます。

 また、エセンは明朝との朝貢貿易に依存し、明朝が定めた50人の定員を大幅に超える使節団を派遣して、莫大な金銀財宝を持ち帰らせました。明朝は出費に困り、1448年には使節団の半分にしか下賜品を与えず、エセンが申し込んだ皇女との婚姻も「通訳が勝手に約束したことだ」と拒絶しました。メンツを潰されたエセンは落とし前をつけるべく、トクトア・ブハとともに長城を越えて明朝へ侵攻を開始しました。内外にナメられたら終わりです。

 1449年7月、エセンは騎兵2万を率いて長城を越え、山西省北部の大同へ侵攻しました。トクトア・ブハはウリヤンハイ三衛らを率いて遼東へ侵攻し、明朝の帝都・北京を東西から脅かします。別の部隊は陝西方面に侵攻し、明朝は恐れおののきました。実権を握る宦官の王振は、25歳の正統帝をおだてあげて親征を要請します。朝臣たちは猛反対しますが押し切られ、正統帝は王振を総司令官として呼号50万の大軍を召集、北京を出発します。

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 この頃、北京の周囲には長城による防衛網が整備されていました。北京の西、大同盆地は二重の長城で囲まれ、居庸関が東側の出入口でした。

 明軍は居庸関を経て西へ進み大同へ向かいますが、豪雨により道路が寸断され、食糧輸送が困難となって動揺し、王振暗殺計画も発覚するなど混乱します。8月、大同にようやく到着すると、長城を守る前線部隊はほぼ全滅していました。これを聞いた王振は一方的に勝利を宣言し、大雨を理由に戦わずして撤退を開始しました。エセンは追撃をかけて散々に打ち破り、明軍は多くの犠牲者を出しながら這々の体で逃げ惑います。

 明軍は居庸関の手前、懐来県の土木堡という台地上の砦(堡)に到達します。しかし周辺の河川はオイラト軍に占領され、士気も練度も低い明軍は疲弊した上に内部分裂している有様です。エセン率いるオイラト騎兵2万は明軍を包囲して総攻撃を仕掛け、散々に撃破して半数を殺し、正統帝は捕虜となってエセンの幕営に連行されます。全ての元凶の王振は明の将軍に殺されましたが、中華の皇帝が野戦で夷狄の捕虜になるなど前代未聞の事態です。

 当のエセンも、皇帝を捕虜にしたという予想外の事態に困惑しました。彼は別に明朝を滅ぼして征服する意図はなく、脅しをかけて朝貢貿易で儲けて求心力を高めたりしたかっただけです。北京の朝廷は残っていますから、エセンは使節を派遣して身代金を要求し、有利な条件で講和しようとします。

 北京の朝廷は大混乱に陥り、南京への遷都論も持ち上がります。兵部尚書の于謙はこれを退け、皇太后の了承を得て正統帝の弟・祁鈺を即位させます(景泰帝)。正統帝は不在のまま太上皇帝(上皇)とされ、于謙は王振らの一族郎党を誅殺し、各地から援軍を呼び寄せて抗戦の構えを固めました。

 エセンは10月に居庸関を越えて北京に迫りますが防備を崩せず、やむなく上皇を捉えたまま撤退しました。于謙らはモンゴル/韃靼とオイラトの分裂を図り、トクトア・ブハに使者を派遣して朝貢貿易を承認します。エセンはトクトア・ブハが明朝と組んでオイラトを攻撃する気かと疑い、1450年に上皇を返還して講和を結びました。景泰帝と于謙は上皇を宮中に軟禁し、軍政改革を行って綱紀粛正を図り、エセンを圧迫します。

大元天聖

 皇帝を捕虜にしたにも関わらず、エセンは政治的な争いに敗れて撤退し、国内外に対するメンツは丸つぶれとなりました。トクトア・ブハはこれを契機として反エセン派を糾合し、1452年に挙兵します。エセンはこれを撃破してトクトア・ブハを殺し、彼の弟で自らの外甥にあたるアクバルジ晋王(あるいはその子ハルグチュク太子)をカアンに擁立しました。

 ただ彼らはトクトア・ブハを裏切ってオイラトについたとしてモンゴル人から評判が悪く、エセンによって同年のうちに殺されます。そして1453年、エセンは自らカアンに即位しました。

也先自立為可汗、以其次子為太師、來朝、書稱大元田盛大可汗、末曰添元元年。田盛、猶言天聖也。報書稱曰瓦剌可汗。(明史瓦剌伝)

 田盛・添元とは天聖・天元の字を明朝が書き換えたものですから、エセンは大元天聖大可汗と号し、元号を天元としたのです。しかしエセンの曽祖父ゴーハイ、祖父マフムード、父トゴンの男系血統は、少なくともチンギス裔ではありません。『蒙古源流』によればトゴンの母はエルベク・カアンの娘サムルですから、母方でチンギス裔の血を引いている可能性はありますが、それにしても娘婿の子孫です。チンギス・カンが1227年に崩御してから200年以上経ちますが、それでも「カアン/皇帝・可汗やカン/国王はチンギスの男系の末裔でなければならぬ」という王統思想は健在でした。

 少なくとも、これまでのオイラトの族長のうち誰一人として「カアン」はおろか「カン」を名乗った者はおらず、タイシ/大師とかチンサン/丞相としてカアン/皇帝の下位の称号を名乗っていました。それをエセンが突然称したのは、「天命がモンゴルからオイラトに移った」と明朝のように宣言したのでなければ、「実はチンギスの男系子孫である」と宣言したのに違いありません。可汗の称号に「大元」を用いたからには、クビライ家のご落胤であるとぐらい称したのかも知れません。『蒙古源流』でトクトア・ブハの先祖をクビライ家だと再定義したのと同じです。

 しかし、わざわざ御大層な称号を名乗って自らの地位を神聖化したのは、ここまでの状況を鑑みれば求心力が弱まっていた証拠です。また正式なクリルタイによる即位でもなかったらしく、たちまち各地で反乱が相次ぎます。実力でねじ伏せれば偽物でも本物になりますが、即位翌年の1454年に同じオイラトの族長のひとりアラク・テムルに敗れ、逃亡中に殺されました。

 エセン配下の武将でハラチン部(キプチャク人の子孫)の族長ボライは、アラク・テムルを討ち取って王宝と王母を確保し、東方のモンゴル王族モーリハイ(ジョチ・カサル家ないしベルグテイ家)と手を組み、トクトア・ブハの子マルコルギスをカアンに擁立します(ウケクト・カアン)。彼はエセンの姉がトクトア・ブハとの間に儲けた子で、まだ8歳でしたが統合の象徴として申し分ありません。実権を握ったボライは明朝に朝貢して地位を承認されますが、明朝との対立は継続しました。

 1457年、明朝では景泰帝が崩御し、直前のクーデターで上皇が復位、天順と改元しました(天順帝)。于謙らは粛清され、上皇を担ぎ上げた曹吉祥たちは権勢を振るいますが、まもなく粛清され、天順帝も1464年に38歳で崩御します。明朝は皇帝一代に元号は一つと決まっていましたが(一世一元)、彼は二回即位して元号も変えたため、同一人物を纏めて呼ぶ時は廟号で英宗と呼ばれます。オイラトが衰えたもののモンゴルの勢いは盛んになり、明朝は倭寇(南倭)とともに北方の遊牧民(北虜)に脅かされ続けます。

◆天◆

◆元◆

【続く】

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