【つの版】倭国から日本へ09・烏羽の表
ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。
562年の任那(大加羅)滅亡により、倭国は半島における直接の拠点を喪失します。これを回復するため、欽明天皇は新羅討伐の兵を起こします。
◆烏◆
◆羽◆
新羅討伐
欽明23年(562年)6月、天皇は新羅が任那を滅ぼしたことを怒り、新羅を懲らしめるという声明を発します。7月、大将軍の紀男麻呂を哆唎(全羅道における倭国の拠点)から、副将の河辺臣瓊缶を居曽山から進発させ、新羅を問責させました。二人は百済と協力して新羅を打ち破りましたが、河辺臣は敗れて生け捕りにされ、妻を敵将の妾にされる恥辱を受けました。
8月には大将軍の大伴連狭手彦が新羅を支援する高句麗を討ち、こちらは勝利を収め、その宮殿から財宝や美女を掠奪しました。しかし新羅・高句麗との戦いはこれで終わり、任那を回復することは結局できませんでした。欽明23年の後、欽明26年までは空白です。この年には高句麗人(亡命者か捕虜)が筑紫から山背へ遷されたといい、27年はまた空白です。
欽明28年(567年)、諸国に洪水が起きて飢饉が発生し、人が互いに食い合うほどで、近隣から穀物を運んで救いました。29年は空白です。欽明30年(569年)には百済王族の渡来帰化人・王辰爾の甥の胆津に吉備の白猪屯倉の田戸(戸籍)を作らせ、白猪史(しらいのふひと)の姓を賜い、児島屯倉を司る田令である葛城山田直瑞子の副官としました。
稲目薨去
欽明31年(570年)3月、蘇我稲目が薨去しました。前に推定したとおり482年の生まれとすれば90歳近い長寿で、欽明天皇即位時は60歳近くなります。大臣として年齢に不足はありませんが、子らの年齢からして系譜に1世代30年が抜けているとすれば欽明元年に30歳頃となり、60代で薨去したことになります。古代の系譜は割とよく1世代増えたり抜けたりしており、30年を足し引きするとちょうどよくなることが多々あります。つまり、こうです。
蘇我石川ー満智ー韓子ー○ー高麗ー稲目ー馬子ー蝦夷ー入鹿
蘇我稲目の墓と推定されるのが、明日香村阪田にある方墳・都塚古墳です。方40m余の階段ピラミッドめいた巨大な積石塚で、華北・高句麗・百済から伝わった形式です。この時代は大王墓・豪族墓の形式が前方後円墳から大型方墳へ移行する時期でした。
高麗の使者
同年4月、越国の江淳臣裾代が上奏して「高句麗の使者が越国の海岸に漂着しました。郡司(越国の豪族、道君)が隠しておりますので、私が報告します」と伝えました。天皇は人を遣わして使者を迎えさせ、山背国の相楽(信楽)に迎賓館を建設させました。越道君は「私が天皇(倭王)である」と使者を偽り、貢物を我がものとしていましたが、天皇の使者に道君が平伏したので偽りであると分かり、使者は道君を叱責して貢物を取り返します。使者は7月に近江に遷り、琵琶湖を南下して信楽に至り、饗応を受けました。
越国は継体天皇の出身地で、有力な豪族がいたようです。倭王(ヤマトの大王)の権力は、これら地方豪族には直接及ばず、服属する同盟国(附傭)として扱われていたことが『隋書』倭国伝にも書かれています。また越国など日本海側諸国は対馬海流で結ばれる新羅や高句麗と友好的で、百済に肩入れするヤマト王権とは路線が異なっていたこともわかります(継体は越前出身ですが、大伴・物部ら河内系の豪族に担がれたこともあり、倭国の大王として親百済外交を選びました)。筑紫君磐井のような反ヤマト派の豪族も一人や二人ではなかったのでしょう。
欽明天皇はこの陰謀を封じ込め、「ヤマトへ高句麗の使者が来たのに、越国が隠していた」というストーリーに書き換えて、高句麗の使者を大歓迎したわけです。越国もやむなく服属し、日本海側から来る半島の使者は近江・山背で饗応されることになりました。後世の渤海使も山陰や北陸・出羽に漂着し、山背(山城)や奈良(平城京)に入っています。
欽明崩御
欽明32年(571年)3月、倭国は新羅へ使者を派遣し、任那滅亡の理由を問責させました。高句麗の書状や貢物はまだ上奏されず(ヤマトの大王に宛てたものではなかったのでしょう)、留められていましたが、4月に欽明天皇は病気になり、同月に崩御しました。年は若干(不詳)とありますが、508年生まれとすれば60歳過ぎで、年齢に不足はありません。
陵は檜前阪合陵で、宮内庁によれば明日香村大字平田の平田梅山古墳に治定されます。墳丘長140mの前方後円墳で明日香村では最大ですが、30年も在位した大王の陵にしてはやや小さめです。また考古学的に発掘調査されておらず、年代もはっきりしません。
もう一つの候補として、橿原市の丸山古墳が挙げられます。6世紀後半に築造された剣菱型の前方後円墳で、墳丘長318mと奈良県最大であり、築造年代的にも規模的にもこの頃の大王墓としてふさわしい古墳です。また全国最大の横穴式石室があり、家型石棺が2つ納められています。『日本書紀』推古紀には推古20年(612年)に「皇太夫人の堅塩媛(蘇我稲目の娘)を檜隈大陵に改葬した」とあり、夫の欽明天皇の陵に合葬したようで、2つの石棺はこの2人のものと推定されています。欽明の皇后である石姫ではなく蘇我稲目の娘を合葬したのは、推古天皇の母が彼女であるため権威付けとして行ったことです。当然蘇我氏の権威も高まります。
敏達天皇
日本書紀巻第廿 渟中倉太珠敷天皇 敏達天皇
http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_20.html
石姫皇后の長男・箭田珠勝大兄皇子(八田王)は欽明13年(552年)4月に薨去しており、次男の渟中倉太珠敷尊が欽明15年(554年)ないし29年(568年)に皇太子となっていて、572年壬辰に彼が皇位を継ぎました(敏達天皇)。彼も年齢不詳ですが、『皇代記』に在位14年で48歳で崩じたとあり、即位時に35歳として538年頃の生まれ、父が30歳の時の子です。
4月15日に欽明が崩御した直後に即位せず、4月3日に即位したとあるので1年近く皇位が空白だったことになりますが、あるいは暦が誤っていてすぐ即位したのかも知れません。とりあえずこのままとします。
宮は「百済大井宮」とされますが、百済に遷都したわけではなく倭国の地名です。河内とも大和とも諸説ありますが、奈良県桜井市吉備の吉備池廃寺跡がそれであると考えられています。舒明天皇11年(639年)には百済大宮と百済大寺が建立されました。付近に百済人が住み着いていたのでしょう。
父や雄略・武烈の宮居した三輪山南麓からは西にあり、「磐余(いわれ)」と呼ばれる開けた地で、神功・応神・履中・清寧・継体らが宮居したとされます。東には鳥見山、南西には天香具山、西には耳成山があり、北には寺川が流れて大和川に通じています。
そして敏達天皇を輔佐したのは、物部尾輿の子・物部守屋と、蘇我稲目の子・蘇我馬子でした。馬子は626年に薨去しており、『公卿補任』に「在官55年」とあることから、逆算して西暦550年庚午の生まれ。午年生まれであることから「馬子」と名付けられたのでしょうが、この時まだ23歳でしかありません。守屋の年齢は不明ですが、馬子と同年代か年上でしょう。母方は物部氏の傍系ともされる弓削氏で、物部弓削守屋とも呼ばれました。
烏羽の表
敏達元年壬辰(572年)5月、天皇は前に漂着した高句麗の使者のいる相楽の館へ群臣を遣わし、貢物を調べ、国書を持って来させました。しかし高句麗の表(手紙)は難解で、多くの史(ふみひと、文書記録を司る役人)を召集して読ませましたが、3日かけても誰も解読できませんでした。この時、船史(ふねのふみひと)の祖で百済王族の王辰爾が読み解いたので、彼を側近くに仕えさせたといいます。また異説では、この表は黒い烏の羽に墨で書いてあったため誰も読めませんでしたが、王辰爾は羽を米を炊く湯気で蒸し、柔らかい絹布に羽を押し付けて、墨で書いた字を写し取ったといいます。
文書記録の役人たちが難しい漢字を読めなかったわけではなく、この文書はヤマトの大王ではなく越国の豪族に宛てて書かれた秘密文書でしょうから、暗号めいているのも当然です。百済人の王辰爾はそうした暗号解読の知識を持っていたのでしょう。
秘密を解かれてしまった高句麗の使者たちは「このまま本国に帰れば処罰される」と恐れをなし、副使らが夜中に大使を襲って殺してしまいます。そして「彼は貴国に無礼だったので殺しました」と天皇に報告し、7月に釈放されて帰って行きました。南から北へ帰るので南風に乗ります。
敏達2年(573年)5月(新暦6月)、高句麗の使者が再び越国に漂着しましたが、嵐に遭って船が壊れており、溺死者多数という有様でした。北から南へ行くのですから、北風が吹く頃に来ればいいと思うのですが(渤海使は冬に日本海を南下して来ていますが、難破した船も多くいました)。天皇は饗応せずに帰国させることとし、吉備海部直難波を派遣します。
7月、難波と高句麗の使者は越国の海岸で相談し、船を取り替えて共に高句麗へ行く(戻る)ことにしましたが、途中で難波は荒波を恐れ、高句麗の使者2人を海へ投げ込んでしまいます。そして8月に「巨大なクジラが船に噛み付いて沈めました」と報告しますが、天皇はデタラメだと怒って宮中の雑用係に降格しました。たぶんヤマト側も高句麗の使者を扱いかね、難波に命じて始末させたのでしょう。生き残った高句麗人は帰国できました。
敏達3年(574年)5月、三度高句麗の使者が越国に着岸し、7月には初めて倭国の都(百済大井宮)に来て「貴国の送使のうち大島首磐日は到着しましたが、もう一人は我が国の使者2人と同じ船に載っていたのに到着しません。どうしたのでしょうか」と問いました。天皇は難波を誅殺しましたが、このことで高句麗と倭国の国交は断絶してしまいます。高句麗からすれば倭の本国と手を結び新羅を牽制するチャンスだったのですが、惜しいことです。
なお、この年の2月には敏達天皇の異母弟妹・橘豊日皇子と穴穂部間人皇女の間に男子が誕生しました。名を厩戸皇子、いわゆる聖徳太子です。
日羅問題
敏達4年(575年)、宮を訳語田幸玉宮(おさだのさきたまのみや)に遷しました。また皇后に息長氏の広姫を立てましたが、11月に薨去し、翌5年(576年)に異母妹の豊御食炊屋姫尊を皇后としました。後の推古天皇です。広姫は押坂彦人大兄皇子と2人の皇女を産みましたが、子は皇位を継げませんでした。しかし欽明の他の子らの系統が断絶すると、非蘇我氏系である押坂彦人大兄皇子の子らが跡を継ぎ、以後現在の皇室まで継続しています。
新羅は北へ大きく勢力を広げ、一時は咸鏡道まで制圧していました。
この頃、新羅は倭国へしばしば使者を派遣し、任那を奪ったぶんとして通常より多くの貢物をしています。高句麗・百済・倭国が手を組んで新羅を攻めて来てはたまりませんから、平和を買うための外交努力を惜しんではなりません。しかし倭国は任那のことを忘れず、百済との関係を重んじており、敏達9年(580年)には新羅の貢物を受け取らずに返しています。百済は盛んに使者や僧侶、仏教経典を倭国へ贈り、難波に寺を築かせています。
敏達12年(583年)7月、天皇は任那復興計画を思い出し、百済にいる賢者の日羅(にちら)と計画を立てたいと言い出します。彼は火国葦北国造の阿利斯登の子で、達率(大臣)の位にあった倭系百済人でした。父は大伴金村の命令で百済に渡り、現地で日羅を儲けたといいます(父の名も任那系っぽいですが)。使者を遣わして日羅を倭国へ招聘しようとしたところ、百済王は惜しんで行かせようとしませんでしたが、日羅は密かに「百済王を脅迫しなさい」と使者に教えます。百済王は恐れ畏み、日羅らを派遣しました。
天皇は日羅を大いに歓迎し、群臣と共に国政を問いました。日羅は「戦争は国の大事なので、めったに行うべきではありません。まずは民力を3年休養し、多くの船を造って隣国の使者に見せ、百済王に出頭を命じ、任那の復興に協力的でない罪を問うのが良いでしょう」「百済人が筑紫に移住したいと伝えてきたら、謀略ですから壱岐・対馬に伏兵を置いて殺しなさい。侵略に備えて防備を固めるべきです」と答えます。しかし日羅と共に来た百済人は彼を暗殺し、倭国は犯人たちを葦北君に渡して殺させました。どうも百済は新羅と友好関係を結び、倭国に対して敵対的になってきたようです。
時、日羅、身光有如火焰、由是德爾等恐而不殺。遂於十二月晦、候失光、殺。日羅、更蘇生曰「此是、我駈使奴等所爲、非新羅也。」言畢而死。
日羅は伝説的人物で、「大晦日以外は体から炎のようなオーラを放っていたので殺せなかった」とか、死後に蘇生して「これは新羅人の仕業ではなく、私の部下の仕業だ」と言ってからまた死んだとか与太話が伝わっています。あからさまに欺瞞なので新羅の仕業なのでしょう。後世には百済の高僧で聖徳太子の師匠とされています。
◆炎◆
◆光◆
この間、577年には北周が北斉を滅ぼし、華北と蜀を統一しています。しかし北周は581年に隋に禅譲して滅亡します。また新羅では576年に真興王が薨去し、真智王、ついで真平王が即位しました。倭国では585年から蘇我氏と物部氏の争いが激しくなり、天皇(大王)を巻き込んだ闘争へと発展していきます。ブッダは寝ています。
【続く】
◆
つのにサポートすると、あなたには非常な幸福が舞い込みます。数種類のリアクションコメントも表示されます。