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【つの版】大秦への旅03・海西羅馬

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

西暦97年、後漢の西域都護の使者・甘英は安息(アルサケス朝)西界の條支に到達し、大秦について情報を集め、帰還し報告しました。彼自身は大秦に到達していないので伝聞に過ぎませんが、貴重な報告を聞いてみましょう。

宮崎市定のローマ帝国
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/235896/1/aak_18_43.pdf

◆SENATVS POPVLVS◆

◆QVE ROMANVS◆

海西経路

まず、『魏略』西戎伝の大秦国の記述を見ていきます。

大秦国は、別名を犁靬(riːl kan)という。安息・條支の西、大海の西に在る。安息国境の安穀(qaːn kloːɡ)から船に乗り、まっすぐ海を西へ向かう。順風に遇えば2ヶ月で到着するが、風が遅ければ1年、風がなければ3年かかる。その国は海の西にあるので、俗にこれを海西という。その国から河が出ており、西にはまた大海がある。海西には遲散城(l'il saːnʔ)がある。

大秦は東西を大海に挟まれているようです。ローマのあるイタリア半島や、ギリシアを含むバルカン半島は確かにそうです。犁靬と呼ぶのはなぜでしょうか。『史記』大宛列伝には「安息国の西はすなわち條枝で、北には奄蔡、黎軒がある」と記されますから、ローマ帝国が安息国の北(トルコ南部)まで勢力を広げたことから連想されただけで、実際の呼称ではないかもです。

国都からまっすぐ北に行くと烏丹城(qaː taːn)に到り、西南に進んでまた一つの河を渡るが、船で一日かかる。西南に進んでまた一つの河を渡るが、一日かかる。およそ大都市が3つある。

ややわかりにくいですが、出発地の国都をクテシフォン、安穀城(安谷城)をアンティオキア/セレウキアとしましょう。ユーフラテス沿いに北西へ向かうとすれば、烏丹城とはハッラーンかも知れません。この地は前132年からオスロエネ王国の領内にありました。ここから西南へ進んでユーフラテスを渡り、マンビジ(ヒエラポリス・バンビュケ、マブーグ)、アレッポ(ベロエア、ハラブ)、アンタキヤアンティオキア)を経てオロンテス川を渡り外港のセレウキア・ピエリアへ出るわけです。

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一方、安穀城から陸路でまっすぐ北へ進むと、海北に至る。またまっすぐ西に進むと海西に至り、またまっすぐ南へ進むと、烏遲散城(qaː l'il saːnʔ)を経て一つの河を渡る。渡るには船で一日かかる。そこから海の周りを経巡り、大海を6日かけて渡ると、その国都に到達する。

アンタキヤ、すなわち「シリアの」アンティオキアから陸路で北上すると、「シリアの門」を超えてイスケンデルン(イッソス)に出ます。さらに北へ向かうと、アナトリア半島を縦断して黒海沿岸に出ます。そこから西へ向かえば、イスタンブル(ビュザンティオン)でボスポラス海峡を渡り、海西、すなわちヨーロッパ大陸側に着きます。

また西へ進んでトラキア、マケドニアを通り、南へ進むと烏遲散、おそらくアテナイアテネ)に着きます。先に出ていた海西の遲散城は烏が脱落した形でしょう。その近くに大きな川はありませんが、外港のピレウスから出て西のコリントスへ向かい、運河はまだありませんから船を乗り換え、コリントス湾、パトラ湾を通ってイオニア海へ抜けます。

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後はブリンディジかターラントでイタリア半島に上陸し陸路を進むか、メッシーナ海峡を抜けてティレニア海へ出、北上すればローマです。6日で済む距離でもなさそうですが、パルティアでの伝聞なので距離は適当です。

なお甘英が安息西界に来る40年以上前、キリスト教の使徒パウロがこのあたりを旅行しています。彼はビテュニアやトラキアに行っていませんが。

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大秦国制

いよいよ帝都ローマに到着しました。順番に読んで行きます。

国には小さな城邑が合計400余りあり、東西南北は数千里。その王(ローマ皇帝)は河(テヴェレ川)と海(ティレニア海)のほとりに都し、石で城郭を築いている。土地には松柏、槐梓、竹葦、楊柳、梧桐や百草がある。民は田に五穀を植え、馬、騾馬、驢馬、駱駝を飼育して乗用とし、養蚕を行う(野繭か)。奇術や幻術を使う者が多く、口から火を吐いたり(火吹き)、自ら縛った縄目を抜け出す芸を見せたり(ロープマジック)、12個のお手玉を巧みに弄んだりする(ジャグリング)。

この時代には既に奇術や大道芸が流行っていたようです。世界中の人々がやってくる大都市ですから、そうしたエンタメもあったでしょう。

その国には常には君主がおらず、国の中に災異があると賢人が立てられて王となり、もとの王は放逐されるが恨みはしない。

ローマは(名目上は)王政ではなく共和政の国家です。主権は元老院(セナートゥス)とローマ市民(ポプルス)にあり、皇帝と意訳される存在は、たまたま様々な特権を一身に集めた人物がおり、たまに世襲がなされるというだけに過ぎず、王や皇帝ではありません。当時の皇帝ネルウァは前任のドミティアヌスが暴君で暗殺された後を受けて擁立された人物で、老齢のため西暦98年にトラヤヌスへ譲位しました。あるいは国家の非常時に選出される独裁官(ディクタトール)のことを伝聞して言ったのでしょうか。

人々は長大平正(背丈が高く、整った体つき)で、中国人に似ており、胡の服を着る。自ら云うには、もと中国の一別種で、常に中国と使者を通じようと望んでいたが、安息がその利益を図って通過させないのだという。

なんと、ローマ人は中国人の別種だというのです。『後漢書』西域伝では「だから大秦というのだ」としますが、たぶん甘英の思いつきか、彼の情報源となった人物のおべっかでしょう。「自らいうには」と称して自分の思いつきを記すのはヘロドトスがやっています。パルティアがチャイナとローマの間の交易路を抑えていたのは確かですし、パルティア在住ギリシア人はしばしばローマと通じてパルティアに逆らっています。

その文字の書き方は胡風である(漢字でない)。その制度では、公私とも宮殿や家屋を2階建てにし、(軍隊が)進むには旗を立てて鼓を撃ち、(貴族は)白い傘蓋の小さな車に乗る。駅伝のための施設を置くのは中国と同じである。安息から海北を巡って大秦の国都に至るまで人民は絶えることなく、10里(4.34km)ごとに1亭、30里(13km)ごとに1置(駅伝の馬を替える駅舎)がある。盗賊が出ることはないが、猛虎や獅子が害をなすので、道を行くには群れをなして行かなければならない。

ローマ街道を用いた駅伝施設についての記述です。公用宿(マンシオネス)は25-30kmごと、車両や馬を交換する駅舎(ムタティオネス)は20-30kmごとに設置され、速達は1日80kmを進んだといいます。ライオンはともかく、トラはローマ帝国領には分布していませんが、カスピトラはカフカースから中央アジアにかけて分布していたようです。盗賊が出ないのは治安の良い証拠ですが、実際は割と出たようです。

その国には小王(属州総督)が数十人置かれている。王(皇帝)の治める城(ローマ市)は周囲が100余里(43.4km)あり、官吏の各部署(官曹)や行政文書がある。王は5つの宮殿を持ち、各々は10里(4.34km)離れている。王はある日の朝に一つの宮殿で事(訴訟や政治案件)を聴き、晩はそこに宿泊すると翌朝には別の宮殿へ行き、5日でひとめぐりする。

皇帝の宮殿は「ローマの七丘」のうちパラティヌスに置かれ、宮殿や豪邸をイタリア語でPalazzo,英語でPalaceと呼ぶようになりました。カピトリヌスは神殿がある聖地として宮殿が置かれませんでしたが、今はローマ市庁舎があり、他の丘にも大統領官邸や教会、博物館が立ち並んでいます。5つの宮殿というのは七つの丘が訛って伝わった話でしょうか。

36人の将軍が置かれて会議するが、ひとりでも欠けていれば行わない。王が出て行く時は従者に革袋を持たせ、訴訟や意見を述べる者があればその言葉を書き付けて袋に入れ、宮殿に帰ってから読んで裁く。水晶(ローマガラス)で宮殿の柱や器物、弓矢を作る。

ローマの元老院議員は600人もいますから36人は少なすぎますし、属州総督がローマに集まって会議したりもしません。皇帝の顧問らの諮問会議であるコンシリウム・プリンキペスのことでしょうか。

また本国から枝分かれして封建された小国があり、澤散王、驢分王、且蘭王、賢督王、汜復王、于羅王という。その他にも小王国は甚だ多く、いちいち詳しく記すことが出来ない。

ローマ帝国は本国であるイタリア半島の他、多数の属州(プロウィンキア)から構成されていました。自治都市や属国(友邦国)も多数あります。各国については後から出てきますので、その時にやります。

大秦産物

金銀を銭とし、金銭1つが銀銭10にあたる。

銀銭をデナリウス銀貨とすると、アウレウス金貨1枚につき25枚のレートです。4デナリウスにあたる4ドラクマ銀貨とすれば、6.25枚で1アウレウスです。セステルティウス銅貨は4枚で1デナリウス、100枚で1アウレウスです。どういう計算をしたのでしょうか。

その国では細絺(目の細かい織物)を産出する。…細布を織りなし、水羊の柔毛を用いるといい、名を海西布という。この国では六畜はみな水から出るというが、羊毛だけでなく樹皮や野繭の糸を用いるともいう。毛氈や絨毯、織帳の類もみな素晴らしく、その色は海東諸国(パルティア等)のものより鮮やかである。また常に中国の絹糸を得たいと求めており、これを解いて胡風の綾絹に仕立てるので、しばしば安息諸国と海中で交易を行う。海水は苦くて飲むことが出来ず、往来する者はその国中(中国、チャイナ)へ到りたいと望んでいる。

いわゆる「シルクロード」、チャイナとローマの絹取引に関する記述です。はチャイナ原産で、長く西方へ輸出され続け、仲介する諸国の商人に多くの富をもたらしました。ギリシア人やローマ人は東方の果てにセリカ(絹の国)があり、セレス人が住むと書き記しており、これはチャイニーズだとも遊牧民であるともいいます。パルティアにとってローマと漢が直接取引するようになっては損ですから、甘英をローマへ行かせなかったのです。

山からは玉(翡翠)に似た九色の石を産出する。その色は青・赤・黄・白・黒・緑・紫・紅・紺である。今、伊吾(ハミ)の山中にも同類の九色の石がある。陽嘉3年(134年)、疏勒(カシュガル)王の臣槃が海西の青石と黄金の帯各々一つを献上したことがある。また『西域旧図』に「罽賓・條支の諸国は綺石(宝石)を産する」というのがこれである。その他にも大秦には様々な金銀財宝、珍獣や香料などがある。

どんな財宝があるかは煩雑なので省略します。いずれもローマに世界中から集まってきたものでしょう。

分枝小国

大秦の道は、既に海北に陸路が通じており、また海に沿って南に進むと、交趾七郡(ベトナム)の外の蛮夷の近くに出る。また海路は益州・永昌(雲南省西部)にも通じており、永昌が珍しいものを出すのはこれによる。以前には海路が通じていることだけが論じられ、陸路があるとは知られていなかった。いまその大略をこのように述べ、その民の人口や戸数は詳らかにすることができない。葱嶺(パミール)から西ではこの国が最大である。

魏略が書かれた時代、交趾は孫呉、益州は蜀漢が支配下に置いていました。『後漢書』によると桓帝の延熹9年(166年)、日南郡(ベトナム中部)に「大秦国王安敦」の使者が到達したといいますから、漢とローマの間は南の海路で繋がっていたのです。これについては後で述べます。魏は南海航路を抑えられていませんが、陸路でも大秦国へ通じることができるわけです。

諸々の小王を置くことは甚だ多く、主要なものは以下の通りである。澤散(rlaːɡ saːns)王は大秦に属し、その治所は海の中央にある。北の驢分までは海路で半年、風が速い時は一ヶ月で着く。安息の安穀城に最も近く、西南の大秦の都までの里数はわからない。

安穀城の近くで海の中にあるというのですから、キプロス島かクレタ島でしょうか。あるいは「海」を砂漠とすれば、シリア南部からヨルダンにかけて割拠していたアラブのガッサーン部族でしょうか。西南へ行くとエジプトやリビア、カルタゴあたりへ着きそうですが。

驢分(b·ra pɯn)王は大秦に属し、治所は大秦の都から2000里(838km)離れている。驢分城から西の大秦へは、飛橋という長さ230里(100km)ある橋で海を渡り、西南へ向かい、海沿いに西へ行く。

キプロスかヨルダンの北でローマの東838kmというと、マケドニアでしょうか。アドリア海の南端のオトラント海峡は幅85kmほどで、橋など架けようもありませんが、船がイタリアとギリシアを繋いでいます。西南へ向かい西へ行くとシチリア島にたどり着きますが。

且蘭王は大秦に属する。思陶国からまっすぐ南に進んで川を渡り、そこからまっすぐ西へ行くこと3000里(1302km)で着く。道は川の南に出て、西に行き、且蘭からまた西へまっすぐ行くと600里(260.4km)で汜復国に着く。(大月氏からの)南道とは汜復で合流し、西南に賢督国がある。且蘭と汜復の南には積石があり、その南に大海があって、珊瑚や真珠を産出する。

わかりにくいですが、逆算して考えてみましょう。南に大海があって珊瑚や真珠を産出するというのなら、紅海のことでしょうか。とすると積石とはピラミッドで、汜復とはエジプトのことでしょうか。エジプトのアレクサンドリアから東に260km進むと、スエズ運河北端のポートサイドですが、古代にはスエズ運河はまだありません。ポートサイドの東260kmとするとエルサレム付近です。且蘭とはエルサレムでしょうか。エルサレムから東に1302kmも進むとクテシフォンを通り越してザグロス山脈か、イランの町シューシュタルです。思陶国とはここのことでしょうか。

且蘭、汜復、斯賓、阿蠻の北に山があって、東西に連なっている。大秦の海の東西には各々山があり、南北に連なっている。賢督王は大秦に属し、その治所は汜復から600里離れている。汜復王は大秦に属し、その治所は東北の于羅を去ること340里(147.56km)で、海を渡ったところにある。于羅は大秦に属し、その治所は汜復の東北に川を渡ったところにある。于羅から東北に行くとまた川を渡り、東北の斯羅に行くにはまた川を渡る。斯羅国は安息に属し、大秦に接している。

わからなくなってきました。ポートサイドの西南260kmというと、ファイユーム地方でしょうか。于羅はアリーシュでしょうか。斯羅はシリアなのでしょうか。斯賓や阿蠻はどこでしょうか。そもエジプトの北に山脈があるわけもありませんし、アルプスやバルカン山脈でないなら、アナトリアやアルメニアの高原地帯のことでしょうか。魏志倭人伝の旁国めいて不可解ですが、さらに進みましょう。

流沙西極

大秦の西には海水があり、海水の西には河水がある。河水の西南北に行くと大山がある。その西に赤水があり、赤水の西に白玉山がある。白玉山には西王母がおり、西王母の西には流沙があり、流沙の西には大夏国、堅沙国、属繇国、月氏国がある。四国の西に黒水があり、伝聞するところでは西の極だという。

ローマの西にはティレニア海があり、その西にはイベリア半島やアフリカ大陸があります。その彼方に西王母が住む山や流沙があるのはまだしも、大夏や月氏がいるというのです。いったいどういうことでしょう。まさかアトランティス大陸やアメリカ大陸でしょうか。

◆海◆

◆西◆

【続く】

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