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【つの版】ウマと人類史:近世編01・海洋進出

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。今回から近世編です。

 近世という時代区分がいつからいつまでかは諸説ありますが、つのはシンプルに今から500年前1522年頃)を起点としてみます。日本は戦国時代に突入していますが、500年前の世界はどんな様相だったのでしょうか。

◆世界を◆

◆リメイク◆

韃靼割拠

 1521年、明朝では嘉靖帝が即位しました。その北の大元大モンゴル国(北元・韃靼)では、この頃ダヤン・ハーンが亡くなり、子のバルス・ボラト、孫のボディ・アラクが即位しています。ボディ・アラクはダヤン・ハーンの長男トロ・ボラトの子で、父が祖父より先に死んだため、チャハル部を相続してハーン(皇帝)の位を約束されていました。しかしオルドス部のジノン(晋王)であったバルス・ボラトは「ボディ・アラクはまだ若い」として自らハーンに即位します。ボディ・アラクはこの叔父の政権を打倒し、1520年頃にハーンに即位しました。バルス・ボラトの子らはボディ・アラクに服属し、オルドス部とトゥメト部を統治しています。

 明朝の西ではモグーリスタン・ハン国が東西に分裂し、東のトルファン・ハン国(ウイグリスタン)と西のヤルカンド・ハン国(カシュガル、タリム盆地)に分かれていました。その北の草原地帯(ジュンガル盆地やセミレチエ)はオイラトやカザフの割拠するところとなり、両国はオアシス都市国家群の連邦となっていきます。その南、チベット高原はパクモドゥパ政権が内乱で衰退し、外戚リンプン氏が勢力を伸ばしていました。チベットはのちのモンゴルやオイラトとも深く関わって来ます。

 モンゴル高原の北西にはシビル・ハン国、その南にはカザフ・ハン国、さらに南にはシャイバーニー朝(ブハラ・ハン国)がありました。王家はいずれもチンギス・カンの長男ジョチの末裔です。イラン高原はサファヴィー朝の統治下にあり、その国教たるシーア派イスラム教が広まっていましたが、オスマン帝国に敗れて威信は低下しています。

 ティムール朝の王族バーブルは、シャイバーニー朝に故郷を追われてアフガニスタンのカーブルへ逃れました。彼はサファヴィー朝の支援を得てシャイバーニー朝と戦ったのち、南に勢力を広げるべくパンジャーブへ侵入し始め、デリー・スルタン朝のひとつローディー朝と戦っています。ローディー朝はアフガン人の傭兵集団が建てたイスラム王朝ですが、名君シカンダルが1517年に逝去して統制を失い、内乱状態に陥っていました。

 ウラル山脈の西側では、ジョチ・ウルスの後継国家カザン・ハン国がヴォルガ川中流域を抑え、西のモスクワ大公国と争っていました。南のアストラハン・ハン国、ノガイ・オルダ、クリミア・ハン国はカザンを支援し、クリミアからは王族が送り込まれてハンに立てられています。モスクワはクリミアと対立し、カザンと激しく争いました。そのクリミア・ハン国はジョチ・ウルスの正統を継ぐ盟主として周辺諸国に権威を振るいつつ、南のオスマン帝国を宗主としていました。

 これら中央ユーラシアの諸政権は、多くがモンゴル帝国の後継国家です。モンゴルの本家たる大元ウルスはモンゴル高原サイズの帝国として再編されましたし、モグーリスタンもバーブルの政権(ティムール朝/ムガル帝国)も、ジョチ裔の諸国もモンゴル帝国が分かれたものです。モスクワ大公国はジョチ裔のハンを長らく宗主として仰ぎ、貢納していました。

 これらモンゴル帝国の末裔を、明朝では韃靼(Dada、だったん)と呼び、ペルシアやモスクワではタタール(Tatar)、西欧ではタルタル(Tartar)と呼びました。もとはテュルク諸語で「他の人々」を意味する語ですが、モンゴルがテュルクにそう呼ばれたのが伝わったのです。彼らの住む領域はタルタリアと呼ばれ、かつての「スキティア」と同じように、クリミア・ハン国やユーラシア北部を漠然と指していました。

 rが増えたのは、彼らが凶悪な蛮族であることを強調するためか、ギリシア神話で地獄・奈落を表すタルタロス(Tartaros)と混同されたためです。突然東の彼方からやってきて殺戮や掠奪を行う騎馬遊牧民たちは、欧州の民からは「地獄からやってきた」とみなされたのでしょう。フン族もゴート人から「悪霊と魔女がまぐわって生まれた」とか言われています。
 なんか最近「19世紀初頭まで世界を支配した白人のタルタリア帝国が存在し、核兵器によって滅ぼされた。それはディープステートによって隠されている」とかいうスピ系の陰謀論が撒き散らされていますが、どう見てもロシアの陰謀です。お気をつけ下さい。実際のところ世界はニンジャによって支配されており、古事記にも暗号の形で記されています。

海洋進出

 オスマン帝国に陸でも海でも脅かされていた欧州諸国は、活路を求めて大西洋へ進出し、アフリカ大陸の沿岸部を回ってスワヒリ文化圏に到達しました。ヘロドトスによるとフェニキア人もリビア(アフリカ)大陸を陸沿いに一周し、紅海に入ってエジプトに戻ったといいますから、それを真似たのです。インド洋は古代から貿易船が行き交っており、マルコ・ポーロによる報告もありました。ヨーロッパ人はそれに便乗して南アラビアやペルシア、インドや東南アジア、ついにはチャイナや日本にまで到達したのです。莫大な富をもたらすこの航路をつなぐため、各地の港が攻め落とされ、ヨーロッパ人の入植地になりました。オスマン帝国に対抗するためもあり、周辺諸国はヨーロッパ人と手を結び、銃や大砲を輸入していきます。

 また、大地が丸いことは当時の科学知識では常識でしたから(太陽は地球の周りを回るとは思われていましたが)、コロンブスは「西廻りでインドへ到達できる」と考え、1492年にスペインを出て大西洋を西へ進みました。すると意外と近くに島々があったので、これをインディアスと呼び、住民をインディオ(インド人)と呼びます。1498年にコロンブスは広大な陸地に上陸しましたが、アジアのどこかだと信じていました。

 まもなくアメリゴ・ヴェスプッチがこの大陸を調査し、アジアではない未知の大陸であると結論、1507年にドイツの地理学者ヴァルトゼーミュラーによって「アメリカ」と名付けられました。

 スペイン人やポルトガル人は、この新しい大陸に次々と進出し、先住民を駆逐して征服します。先住民は火薬もウマも鉄器も知りませんでしたが、それなりに高度な文明を築いており、抵抗したり従ったりします。しかし欧州からもたらされた疫病で大ダメージを受け、人口が激減しました。1521年にはメキシコのアステカ皇帝クアウテモックが捕らえられ、アステカ帝国が滅亡しています。1520年にはマゼランが南アメリカ南端のマゼラン海峡を通って太平洋に到達、これを横断して1521年にフィリピンに到達しました。彼はこの地で戦死しましたが、部下たちはインド洋南部を横断してアフリカ大陸に着き、1522年にスペインに戻っています。ついに人類による地球一周が成し遂げられたのです。

 ヨーロッパ諸国による海洋進出と世界征服は、北アフリカのイスラム諸国や東方のオスマン帝国に対抗するためでした。内陸ユーラシアは河川交通で繋がっていましたが、多くはウマやラクダなどによる陸運が頼りです。しかるに海運は、ウマでは通れぬ海上を遥か彼方へ進むことができ、莫大な荷物を運ぶことが可能です。船に大砲を積めば遠くから港町や敵船を攻撃できますし、兵士を積んで運べば遙か遠方へも攻め込むことが可能です。

 こうしてヨーロッパ諸国は、内陸ユーラシア世界を差し置いて物凄い速度で地球各地へ進出しました。莫大なカネと情報が飛び交い、世界は一体化していきます。モンゴル帝国の交易網はユーラシア全土とインド洋をまとめ上げましたが、ヨーロッパ諸国はこれに西アフリカと南北アメリカを加え、大西洋・太平洋・インド洋を繋いだわけです。また欧州に雪崩込んだ富は社会を混乱させ、ルターに始まる宗教改革と、それに伴う戦乱も勃発しました。

 オスマン帝国も、こうした海洋進出の時代と無縁ではありません。オスマン海軍は黒海・地中海のみならず紅海やインド洋にも進出し、ポルトガルやスペイン、ヴェネツィアの艦隊と渡り合いました。1513年、オスマン海軍提督ピーリー・レイースは当時の最新情報を用いた詳細な世界地図と航海案内書を皇帝セリム1世に献上していますが、そこにはすでに南アメリカ大陸が描かれています。

◆船◆

◆地図◆

 今から500年前の世界はこのような有様でした。1520年にオスマン帝国皇帝に即位したスレイマン1世は、46年もの治世の間に帝国をさらに拡大し、欧州諸国と渡り合うことになります。

【続く】

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