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【つの版】ウマと人類史:中世後期編12・鄭和下西

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 明朝の永楽帝は、東は日本や朝鮮、西はティムール朝やモグーリスターンを友好国とし、南はベトナムを、北はモンゴルやオイラトを討伐して帝国を広げました。北東の女直族も明朝に従い、羈縻支配を受け入れます。さらに永楽帝は鄭和を南海に遣わし、諸国に明朝の権威をアピールしました。

◆碧藍◆

◆航線◆

三保太監

 鄭和はもとの姓を馬、初名を三保(三宝)といい、西暦1371年に現在の雲南省昆明市晋寧区で生まれました。出自は回族(ムスリム)で、馬姓はムハンマド(馬哈麻)の子孫であることに由来します。小字は和、名を文彬、ムスリム名はハーッジュ・ムハンマド・シャムスッディーンといいます。

 先祖のウマル・シャムスッディーン(1211-1279年)は中央アジアのブハラ出身で、預言者ムハンマドの娘婿アリーの子孫であるサイイド(聖裔)を称し、サイイド・アジャッル(高貴なサイイド、賽典赤)と呼ばれていました。彼はチンギス・カンの中央アジア遠征の時モンゴルに降ってカンの側近となり、オゴデイの時に燕京の代官をつとめ、モンケの時には燕京路総管として南征の兵站を担当しました。クビライの時には陝西四川行中書省平章政事(チャイナ西方の行政長官)に任命され、1274年には雲南行省の平章政事を拝命します。彼は雲南の開発に尽力し、1279年に逝去した時は大いに惜しまれて王位を追贈され、彼とその子孫は長く敬意を払われました。

 彼の孫アブー・バクルはクビライとその孫テムルに仕え、モンゴル名バヤンを授かって高位高官を歴任し、中書省平章政事(中央政府の宰相、総理大臣)にまで登り詰めましたが、1307年にテムル・カアンが崩御すると政争に巻き込まれて殺されました。彼の孫は雲南に滇陽侯の爵位を持ち、イスラム教の聖地マッカへの巡礼(ハッジ)を行ったらしく、記録では馬哈只(ムハンマドの子孫であるハーッジュ/巡礼者)と呼ばれています。馬三保、のちの鄭和は彼の次男で、バヤンの曾孫、サイイド・アジャッルの六世孫です。

 彼が生まれた頃、すでに大元朝廷はチャイナの大部分を反乱軍に奪われ、モンゴル高原へ逃亡していました。雲南はクビライの六男フゲチの子孫・梁王バツァラワルミが統治していましたが、四川の夏国は1371年に明朝に征服され、梁王国も明朝から服属を呼びかけられています。1382年、梁王国は明朝に攻め滅ぼされ、梁王は自決、馬哈只も戦死しました。馬三保は捕虜として応天府に連行され、去勢されて宦官となり、燕王朱棣に授けられました。

 1399年に始まった靖難の変において、若き馬三保は燕王のもとで勇敢に戦い、燕王が即位して永楽帝になると国師の道衍禅師の弟子となって菩薩戒を授かり、福吉祥の法名を賜ります。1404年、永楽帝は彼を召し出して還俗させ、河北の鄭州(滄州市任丘か)で功績を挙げたことからの姓を下賜し、宦官を統率する太監(内官監の太監、官至四品)の位を授かります。これより彼は鄭和と名乗り、また三保太監とも呼ばれることになります。

航下西洋

 永楽3年(1405年)6月、34歳の鄭和は応天府(南京)において、永楽帝より南海(南シナ海)や西洋(インド洋)諸国へ船団を指揮して向かい、明朝の威光を知らしめて朝貢させるよう命じられます。

 明朝は洪武4年(1371年)以来「海禁」の政策をとっており、外洋船の建造と民間船舶による他国との通商を禁じていましたが、唐宋以来活発化していた南海貿易や日本との貿易は取り締まりきれず、倭寇が盛んに密貿易を行っていました。永楽帝は海禁政策は維持しつつ、国家プロジェクトとして朝貢貿易を行い、世界帝国としての国威発揚と海上の平和維持活動を同時に行おうとしたわけです。実際1404年には足利義満の使節を歓迎して彼を「日本国王」に冊立し、貿易を許可しています。ただ朝貢貿易は明朝にとって負担が大きいため(明朝の威光を示すためには朝貢品を上回る莫大な財宝をバラ撒かねばなりません)、経済的理由というわけではなく政治的理由です。

 なお「1403年に鄭和が暹羅(シャム、タイ)や琉球・日本に派遣された」という伝説もありますが、『明史』や同時代史料には見えません。近現代のチャイナでは政治的意図からそう主張しているようですが。

 海外に権威を示すため、永楽帝は巨大な船団を組織しました。『明史』によると全長42丈(約131m)余の大船62隻、乗組員総数2万7800名余りからなる大艦隊で、旗艦は「宝船ほうせん」と呼ばれました。その幅は18丈(56m)、マストは9本あり、誇張だとして小さく見積もっても長さ20丈(61.2m)はくだらないともいいます。

 永楽3年冬、鄭和らは応天府龍江港を出発し、蘇州府太倉州(江蘇省蘇州市太倉)の劉家河から外海に出ました。ついで福建省の長楽、泉州を経て、チャンパ王国の港であった現クイニョンに到達します。冬に出港したのは、北風に乗って南へ行くためであり、帰りは夏の南風に乗って戻ります。

 当時チャンパ王国は北の胡朝大虞国に侵攻され、明朝に救援を要請しています。これを受けて1407年には明軍が胡朝に侵攻、攻め滅ぼすことになりますが、鄭和の第一次航海の時はまだ様子見です。

 鄭和らはここから南に進み、永楽4年(1406年)6月末にジャワ島のスラバヤに到達しました。ここには13世紀末からマジャパヒト王国があり、ボルネオ・スマトラ・マレー半島に及ぶ広大な領域を支配下に置いていましたが、この頃には東西に分裂して互いに争っており、鄭和の部下の一人が西王国に襲撃されて死亡しました。鄭和は西王国に抗議し、賠償金を支払うことを約束させています。

 次いでスマトラ島のパレンバンに寄港しますが、施進卿と陳祖義という二人の華僑が互いに争っており、施進卿は鄭和と手を組んで陳祖義を打ち破りました。施進卿は明朝に朝貢して官位を授かっています。パレンバンはもとシュリーヴィジャヤ王国の都でしたが、マジャパヒト王国に滅ぼされ、残党はマレー半島に渡ってマラッカ王国を建てています。

 鄭和らはマラッカ海峡を抜け、スマトラ島北端のサムドラ・パサイ王国(アチェ州)を経由し、ベンガル湾を横断してセイロン島(スリランカ)に至り、永楽5年(1407年)初めにインド西南部の古里国(ケララ州コーリコード、英名カリカット)に到達しました。鄭和らは古里国王に銀印を授け、記念の石碑を建立して文字を刻むと、同年9月に帰還しました。

 帰国した鄭和は永楽帝に海外諸国の事情を報告し、朝貢品や捕虜などを持ち帰ります。しかしゆっくりする暇もなく、すぐに再出発の勅命が下され、永楽5年末には第二次航海が始まります。鄭和らは前回と同じルートを辿って諸国に永楽帝からの勅書を伝え、チャンパでは分隊をタイのアユタヤに派遣しています。現在のタイ王国の地は古来クメール王朝の領土でしたが、13世紀にクメール王朝が衰えると雲南から南下したタイ族が独立しました。

 アユタヤ王朝は先行するスコータイ王朝を併呑して、ほぼ現在のタイ王国の領域を支配し、カンボジアのクメール王朝を圧迫していました(1431年に併呑)。東にはラオスのラーンサーン王朝、南にはマラッカ王国が栄え、アユタヤの圧力に対抗するため明朝に朝貢しています。

 鄭和ら本隊は再びコーリコードを訪問し、永楽7年(1409年)2月にはセイロン島に漢文・タミル語・ペルシア語が刻まれた石碑を建て、同年夏に帰国しました。永楽帝はすでに第三次航海の準備を整えて待っており、帰るや否や9月には再出発させます。同じ航路でコーリコードまで到達し、帰路にはセイロンのガンポラ王ヴィジャヤバーフが襲撃してきたのを迎撃、王とその家族を捕虜にして、永楽9年(1411年)7月に帰国しました。

混一疆理

 永楽帝は三度に及んだ大航海の結果に満足せず、今度はインドからさらに西へ船団を送ることにします。モンゴル帝国の時代にはユーラシア全域およびアフリカ沿岸部の地図情報が結びついて、あまり正確ではありませんが西半球を除く世界地図がほぼ完成しており、インドの彼方にも多くの国があることは知識人なら知っていました。マルコ・ポーロも帰路は海路です。

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 1402年に朝鮮で作成されたという『混一疆理歴代国都之図』は、先行する地理情報を合体させたものです。クビライの晩年の1286年にはペルシア人天文学者ジャマールッディーンにより「天下地理総図」が、1297-1320年には道士の朱思本により九域志・輿地図が作成され、1329-33年に編纂された『経世大典』にはイスラム世界の道路図が収録されています。1319-38年頃には李沢民が『声教広被図』を、1360年以後には清浚が『混一疆理図』を作成し、これらに朝鮮の地図、日本列島の地図が継ぎ足され、イスラム世界でのインド以西の地理情報も付け加えて造られました。

 朝鮮半島とチャイナが異様にでかく、チャイナと東南アジアとインドがひとかたまりになり、日本(東でなく南に伸びています)や西洋諸国が小さく描かれていますが、朝鮮やチャイナの地図にアフリカやヨーロッパ諸国が合わせて表されるのは画期的なことでした。中世西洋やイスラム世界の地図でもチャイナや朝鮮・日本は不正確に縮小されて描かれています。

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 しかし南京とコーリコードまでは2年で往復できますが、その先は未知ではないとはいえ、相当な期間と負担がかかることは明らかです。永楽帝は入念な準備を行うこととし、永楽11年(1413年)冬に出発させることとしました。鄭和は準備期間中に故郷へ帰って祖先の祭祀を行い、ペルシア人通訳を雇って大旅行に備えています。

 第四次航海において、鄭和らはコーリコードへ到達したのち、アラビア海を渡ってペルシア湾の出口にあたるホルムズ港(忽魯謨斯)に達しました。マルコ・ポーロの上陸地点です。当時はイランと中央アジアを支配するティムール朝の統治下にあり、君主シャー・ルフは明朝と友好関係を結んでいましたから、鄭和らは大いに歓迎されています。

 一方、スマトラで別れた分隊はインド洋を西へ進み、モルディブ諸島(溜山国)を経由してモガディシオ/モガディシュ(木骨都束)に到着しました。アフリカ大陸東岸、現在のソマリア南部にあたります。

 このあたりは13世紀からアジュラーン王国の支配下にあり、イスラム教が普及していました。マルコ・ポーロやイブン・バットゥータも、訪れたかどうかは別としてアフリカ東岸について記述しています。

 さらに分隊は南下し、ブラバ(卜剌哇)やジュバランドを経由して、現ケニアのマリンディ(麻林)に到達しました。ここはアラブ・ペルシア文化と現地の文化が融合したスワヒリ文化圏の中心地で、古来チャイナの陶磁器も取引され、甚だ繁栄していました。1世紀の『エリュトゥラー海案内記』にもアフリカ東岸部を拠点とする海上貿易について書かれています。

 分隊はここから北へ引き返し、アラビア半島南部のアデン、ラサ、ドファールを経てホルムズに到達しました。鄭和ら本隊はすでに帰国の途にあり、分隊は本隊より一年遅れた永楽14年(1416年)夏に帰国しています。

麒麟進貢

 この間、永楽12年(1414年)には榜葛剌ベンガル国から明朝へ朝貢使節が派遣され、「麒麟」が送られています。麒麟はチャイナの伝説の聖獣であり、太平の世に現れる瑞兆とされますが、これはアフリカ原産の動物ジラフを「麒麟である」と明朝がみなしたものです。インドのベンガル地方にジラフは自生していませんが、インド洋交易によって東アフリカから届いたものでしょう。本来の麒麟はノロジカの類が聖獣化したもののようです。

 喜んだ永楽帝は、帰国した鄭和や諸国の使者に麒麟について尋ね、使者たちを送り届けるとともに麒麟を連れてこいと命じたようです。鄭和は永楽15年(1417年)冬に出発して前回通りの経路を辿り、ホルムズに到達します。分隊も同じくモルディブを経てマリンディ・アデンなどに至り、「麒麟」やシマウマ、ダチョウ、ヒョウやライオンを貢納品として連れ帰りました。この麒麟はアデンにいたといいますが、アラビア半島にジラフは自生していないので、やはりアフリカからもたらされたものでしょう。鄭和本隊は永楽17年(1419年)8月、分隊は翌年夏に帰国しています。

 永楽19年(1421年)2月、50歳の鄭和は諸国の使節を送るため第六次航海に出発し、ベンガルやマリンディまで分隊を派遣して、永楽21年(1423年)に帰国しました。永楽22年(1424年)にはパレンバンまで赴き、施進卿の息子・済孫の地位を承認して8月に帰還しましたが、同年7月に永楽帝は崩御しています。跡を継いだ朱高熾/洪熙帝は、永楽帝による大遠征や朝貢貿易が莫大な財政負担を強いたことから民力休養に転じ、鄭和はしばらく大航海の使命から解放され、南京の守備太監に任命されます。のち1430年に60歳で第七次航海を命ぜられ、1433年に帰国しますが、まもなく没しました。

 鄭和の大航海の記録は、第4次航海と第7次航海に同行した馬歓の『瀛涯勝覧』や費信の『星槎勝覧』、鞏珍の『西洋番国志』などによって現在に残されています。公式記録は宮中に保管されましたが紛失され、海図の一部は明末の『武備志』に収録されました。『明史』にも記録があります。

◆Best Years of◆

◆Our Lives◆

 世界帝国の皇帝を目指した永楽帝が崩御すると、明朝は財政負担に耐えかねて拡大政策をやめ、国内経済の建て直しや対外関係の見直しに着手せざるを得ませんでした。武帝崩御後の漢と同じです。幸い民力休養政策により明朝経済は健全な発展を遂げ、人民は平和を享受しますが、この間にオイラトはモンゴル/韃靼を凌ぐ勢力となり、明朝をも脅かすことになります。

【続く】

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