見出し画像

【つの版】邪馬台国への旅23・大作冢

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

九州で狗奴國と奴國・伊都國などが対立し、これを鎮めるため難升米が帯方郡から詔書、黄幢、檄文を授かった頃、東の彼方の邪馬臺國では女王卑彌呼がすでに死んでいました。一つの時代が終わりを告げたのです。今回は彼女の墳墓について見ていきます。

◆墓◆

◆葬らん◆

大作冢

卑彌呼以死。大作冢。徑百餘歩、殉葬者奴碑百餘人。
卑彌呼はすでに死んでいた。大いに(卑彌呼の)(ちょう、塚・墳墓)を作った。その径は百余歩あり、殉葬者は奴婢百余人であった。

問題の「卑彌呼の冢」です。大規模土木工事で作られるような墳墓と言えば古墳しかありません。直径は百余歩です。1歩は6尺で、魏の1尺は24.1cmなので1歩が144.6cm、100歩は144.6mになります。百歩なのでもう少し大きいですが、建築物ですから測量がうまくいかねば崩れますし、漢魏の尺度は倭地でも使われていたようですので、ほぼ百歩というところでしょう。

誇張だとして1/5すると径20歩(28.92m)。そこそこ大きいですが、同時代の吉備最大の楯築墳丘墓(直径43m)や出雲最大の四隅突出型墳丘墓である西谷3号墳(40×30m)より小さくなります。7万戸を擁する邪馬臺國の女王にして親魏倭王の墓にしては、随分しょぼいではありませんか。まさか「短里があるなら短歩や短尺もある!」とか戯言を弄する気でしょうか。

直径というからには円墳なのでは?と思われるでしょうが、前方後円墳の後円部だとする説が定説です。日本中に多数の円墳がありますが、最大級のものでも直径100mあまりしかありません(4世紀後半の奈良市富雄丸山古墳が109m、6世紀前半の埼玉県行田市丸墓山古墳が105m)。対して、後円部の直径が100mを超える前方後円墳は50基以上存在します。方墳では?と言うのであれば、全国最大の方墳である5世紀前半の奈良県橿原市桝山古墳でさえ方85mでしかありません。なぜ前方後円墳と呼ぶかと言えば、墓室と棺は後円部にあり、前方部はそこに対する祭祀を行った場所だからです。つまり、前方後円墳とは基本的に円墳が発展したものです。

この時代は弥生時代から古墳時代への転換期であり、前方後円墳の出現をもって古墳時代の始まりとしています。弥生時代にも墳墓は多くありますし、前方後円墳以外にも円墳や方墳、前方後方墳も存在しますが(前円後円墳はないようです)、考古学上は前方後円墳が重要視されています。この形式の墳墓がヤマトで発生し、全国各地に同じ形式の墳墓が一斉に作られていくからです。これこそヤマト王権が日本列島の広い地域に勢力を及ぼした証拠である、というわけですね。そして、最初の前方後円墳がヤマトに出現するのが、まさに卑彌呼の時代である3世紀前半なのです。

前方後円墳はどのような過程で発生したのでしょうか。弥生時代には各地域で権力者の墳墓が現れ、様々に発展します。北部九州では甕棺墓・支石墓・石棺墓などが多く、大型化よりは副葬品を海外からの威信財などで装飾する方向に進みましたが、山陰から山陽北部、北陸にかけての地域では四隅突出型墳丘墓(方墳)が多く築かれました。力を合わせて作ることで、共同体の結束と首長の権威が同時に高まります。あまりこき使うと結束した住民が首長を殺しに来るので、労働条件は良くしたほうがいいでしょうが。

近畿以東では方形周溝墓が盛んでしたが、瀬戸内地方(播磨や吉備・讃岐)には円形周溝墓が現れ、畿内にも波及します。その中には周溝の外側と円形墳墓を繋ぐ陸橋部を持つ「前方後円型」のものもいくつかありました。奈良県橿原市城殿町の瀬田遺跡は2世紀中頃から後半頃の「前方後円型」円形周溝墓で、円丘の直径は19m、全長は26mです。橿原、となると神武とか初期の天皇っぽさがありますが定かではありません。あいにく墳丘部が削り取られているため、副葬品や誰が葬られていたかも不明です。

また、2世紀末から3世紀前半にかけて「双方中円墳」という形式の巨大墳丘墓が築かれました。上述の「楯築墳丘墓」です。円形の墳丘墓に二つの方形突出部を付け加えたもので、墳丘中央部に木棺に入った遺体が埋葬され、上部で祭祀が執り行われたようです。こうした各地の弥生墳丘墓の要素が新生倭國統合の象徴として組み合わされ、ノウハウを積み重ね、さらに巨大化・定型化したものが前方後円墳であろう、と考えられています。

じゃあ円形周溝墓の勢力(播磨や吉備)が畿内を征服・東遷したのか? というと微妙なところですが、どうでしょう。実際纒向遺跡や前方後円墳には吉備の影響が見られ、特殊器台という吉備系の土器は埴輪に発展しました。海外にも円墳・方墳の両者がありますが、東アジアではおおむね華北や高句麗で方墳が多く、華南や韓で円墳が多いようです。とすると、出雲や北陸、初期近畿以東の方形墳墓は北方系で、円形周溝墓や前方後円墳は南方系なのでしょうか。弁韓との交易で発展した北部九州にも円墳はあります。

どのみち吉備もヤマトも西から人や物が来なければ発展しませんから、先祖は北部九州や瀬戸内から来た、と言っても悪くはなさそうです。神武東征や饒速日の到来、邪馬台国東遷は眉唾ものですが、西から誰かは来たのです。そして地元の住民と交わって増え、卑彌呼以前の邪馬臺國が形成された……とぐらいは言えるでしょう。つのは別に北部九州の史的価値を貶めようという意図はありません。物事の蓋然性が多いか少ないかで判断しているだけです。神武東征については後で考えてみましょう。

秦の始皇帝陵は、四角錐型墳丘部分だけで東西515m×南北485m、高さ52.5mあり、その周囲に広大な長方形の「都城」を作らせ、地下にも宮殿を築き、8000体以上の兵馬俑群を埋め、あの世でも皇帝たり続けんとしました。後漢の皇帝の陵墓も方形です。光武帝の原陵は方323歩といいますから467mで、始皇帝陵には及ばぬものの結構な規模です。ただ高さは6丈6尺で15.9mほどです。歴代の皇帝も和帝以外はこれより小さく作っています。

纒向型前方後円墳

こうした議論を踏まえた上で、改めて「卑彌呼の冢」を探しましょう。3世紀中頃までに作られた前方後円墳で、後円部が144.6m余りあるものです。また奴婢百人余が殉葬され、親魏倭王に相応しい副葬品もあるとよく、卑彌呼を思わせる女王が埋葬されているという伝説もあればいいですね。

最初期の「纒向型前方後円墳」である纒向石塚古墳は、年代的に卑彌呼の死より早い3世紀初頭の築造で、後円部の直径は64m。纒向勝山古墳は径70m、東田大塚古墳は径68m、ホケノ山古墳は径55m。1歩1.446mで割るとそれぞれ44歩、48歩、47歩、38歩。どれも径50歩(72m)にも足りません。3世紀中葉の九州における初期前方後円墳・福岡市博多区の那珂八幡古墳も、後円部の径は48m(33歩)で、時期は纒向石塚古墳より新しくなります。

箸墓古墳

こうした初期の前方後円墳の中で抜きん出て大きいものが、奈良県桜井市箸中の箸墓古墳です。前方部と後円部を含めた墳丘長は278m(192歩)、後円部の直径は150m(103.7歩)に達し、高さは前方部が16m(11歩)、後円部が30m(20.7歩)に及びます。築造時はもう少し大きかったようですが、築造年代も大きさも申し分ありません。後円部は五段築成(四段の版築成の上に小円丘の土壇が載る)で、これ以後の古墳はみなこれより少ない四段築成か三段築成であり、周囲には幅10mの周壕と幅15m以上の外堤があります。

『日本書紀』によると、箸墓は倭迹迹日百襲姫命の陵墓です。彼女は大物主神の妻となりましたが、神は昼は彼女のもとを訪れず、夜だけ来ました。彼女が「明日の朝まで留まって、美しいお姿を見せて下さい」と願うと、神は「よろしい。明日の朝、私はお前の櫛笥(櫛を入れる箱)に入っている。私の姿を見て驚くな」と答えました。彼女は怪しみましたが、翌朝櫛笥を開けると衣紐ほどの美しい小さな蛇が入っていました。彼女が驚いて叫ぶと、蛇は人の形になって「をかかせたな」といい、空を飛んで御諸山(三輪山)に去りました。彼女がニン…GRS(ゴッド・リアリティ・ショック)を起こし、腰を抜かして座り込むと、なぜか上を向いて置かれていたが陰部(ほと)に突き刺さって死んでしまいました。そして彼女は大市に葬られ、「箸墓」と名付けられたといいます。またこの墓は「昼は人が作り、夜は神が作った」「大坂山(奈良盆地西部の二上山)から石を運んで作ったが、山から墓まで人々が列をなして並び、手から手へ石を運んだ」とも伝えられます。

いかにも異常な死ですが、3世紀には倭で箸は使われていませんし(7世紀にようやくです)、箸が偶然上を向いて置かれているところに座り込むというのも不自然で、をかけたネーミングに過ぎません。おそらく「土師(はじ/はにし、埴輪を作る氏族)の墓」が訛って墓となったのでしょう。箸墓古墳からは埴輪の原型である吉備系の特殊器台が出土しており、これを作ったのが土師氏の先祖だと思われます。いま地名を箸中というのは、墓の地名が不吉だから改めたのでしょうか。

箸と丹塗矢

また神の棒状のものが女性の陰部に突き刺さるという話は、いわゆる「丹塗矢(にぬりや)」型の神婚説話です。古事記にも実際書かれています。

『古事記』によると、神武天皇の妃を富登多多良伊須須岐比売(ほとたたら・いすすきひめ)といいます。彼女の母・勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)は美女でした。三輪山の大物主神は、勢夜陀多良比売が厠(かわや、川の上に作られた水洗便所)で排便している時に丹塗矢(赤い丹を塗った矢)に変身して川を流れ下り、彼女の陰部に突き刺さりました。びっくりした彼女は震え(いすすき)ましたが、丹塗矢を拾い上げて枕元に置いて寝たところ、矢は美しい男に変身して彼女と交わりました。こうして生まれたのが富登多多良伊須須岐比売、すなわち「(母親の)陰部に矢が突き立って震えた(ら生まれた)姫」ですが、名が直球過ぎてアレなので比売多多良伊須気余理比売(ひめたたら・いすけよりひめ)とも呼び、日本書紀では媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたら・いすずひめ)としています。

また『山城国風土記』によると、賀茂建角身命の娘・玉依日売が鴨川(石河の瀬見の小川)のほとりで遊んでいた時、乙訓に鎮座する火雷神の化身である丹塗矢が川上より流れ下って来ました。これを床辺に刺し置くと、彼女は妊娠して子を生み、賀茂別雷命(上賀茂神社の祭神)と名付けたといいます。玉依日売はまた『古事記』にいう勢夜陀多良比売の別名ともされ、『日本書紀』においては事代主神が八尋熊鰐(ワニ)に変じて玉櫛媛に通い儲けたのが媛蹈鞴五十鈴媛だとしています。ややマイルドになりました。

また『古事記』によれば、大物主神は活玉依毘売という美女のもとに密かに通って妊娠させましたが、名を名乗りませんでした。彼女の父母は怪しんで「赤土を床に散らして足跡をつけさせ、麻糸を通した針をそいつの衣の裾に刺しておけば、帰る先がわかる」と教えます。彼女がそうして翌朝確認すると、糸は戸の鍵穴を通っており、糸巻きには糸が三巻(三輪)しか残っていません。糸を辿って追えば、三輪山の神の社でした。それで神の子だとわかり、生まれた子は意富多多泥古(おおたたねこ)と名付けられました。彼は神君(みわのきみ)と鴨君(かものきみ)の祖で、崇神天皇に招かれて父である大物主神を祀ったといいます。

丹塗矢は出て来ませんが、それ以外は大物主神と美女の神婚説話です。また『日本書紀』崇神紀では、倭迹迹日百襲姫命の夢に貴人が現れて「大田田根子を大物主神の祭主にせよ」と告げたとあります。『古事記』には夜麻登登母母曽毘売の事績が書かれていませんが、『日本書紀』と比較すれば彼女もまた丹塗矢説話の登場人物であると理解ります。他の女性のように子を産まずに死んだのは、実際彼女に子がなく、また箸と恥と箸墓(土師墓)と丹塗矢を連想して死に様を後から思いつき、付け加えたからでしょう。どうせ築造から何百年も後のことですから、伝説に伝説がくっつき、噂が噂を呼び、尾鰭や枝葉がついても不思議はありません。

ところで、なぜ丹塗矢なのでしょうか。丹が例の辰砂だとすると、三輪山の東の宇陀や伊勢では古くから採掘されて来ました。それにまつわるなんらかのなんかでしょうか。

築造

「昼は人が作り、夜は神が作った」という伝説は、その墳墓が非常に大きく築造方法も忘れ去られたので「とても人が作ったとは思えない」と後世の人が言い出した、世界的にもよくあるタイプの伝説です。古代ギリシア人すらミケーネ文明時代の巨石建造物を「キュクロプス(巨人)が作った」と言い伝えましたし、欧州では先史時代の巨石建造物やローマ時代の建築物(中世や近世の物も)を「巨人のしわざだ」「悪魔が作った」と語り伝えました。ハワイ人も古代の遺跡を「メネフネ(小人族)が作った」としています。

近い所では、修験道の祖である役小角が葛木山と金峯山の間に石橋を架けようと思い立ち、諸国の神々を動員して作らせたという伝説が『日本霊異記』にあります。葛木山の神である一言主は、自らの姿が醜悪なので夜しか働きませんでしたが、役小角はこれを叱責して折檻しました。耐えかねた一言主は人間に憑依して「役小角が反逆を企んでいる」と託宣を下し、朝廷は彼の母を人質にして逮捕させました。こうして石橋は途中までしか完成しなかったといいます。役小角は葛木鴨氏で、大物主神の末裔にあたりますね。

とは言え、実際に作ったのは人間です。箸墓以前にいくつか前方後円墳を築造することに成功しているのですから、そのノウハウを活かして大型化すればいいわけです。漢代の『九章算術』には土木工事に必要な計算方法が記されており、古墳にも大雑把ながら身体尺を用いていますから、倭地に渡来した華僑がこうした知識を用いて設計したとしてもおかしくはありません。

1985年に大林組が大仙古墳(伝仁徳天皇陵)の建設について算出したところ、体積210万立方メートルの古墳を牛馬なしの古代工法で作るのに1日2000人が8時間、1ヶ月に25日働いて188月15年と8ヶ月)、延べ人数680万7000人(月3万6207人、日1448人)という計算になったそうです。箸墓は大仙古墳より遥かに小さく体積37万立方メートルなので、単純計算では5.68分の1(17.6%)で済みますが、それでも33月2年と9ヶ月)はかかります。卑彌呼が死んでから作り始めるのも悠長ですから生前に作りはじめていたでしょう(生前に作る墳墓を「寿陵」といいます)。

「大坂山(奈良県香芝市逢坂、二上山か)から石を運んで作ったが、山から墓まで人々が列をなして並び、手から手へ石を運んだ」という伝説は、どうやって作ったかがわからなくなった後世の伝説です。箸墓には大阪府柏原市芝山の石材が用いられていますが、纒向遺跡には大和川に通じる運河があり、箸墓など古墳の周囲には堀が掘られていますから、水運によって土砂や石材を運んだことは明らかです。流れを遡ることになるので、土砂や石材を積んだ筏の左右にロープを張って力を合わせて引いたとは想像がつきます。まあ詳しいことはPROに任せましょう。

殉葬と棺槨

問題としては、魏志倭人伝に「殉葬者奴碑百餘人」とあることと、習俗のところに「有棺無槨」とあることです。これまでのところ、箸墓古墳を含めた多くの古墳に殉葬者の存在した痕跡は考古学的にはありません。ただ古墳時代の終わりを告げる「大化の薄葬令(646年)」では人馬の殉死殉葬を禁止しており、なんらかの殉死殉葬は存在したとも言います。

『日本書紀』垂仁紀によると、垂仁天皇の同母弟である倭彦命が薨去した時近習を墓の周囲に生き埋めにしましたが、数日間も死なずに昼夜呻き続け、犬や鳥が腐肉を漁るという凄惨な有様でした。天皇はこれを哀れんで殉死を禁じ、皇后の日葉酢媛命が薨去した時は野見宿禰の進言により土で作った人や馬(人物・形象埴輪)を墓に立て、以後これが慣例になったといいます。

垂仁天皇は崇神天皇の子ですから、崇神天皇の時に薨去した倭迹迹日百襲姫命が卑彌呼であれば、殉葬が行われていた可能性はあります(何も記されていませんが)。埴輪と言える特殊器台は箸墓から出土していますが、形象埴輪は4世紀前半からのもので、3世紀にはまだありません。では、殉葬の形跡がない箸墓は、卑彌呼の墓ではないのでしょうか。あるいは存在したものの皇室的にはタブーなのでなかったことにされたのでしょうか。

また箸墓古墳以前に築造されたホケノ山古墳には、木棺・木槨・石槨が存在しました。これは「有棺無槨」という描写と明らかに矛盾します。畿内説はありえないという人は大いに溜飲を下げたことでしょう。

しかし、思い返して下さい。帯方郡の使者は伊都國に留まっており、邪馬臺國には行っておらず、卑彌呼や邪馬臺國でのことは全て伝聞です。魏に派遣された使者もおそらく北部九州出身者ばかりで、遠く邪馬臺國で何が起きているかを直接知っている人は少なかったでしょう。「径百余歩の墳墓が築造されているそうだ」という情報に尾鰭がつき、婢千人やら殉葬者奴婢百余人やらが付け加わって伝わった可能性はあります。

また甕棺墓や支石墓、石棺墓が多く、墳墓の大きさより副葬品の豪華さを競ったであろう北部九州での観察では、墳墓は「有棺無槨」だったのかも知れず、新たに作られ始めた前方後円墳では、チャイナを真似て「有棺有槨」にしたのかも知れません。第一、邪馬臺國まで行って墳墓の内部構造まで見て来たような人が、北部九州にどれだけいたでしょうか。

◆墓◆

◆場◆

さて卑彌呼は死に、埋葬されました。跡継ぎを巡って倭國は再び乱れます。

【続く】

つのにサポートすると、あなたには非常な幸福が舞い込みます。数種類のリアクションコメントも表示されます。