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【つの版】ウマと人類史:近世編31・母后聴政

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 長々と近世のロシアや清朝について見てきましたが、ここからは再びイスラム世界に戻ります。16世紀後半から18世紀にかけて、オスマン帝国やサファヴィー朝はどのように過ごしていたのでしょうか。

◆母◆

◆后◆

母后聴政

 1566年にスレイマン大帝が崩御したのち、1574年まで息子セリム2世が、1595年まで孫のムラト3世が在位しました。1579年に大宰相ソコルル・メフメト・パシャが暗殺されると、宮中の実権はムラトの母后ヌール・バヌに遷り、1587年に彼女が亡くなるとムラトの皇后サフィエ・スルタンに遷ります。彼女らはヴェネツィア出身で、スレイマン大帝の皇后ロクセラーナの如く外国と通じました。

 ムラト自身は国政に興味を持たず、ハレムに入り浸って快楽にふけり、大宰相もコロコロ代わったため国政は混乱しました。1580年代には軍事費の増大で赤字財政に転落、重税を課して財政再建を行ったもののうまくいかず、新大陸からの銀の流入もあって激しいインフレに見舞われました。

 対外的には、東では1590年まで12年間イランのサファヴィー朝と戦ってイラクとカフカース地方を手に入れ、西では1591年からハプスブルク家が治めるハンガリーへの侵攻を開始しています。当初は有利に進軍したものの、次第に不利となっていき、ムラト崩御後に大敗を喫してワラキア、モルダヴィア、トランシルヴァニアが背くなど動揺しました。

 1595年にムラトが崩御すると、サフィエの差し金で彼女の息子メフメト3世が即位します。サフィエは帝国の掟に従ってメフメトの異母兄弟19人を皆殺しとし、ムラトの愛妾40人のうち妊娠していた7人を海に沈めて殺し、引き続き実権を握りました。しかしハンガリー戦線では苦戦が続き、帝国各地で貧窮した騎士・軍人・遊牧民・学生・農民らの反乱が頻発します(ジェラーリーの反乱)。帝都イスタンブールでも常備軍イェニチェリが騒動を起こす有様で、メフメトは事態を解決できぬまま1603年に崩御します。

 跡を継いだのは13歳の息子アフメトで、母ハンダン・スルタンも1605年に亡くなったため、祖母サフィエが引き続き実権を握りました。アフメトの兄マフムトは父に殺されましたが、アフメトは異母弟ムスタファを殺すのを憐れみ、「黃金の鳥籠」と呼ばれた宮中の一室に閉じ込めるにとどめました。これ以来オスマン帝国では皇帝即位時の兄弟殺しは行われなくなります。またハンガリーを巡るハプスブルク家との戦争は1606年に和平条約が結ばれて終結し、1608年にはジャラーリーの反乱も鎮圧されます。

 しかし東方では、サファヴィー朝の大王アッバース1世が1603年からオスマン帝国領へ侵攻を開始し、アゼルバイジャンやアルメニア、ジョージア、イラクなどを奪還しました。オスマン帝国は1612年に講和条約を結びますが長続きせず、北方ではポーランドのコサックが国境地帯に襲来するなど不穏な情勢が続きます。こうした中、オスマン帝国はハプスブルク家の敵であるフランスやオランダと友好関係を結んでいます。

 1453年、オスマン帝国はジェノヴァと条約を結び、領内に在住するジェノヴァ人に対して通商・居住の自由、租税の免除、身体・財産・企業の安全などを一時的に保障する恩恵的特権を与えました。これはイスラム法でいうアマーン(外国の使節や商人に対する庇護)に相当し、庇護下に置かれた者はムスターミンと呼ばれます。また条約をアラビア語でアフド(ahd)、条約文書をオスマン語でアフド・ナーメと言いますが、西洋諸国ではこれを訳してカピチュレーション(capitulation、原義は「項目」)といいます。

 東ローマやマムルーク朝が欧州諸国と結んでいたのをオスマン帝国も引き継いだわけですが、1536年にはフランス、1579年には英国、1613年にはオランダと同様の条約を結びました。これらの諸国からオスマン帝国に西洋文化が流入し、宮中や都市部で受容されていくこととなります。

 この頃サファヴィー朝もオスマン帝国に対抗するため欧州諸国と同盟し、1608年には家臣の英国人ロバート・シャーリーを欧州へ派遣しています。欧州諸国は東洋の富を求めてトルコ・ペルシア両国と結びました。

帝国動揺

 1617年にアフメトが27歳の若さで病没すると異母弟ムスタファが帝位につきますが、彼は精神に問題を抱えており、3ヶ月で廃位されてアフメトの子オスマン2世が擁立されます。彼は専制君主としての権力を奪還すべく自らの派閥で政権中枢を固め、サファヴィー朝と講和条約を結び、1618年には曾祖母サフィエ・スルタンを暗殺、1620年にはコサックの襲来への報復としてポーランドに宣戦布告します。

 モルダヴィアの離反により初戦で大勝利をおさめ、翌年には皇帝自ら4万の兵を率いて出陣し、ドナウ川を渡って現ウクライナ南西部のホティンでポーランド・リトアニア軍およびコサック軍とぶつかります。しかし報復に燃えるコサック軍の騎兵突撃によりオスマン軍は大打撃を受け、両軍ともに疲弊しきって講和します。帝都まで戻ったオスマン2世は憤懣やる方なく、マッカ巡礼と反乱軍討伐を口実にイェニチェリの改革を計画しますが、イェニチェリの反乱に遭って弑殺されます。

 イェニチェリたちはムスタファを復位させますが各地で反乱が起き、在位1年で退位させ、オスマン2世の異母弟ムラト4世を擁立します。彼は11歳でしかなく、実権は母后キョセム・スルタンが握りました。しかし帝国の混乱をついてサファヴィー朝がイラクへ侵攻し、1624年にはバグダードを奪われます。サファヴィー朝は1622年には英国と手を組んでポルトガルからホルムズ港を奪っており、大王アッバース1世のもと日の出の勢いでしたが、1629年にアッバースが崩御すると暗愚な孫のサフィーが即位し、混乱します。

 ムラトはイェニチェリやイスラム原理主義を掲げるカドゥザーデ派を味方につけ、1632年に実権を掌握すると、サファヴィー朝への反撃を開始しました。ムラトの猛攻によりアルメニアとイラクは奪還され、1638年にはこれを好機としてインドのムガル帝国が侵攻、カンダハールをサファヴィー朝から奪い取ります。北東のホラーサーンにもブハラ・ハン国が侵攻し、サフィーはやむなく1639年にオスマン帝国と講和条約を締結しました。

 1640年にムラトが病没すると、同母弟イブラヒムが母后キョセムにより擁立されます。しかし彼は長期の監禁生活で精神の均衡を崩しており、奇行を繰り返して母や群臣を悩ませました。1645年には側近たちがクレタ島への侵攻を行いますがヴェネツィアの報復を受け、逆に帝都を包囲される始末でした。1648年、イェニチェリの反乱によってイブラヒムは廃位・殺害され、彼の7歳の息子メフメト4世が擁立されました。

宰相輔弼

 7歳の皇帝に統治能力はなく、母后トゥルハン・スルタンが1651年に政敵キョセム・スルタンを殺害して権力を握ります。しかし彼女は賢明にも自ら政治を行わず、再び大宰相に政治を委ねました。

 1652年に任命されたタルフンジュ・アフメト・パシャは財政改革を行って帝国財政を建て直しますが、反発した人々に讒言されて在任1年で処刑されます。その後も大宰相は短い在任期間しか持ちませんでしたが、1656年に任命されたアルバニア出身のキョプリュリュ・メフメト・パシャは5年間在任し、ヴェネツィアやトランシルヴァニアに反撃を行うなど強いリーダーシップを示しました。彼が1661年に86歳で逝去すると、息子アフメトが大宰相の位を引き継ぎ、15年間も在任してオスマン帝国を栄えさせました。

 メフメト・パシャ、アフメト・パシャ、およびメフメトの娘婿カラ・ムスタファ・パシャは合計27年にわたって大宰相の位にあり、「キョプリュリュ時代」と呼ばれる中興の時代をもたらします。サファヴィー朝に暗君が続いたこともあり、彼らの時代にオスマン帝国の版図は最大となりますが、これを頂点として帝国は落日に向かっていくことになります。

◆土◆

◆耳◆

【続く】

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