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【つの版】ユダヤの秘密07・寄留異国

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

10世紀後半、ハザールはルーシやペチェネグの侵略を抑えきれず、部族連合国家としては崩壊したようです。その後の行方は杳として知れませんが、彼らの末裔は「東欧のアシュケナジム系ユダヤ人だ」という説が割と広まっています。それはどんな人々なのでしょうか。

◆Vladimir◆

◆Ashkenazy◆

諾亜三子

聖書によれば、ノアの洪水によってそれ以前の人類は全滅し、ノアの三人の息子たちから現在に至る全ての民族が生まれました。おそらくバビロン捕囚時のユダヤ民族が知り得た世界中の諸民族を分類したものです。『創世記』10章に列挙される他、『歴代志』上の1章にも書かれています。

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セムの子はエラム(イラン南西部)、アシュル(アッシリア)、アルパクサデ(カルデア)、ルデ(リュディア)、アラム(シリア)です。アルパクサデの子孫がアブラハムで、イスラエル人及びアラビア人の祖となりました。またアルパクサデの曾孫ペレグとヨクタンの時にバベルの塔から全人類が世界中へ散らばり、ヨクタンはハドラマウトサバア(シバ)など南アラブ(オマーンやイエメン)諸族の祖になったともいいます。

セムとは「名」の意で、おそらくユダヤ民族が「自分たちに近い」とみなした人々をまとめたのでしょう。しかし、言語的にエラム語やリュディア語はセム語派どころかアフロアジア語族にも属していません。

次男のハムの子らはクシュ(南アラブやヌビア・エチオピア)、ミツライム(エジプト)、プテ(プント・ソマリアか)、カナン(フェニキア)です。ハムはエジプトの自称であるケメト(kmt,「黒い土地」)のことともされ、セムと対をなすように整えられた名前でしょうか。

バベルの塔を築いたニムロデはクシュの子とされ、バビロニアとアッシリアを支配したとされます。ミツライムからはレハビ(リビア)やカフトリ(クレタ)の民が生じ、カフトリからペリシテが出ました。カナンからはシドンやヘテ(ヒッタイト)、その他のカナン人の諸族が生じています。いずれもエジプトに服属する民族で、ユダヤ人からは嫌われていました。

ハムは父親が酔っ払って裸で寝ているのを笑ったので、なぜか息子カナンが「セムとヤペテの奴隷になれ」と呪われたといいますが、明らかに「ユダヤ人はカナン人に優越する」という根拠を後付で捏造した差別発言です。後世にはこれが拡大解釈され、「ハムの子孫はアフリカの黒人たちで、セムやヤペテの子孫の奴隷となる運命にある」とか言われました。

ノアの末子ヤペテの子らは、前に記したようにゴメル(キンメリア)、マゴグ(ギュゲスの国=リュディア、ないしスキタイ)、マダイ(メディア)、ヤワン(イオニア=ギリシア)、トバル(タバル、小アジアのティバレノイ)、メセク(カッパドキアのムシュキ/モスコイ)、ティラス(テュルセニア=エトルリア、ないしトラキア)です。

またゴメルからはアシュケナズ(スキタイ)、リパテ(小アジア北部のパフラゴニア)、トガルマ(スィヴァス県ギュリュンか)が、ヤワンからはエリシャ(キプロス島アラシア)、タルシシ(タルテッソス、アンダルシア)、キッテム(キプロス島キティオン)、ドダニム(ロドス島か)が生まれました。いずれもユダヤより北に分布する諸民族で、偶然でしょうがその多くがインド・ヨーロッパ諸語を話します。

神はヤペテを大いならしめ、セムの天幕に彼を住まわせられるように。カナンはそのしもべとなれ。(創世記9:27)

ヤペテは「広がる」「美しい」といった意味を持ち、セムとハムで対になっていた話に後から付け加えられたフシがあります。ユダヤ民族を捕囚から解放したペルシア人が数えられていないため、それ以前の記録でしょうか。あるいはペルシア人はエラムの一派でセム族としているのでしょうか。

のちにキリスト教やイスラム教が広まると、ヤペテ系の諸民族はそれらの宗教を受け入れ、まさに「セムの天幕」に入ることとなりました。バビロン捕囚時にそんなことまで予見していたとは思えませんが。

またセムがアジア、ハムがアフリカ、ヤペテがヨーロッパの諸民族の先祖であるとも説かれましたが、ヤペテ系民族はアジアにも広く分布しています。

ギリシア神話にはティターン族のひとりにイアペトスがおり、アトラス・プロメテウス・エピメテウスの父とされ、孫のデウカリオンは大洪水を方舟で生き延びて人類の祖になっています。そのため中世後期頃からイアペトスとヤペテを結びつける説がありますが、起源が同じかは定かでありません。

アシュケナズの子孫がアシュケナジムですが、これはアッシリアでイシュグザーヤ、ギリシアでスキタイ(スキュタイ)と呼ばれた人々です。前8世紀から前6世紀にかけてカフカースを超えて侵攻し、パレスチナにも襲来したことがありました。とすると、アシュケナジムと呼ばれるユダヤ人はスキタイの子孫で、イスラエル人の子孫ではないのでしょうか?

系譜拡大

ユダヤ人が離散し、キリスト教やイスラム教が拡大していく中で、ノアの神話も世界中に広がりました。バビロン捕囚時には知り得なかった遠方の諸民族、あるいは新たに形成された諸民族については、聖書の民族表では間に合いません。しかし彼らもノアの子孫の系譜に継ぎ合わせないと、聖書の信憑性に傷が付きますし、諸民族の方も聖書によって先祖の系譜がわかるとすれば満足感があり、箔が付きます。こうしてせっせと系譜が造られました。

例えばキッテムは「海の彼方」「船に乗ってくる」といった描写が聖書にあることから、キプロスの彼方のマケドニアやローマを指す隠語になりました(マカバイ記など)。またユダヤを支配したヘロデ朝はエドム人の出自だったので、彼の親分のローマ帝国は隠語で「エドム」と呼ばれ、ローマつながりでキリスト教徒も「エドム」と呼ばれました。アラブについては彼らが自称するとおり「イシュマエル」で問題ありません。

カフカース諸族はメセク、トバル、トガルマの子孫とされました。特にトガルマはアルメニアとジョージア、またテュルク系諸族の祖とされます。イスラム世界ではイラン神話における人祖ガヨーマルトを聖書におけるゴメルであるとし、チャイナの住民まで勝手に「ヤペテの末裔」とされています。

漢民族オリエント起源説
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jorient1955/2/8/2_8_1/_pdf

欧州の諸民族に関しては、ギリシア人はヤワンでいいとして、ケルト人やゲルマン人については聖書にないため適当に繋げました。ゴメル=キンメリア人とすると、ゲルマン人(キンブリ族)やケルト人(ガリア人、カムリ)はその子孫とすると繋がります(ただの語呂合わせレベルですが)。マゴグとマジャル人やゴート族を繋げたり、実はヤワンの子孫だとしたり、中世には好き勝手に系譜の継ぎ合わせが行われました。どうせ神話でファンタジーですから、ある程度の整合性があればいけます。

寄留異国

一方で欧州に住み着いたユダヤ人は、それぞれの地を聖書にある地名を借りた隠語で呼んでいました。イベリア(ヒスパニア)はセパラデ、ガリア(フランス)はザレパテ(ツァルファト)と呼ばれます。これは預言書のひとつ『オバデヤ書』に基づいています。

ヤコブの家は火となり、ヨセフの家は炎となり、エサウの家はわらとなる。彼らはその中に燃えて、これを焼く。エサウの家には残る者がないようになると主は言われた。ネゲブの人々はエサウの山を獲、セフェラの人々はペリシテびとを獲る。また彼らはエフライムの地、およびサマリヤの地を獲、ベニヤミンはギレアデを獲る。ハラにいるイスラエルの人々の捕われ人は、フェニキヤをザレパテまで取り、セパラデにいるエルサレムの捕われ人は、ネゲブの町々を獲る。こうして救う者はシオンの山に上って、エサウの山を治める。そして王国は主のものとなる。

「エサウの家」とはエドム人のことですが、ユダヤ教におけるエドムとは、上述のようにローマ帝国やキリスト教世界も指します。そう読み替える(誤読する)ならば、オバデヤ書は「悪しき支配者たち(エドム)を未来に神が滅ぼし、離散したユダヤ人たちが集まってきて領地を獲得し、イスラエル王国が再建される」という予言の書となります。

ザレパテ(サレプタ)は本来フェニキアの地名で、かつてエリヤが隠れ潜んでいたところですが、セパラデについては定かでありません。リュディア王国の首都サルディスの現地名を「スファルド」というため、これが訛ったものともいいます。古代から中世にかけてイベリア半島に住み着いたユダヤ人たちは、自分たちを「セパラデの住民」、すなわち「セファルディム(単数形はスファラディ)」と呼んだのです。ユダヤ人であることをやめたわけではなく、単にそこに住んでいる(寄留している)だけです。

同様に、ガリア(フランス)に住み着いたユダヤ人は「ザレパテの住民」、すなわち「ツァルファティーム」と名乗りました。

そして、ドイツや中欧・東欧に住み着いたユダヤ人が「スキタイの地(エレツ・アシュケナジム)の民」すなわちアシュケナジムです。ライン川の東、ローマ人がゲルマニアと呼んだ領域を、中世のユダヤ人はいつからか「スキタイの地」と呼んでいたのです。まあゴートやフンやマジャルといった東方系の蛮族がうろつく地ですから、そう呼ばれても仕方ありません。

なお東ローマ帝国の領域、すなわちローマ(ギリシア)に住み着いたユダヤ人は「ロマニオット」と呼ばれます。ユダヤ人はローマが征服するより前からギリシアや小アジアの各地に住んでおり、新約聖書にもヘレニスタイというギリシア語を話すユダヤ人が大勢出てきます。パウロもそのひとりです。

ローマやイタリア半島にも多くのユダヤ人が住んでいましたが、彼らについてはこうした呼び名が特にありません。単にユダヤ人、あるいはロマニオットと呼ばれたのでしょうか。

イスラム世界やその東方にもユダヤ人のコミュニティはありましたが、欧州におけるユダヤ人はおおむねこのように分類されます。彼らはエルサレム神殿が崩壊した後も同胞民族として独自のネットワーク(情報網・商業網)を持ち、異民族の支配下で生き残るため様々な互助組織を持っていたことは事実です。その実態はどのようなものだったのでしょうか。

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【続く】

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