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【つの版】ユダヤの闇11・世界大戦

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

19世紀末、ロシアにおけるユダヤ人迫害を受けて、ユダヤ民族がパレスチナに帰還してイスラエル国家を再建しようというシオニズム運動が起きます。これに対して、悪名高い偽書『シオン賢者の議定書』が捏造されました。

◆World◆

◆War◆

偽書捏造

*内容は上掲のサイトで読めますが、決して鵜呑みにしないで下さい。*

「第一回シオニズム会議の席上で発表された」と謳われていますが、以前も触れたとおり、この書物がロシア帝国の政治秘密警察によって捏造されたものであることは判明しています。その内容は要するに「ユダヤ人の秘密結社であるフリーメーソンは、全世界のゴイム(民、異教徒)を支配するため、あらゆる陰謀を企むべし。フランス革命のような騒ぎを起こせ。金権腐敗政治、社会主義・共産主義によるテロ、自由主義、啓蒙思想、アルコール、ありとあらゆる問題を起こして分断し、支配せよ」というものです。

ゴイム(goyim)とはヘブライ語で「諸民族」をあらわし、本来はヘブル人・イスラエル人・ユダヤ人も含む語です。各々の民や国をゴイ(goy)といい、「アブラハムの子孫は大いなる民(ゴイ・ガドル)となる」「イスラエルの民は聖なる民(ゴイ・カドシュ)である」「地上で唯一の民(ゴイ・エハド・バアレツ)である」とユダヤ教の聖書にも書かれています。英語のnation(ネイション)は、1611年刊行の「欽定訳聖書」においてゴイの訳語として用いられています。ユダヤ教の伝統において、ゴイムは次第に非ユダヤ人(異邦人、異教徒)を指す言葉となり、やや侮蔑的な用語となりましたが、本来は単に「諸民族」という意味しかありません。

また、議定書の内容は19世紀の大衆小説から借用したものばかりで、種本は1864年にフランスのモーリス・ジョリーが書いた『マキャベリとモンテスキューの地獄での対話』という小説でした。これは当時のフランス皇帝ナポレオン3世をマキャベリズムで有名なマキャベリ(マキアヴェッリ)に擬し、非民主的政策と世界征服への欲望を諷刺したものです。フィレンツェの政治的地位を維持するのが精一杯だったマキアヴェッリが読んだら鼻で笑いそうですが、主語をユダヤ人に変えればユダヤ人の陰謀に見える仕組みです。またドイツ人ヘルマン・ゲートシュが1868年に出版した反ユダヤ主義的な幻想小説『ビアリッツ』を元ネタにした部分もあるといいます。

このような怪文書をロシアが捏造した理由は明らかで、ロシアにおけるポグロムや社会主義・共産主義者の弾圧を正当化し、ユダヤ系の国際金融資本による陰謀だと国際的に喧伝するためです。当時は反ユダヤ主義が盛んで、欧州でもアメリカでもオスマン帝国でも広く信じられていました。またロスチャイルド財閥は英国とフランスを拠点としていますが、両国はロシアの進出を阻むため世界各地で活動していましたし、アメリカには投資銀行クーン・ローブを率いるジェイコブ・シフらもいました。彼らはユダヤ人を迫害するロシアへの圧力を強め、ロシアと対立する勢力へ支援を行いました。日露戦争においてシフやロスチャイルド家が日本を支援したのは有名です。

しかし英国ロスチャイルド家の総帥ナサニエルはユダヤ人に対する慈善事業に尽力したものの、「シオニズム運動は各国のユダヤ系の立場を悪くする」と考えて反対し、英国のユダヤ人らに反シオニズム組織を作らせています。一方でナサニエルの長男ウォルターやフランスのエドモン・ロチルドはシオニズムを支援しています。各国のユダヤ人どころかロスチャイルド家さえも一枚岩ではなく、それぞれの立場や意志によって行動していたのです。

世界大戦

1914年には第一次世界大戦が勃発します。オーストリア=ハンガリーとセルビアの争いからですが、セルビア側にロシアが、オーストリア側にドイツが味方します。ロシアはドイツを牽制すべくフランスを抱き込み、英国はドイツの侵攻を防ぐためフランス側につき、日本は英国との同盟関係から参戦します。オスマン帝国はロシアの侵略を防ぐべくドイツ側につき、セルビアを殴りたいブルガリアも参戦しました。イタリアやアメリカも次々に参戦し、世界中に戦火が拡大して、気づけば大変なことになったのです。

ロスチャイルド家はドイツ出身で(フランクフルトの本家は1901年に断絶)オーストリアにも分家がいますから、敵味方に分かれることになりました。また英国のロスチャイルド家では1915年に家長ナサニエルが逝去し、弟レオポルドやアルフレッドも相次いで逝去したため、莫大な相続税をかけられて衰退し始めました。世界大戦の戦費を払うための増税のあおりを食った形ですが、本当に世界の支配を企んでいたのなら随分間抜けな話です。

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ナサニエルの子ウォルターやチャールズは動物学が趣味のボンボンで銀行業に興味がなく、従兄弟のライオネルとアンソニーが事業を引き継ぎました。彼らの兄弟イヴリンは英国騎兵隊の少佐として従軍し、1917年にオスマン帝国との戦いで戦死しています。各国のユダヤ人も敵味方に分かれ、それぞれの生まれ育った国のために戦って死んでいきました。

約束之地

19世紀末から20世紀初頭、オスマン帝国では欧州の影響でトルコ民族主義が高まります。英国はオスマン帝国を揺るがすためにアラブ民族主義を煽り立てて反乱を起こさせることを企み、1915年にマッカの首長フサインとの間にフサイン=マクマホン協定を結びました。この協定でアラブ国家を建設すべき「純粋なアラブ民族の領域」がおぼろげに定められましたが、ヨルダン川以西のパレスチナやエジプト、シリア北部やレバノンなどは含まれていませんでした。フサインはこれに合意し、1916年にはアラビア半島西部にヒジャーズ王国を建国します。一方で英国・フランス・ロシアは戦後のオスマン帝国領分割を巡って秘密裏に会合し、サイクス・ピコ協定を結びました。

また1917年、英国の外務大臣バルフォアはウォルター・ロスチャイルドを介してシオニスト連盟に書簡を送り、パレスチナにユダヤ人の居住地を建設するシオニズム運動を支援すると伝えました(バルフォア宣言)。彼らを戦争に協力させ資金援助を引き出すためであることは明らかです。ただし「非ユダヤ人の権利や政治的地位を害するものではない」と書かれてもいます。

英国政府は、ユダヤ人がパレスチナの地に国民的郷土(national home)を樹立することにつき好意をもって見ることとし、その目的の達成のために最大限の努力を払うものとする。ただし、これは、パレスチナに在住する非ユダヤ人の市民権、宗教的権利、及び他の諸国に住むユダヤ人が享受している諸権利と政治的地位を、害するものではないことが明白に了解されるものとする。

英国の三枚舌外交のせいでパレスチナ問題がこじれた」とはよく言われますが、3つの協定や宣言を比べれば矛盾はしていません。英国は諸宗教や諸民族が混在してややこしいパレスチナを新たなアラブ国家に含めるとはしておらず、国際的管理下に置くとしたのです。ユダヤ人の独立主権民族国家ではなく「国民的郷土」という表現を用いているのもそうした思惑からです。

戦後はこれに従ってオスマン帝国領の分割が進められますが、アラブ側の反発により「パレスチナ」の範囲からヨルダン川以東(トランスヨルダン)は分離され、ユダヤ人居住地はヨルダン川から西に限られることになります。なお1926年にはアラビア半島中央部のナジュド王国がヒジャーズ王国を併合し、1932年にサウジアラビア王国となりました。

シオニストからすればやや期待はずれですが、国際的に承認された「ユダヤ人居住地」が作られたことには違いありません。シオニストに煽られた欧州のユダヤ人は続々とパレスチナへ移住し、集団農場(キブツ)や自衛組織を作り始めます。当然現地住民との衝突が起こり、アラブ民族主義が強まり、反ユダヤ主義・反シオニズム・ユダヤ人陰謀論が流布します。

アラブやイスラム教徒や元いたユダヤ人にとって、彼らは十字軍めいた欧州からの侵略者であり、共存するにはあまりにも文化が違っていたのです。ユダヤとアラブは憎み合うようになり、互いに独立主権民族国家の建設が望まれるようになるのは時間の問題でした。ペルシアやローマやオスマン帝国のような強大な多民族国家が常に争いを抑えていなければ、どうしようもありません。大英帝国が頑張ろうにも、もはやそんな力はありませんでした。

露国革命

世界大戦中の1917年には、首都ペトログラード(サンクトペテルブルク)での下級兵士らの反乱によりロシア革命(二月革命)が勃発し、ロシア帝国は内側から滅びました。ケレンスキー率いる暫定政権は戦争を継続しますが負けが込み、レーニンやトロツキー率いる社会主義党派ボリシェヴィキが武装蜂起して政権を奪いました(十月革命)。ここに史上初の社会主義国家「ソビエト社会主義ロシア共和国」が建国されます。のちのソビエト連邦です。ソビエトとは「評議会」の意味で、地名ではありません。

ロシア各地の反革命勢力はこれを打倒しようと立ち上がりますが、この時に流布されたのが「ロシア革命はユダヤ人の陰謀だ」という陰謀論であり、かの『議定書』でした。ロシア帝国ではユダヤ人への迫害が繰り返され、ロスチャイルド家やジェイコブ・シフら国際ユダヤ金融資本から憎まれていました。そのため世界大戦においても彼らから資金援助が得られず、資金提供への妨害がなされたのも事実です。

ロシア帝国が崩壊すると、ケレンスキーはフランス革命よろしくユダヤ人を「平等な市民である」とし、喜んだシフはケレンスキー政権へ多額の融資を行っています。しかし社会主義者のボリシェヴィキ政権には反発し、カネを返すよう要求したといいます。シフは1920年に逝去しました。

ボリシェヴィキにはトロツキーカーメネフジノヴィエフらユダヤ系ロシア人も参加していました。トロツキーの実家は裕福な農家で、学生時代にオルグされ共産主義に目覚めています。レーニンは父がテュルク系(チュヴァシ人とカルムイク人の混血)、母がドイツ人とスウェーデン人の混血で、母方の祖父が改宗ユダヤ人だとする説がありますが疑わしいようです。

ロシア内戦によって『議定書』は世界中に拡散されました。これにはロシア帝国や反革命勢力はもちろん、神智学協会などオカルト結社や各国の反共マスメディアも積極的に関わっています。社会不安を煽ることで信者や購読者を増やそうという目論見でしたが、政治家や経済界の大物にも信者が出て大騒ぎになりました。1918年に日本がシベリア出兵を行った時、白軍(反革命勢力)には全員この議定書が配布されていたといいます。

アメリカの自動車王ヘンリー・フォードは、ユダヤ陰謀論にのめり込んでいました。彼はハンガリー系ユダヤ人ロジカ・シュヴィンマーやユダヤ系ジャーナリストのハーマン・バーンスタインと1915年末に知り合い、「ユダヤ人は世界中のカネと権力を握り報道を支配している。ユダヤ人だけが世界大戦を止めさせることができる」と吹聴されたのだそうです。真に受けた彼は反ユダヤ主義に目覚めてしまい、労働者の間に流行していた社会主義もユダヤ人の陰謀だと考え、多くの著作や新聞を発刊して陰謀論をばら撒きました。

ユダヤ人は猛反発し、キリスト教自由主義者と組んでフォード社製品の不買運動などを行い、議定書が捏造であることを証明します。欧州や英国では議定書を巡って大論争が起きていましたが、1921年に種本が発覚して捏造であることが明らかになり、英国ではブームが下火になっていたのです。フォードは1927年に謝罪し、反ユダヤ主義や陰謀論を撤回しますが、既に出回ってしまった出版物は多くの人に読まれ、刷り込まれてしまいました。

背後一撃

ドイツでは大戦末期の1918年11月からドイツ革命が勃発して帝政が打倒されたため、軍部や右派・保守派から「戦争で負けたのではない、『背後からの一突き』でやられたのだ」という責任逃れ極まる論説が沸き起こりました。これは民族の誇りをくすぐることから広く受け入れられ、またロシア革命が起きており、左派政党にユダヤ系が多かったことから、ドイツ伝統の反ユダヤ主義と結びついて「ユダヤ人の陰謀だ」ということになっていきます。

オーストリア生まれバイエルン育ちの元伍長アドルフ・ヒトラーも、これを強烈に信じ込んだ一人でした。彼は大戦後に政治家となり、1920年に国家社会主義ドイツ労働者党(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei)を結成(ドイツ労働者党から改名)します。いわゆる「ナチス」です。

国家が社会主義的政治を行うのが国家社会主義です。社会主義国家との違いは左右の主義の違い程度で、どのみち全体主義の独裁国家になります。

敗戦により多額の賠償金を課せられ、国土を喪失し、1929年の世界恐慌で失業者が溢れかえったドイツにおいて、大ドイツ主義やドイツ民族主義を吹聴するヒトラーは救世主にも見えました。暴力や陰謀、アジテーションや賄賂も駆使してのし上がったヒトラーは、1933年にはドイツの首相に就任し、共産主義者を弾圧します。1934年には全権委任法を可決させ、ヒンデンブルク大統領が死去すると国家元首「フューラー(指導者、総統)」に就任し、国家や法の上に立つ存在であると宣言しました。

彼は有名な『我が闘争』において『シオン賢者の議定書』について触れ、「実際の出どころはどうでもいい、これこそユダヤ民族の本質と活動を暴露したものだ」「ユダヤ資本の新聞が繰り返し偽書であると主張しているが、それこそこれが本物であるという証拠だ」などと述べています。そして彼の政権下でホロコーストが起きました。反ユダヤ主義の暴動は多かれ少なかれ起きていますが、ナチス・ドイツやその占領地での殺戮は極端な例です。

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【続く】


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