見出し画像

【つの版】倭国から日本へ25・朝倉宮

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

西暦660年7月、百済は唐と新羅の連合軍に挟み撃ちにされ、首都を突かれてたちまち滅亡しました。しかし百済の残党は各地で武装蜂起し、祖国復興を企てます。王や王族の多くは唐へ連れ去られたものの、幸い倭国には人質として長年暮らしていた百済の王子豊璋がいました。豊璋と援軍の派遣を要請する使者を迎えた倭国は、宗主国として百済救援を約束します。

◆朝◆

◆倉◆

国際関係は錯綜してややこしいので、年表を参照して下さい。

斉明西征

斉明7年(661年)正月6日、斉明天皇と中大兄皇子らは軍勢を率いて難波津を出港し、筑紫へ向かいました。天皇が自ら筑紫へ向かうのは伝説上の景行天皇や仲哀天皇以来で、女帝が新羅征伐に向かうのは神功皇后の三韓征伐を彷彿とさせます。むしろ三韓征伐神話は、この時の斉明天皇の遠征を過去に投影し、卑彌呼と結びつけて作られたものだとも言われます。なお神功は敦賀・出雲を経て筑紫へ向かい、瀬戸内海を通って帰還しています。

1月8日に大伯(おおく、備前国邑久郡、岡山県瀬戸内市邑久町)の海に着いた時、大海人皇子の妃で中大兄の娘である大田姫が女子を出産し、大伯皇女(大来皇女)と名付けました。海外遠征に妊娠中の妃を伴うとは危ないことですが、大海人皇子も遠征に同行したことがわかります。1月14日、伊予国熟田津(にきたつ、愛媛県松山市)に上陸し、石湯行宮(道後温泉)に立ち寄ります。ここで2ヶ月も過ごした後、3月25日にようやく娜大津(なのおおつ、博多港)に到着しました。大田姫の産後のケアのためなら彼女らに従者をつけて置いておけばいいので、遠征準備のための長逗留でしょうか。

天皇は磐瀬行宮(福岡市南区三宅)に入り、長津(那珂津)宮と改めます。4月には百済の鬼室福信が使者を遣わし、百済王子糺解(くげ)をお迎えしたいと要請します。これは豊璋のことです。たぶん豊璋が漢名で、糺解は異名というか胡名(夫余語名)なのでしょう。

朝倉宮

5月9日、天皇は長津を離れて南に遷り、朝倉橘広庭宮(福岡県朝倉市須川)を造りました。しかし現地の朝倉社の樹木を伐採して用材にしたので、雷神が怒って御殿を破壊し、宮殿内には鬼火が現れ、近侍には病死する者が多かったといいます。なんと不吉なことでしょうか。

なお朝倉という地名が雄略天皇の「泊瀬朝倉宮」のようにヤマトにもあること、また朝倉の付近にヤマトにもある地名が似たような位置で分布していることなどから、安本美典氏は「高天原=邪馬台国はもともと甘木・朝倉にあり、卑弥呼は天照大神である。3世紀後半から4世紀にかけて、神武天皇によって奈良盆地へ邪馬台国が東遷した」という説を唱えています。魏志倭人伝と記紀神話の辻褄が合う、一見もっともらしい説ですね。彼は文学博士・心理学者であり、専門の考古学者や歴史学者ではありませんが、様々な数字や統計データも並べ立てられ、もっともらしさを強調しています。

しかしこれまで見て来たように、邪馬臺國は初めからヤマトであり、北部九州には一大率を置いて統治していました。考古学的にも3世紀初めには纒向遺跡が形成され、前方後円墳が築造されており、土器の形式もヤマトからのものが北部九州へ及んでいることが明らかになっています(東遷説では絶対認めませんが)。北部九州の倭王の権威がヤマトへ遷ったとしても、吉備や阿波・讃岐・出雲などと並ぶ地域大国のひとつとして広域倭国連合に加わったのであり、倭王自身やその王族が東遷した様子はありません。

魏志において伊都国王が邪馬臺國の女王卑彌呼とは別に存在し、一大率は王とは別に存在していて諸国を畏服させ、漢委奴国王の金印が志賀島から出土している以上、伊都国王が倭奴国王の後継者であって、ヤマトの王とは別系であることは明らかです。しかも伊都国や奴国の中心地は糸島市や博多にあり、朝倉ではありません。朝倉に北部九州を統一する程度の王がいたという考古学的な証拠もありませんし、わざわざ東遷する理由もわかりません。

じゃあ、朝倉周辺のヤマトっぽい地名はなぜ存在するのでしょうか。それはもちろん、ヤマトから斉明天皇が朝廷ごと移動してきて大本営を構えたからです。逆ではありません。彼女は地元の神社の樹木を伐採し、神に祟られる程度にはリスペクトがなく、朝倉が「高天原・ヤマトのもと」などというイメージは欠片もありませんし、古事記にも日本書紀にも全くそう書かれていません。神武東征(東遷)やそれ以前の日本神話は、古事記や日本書紀が編纂された頃にようやくまとめられ、作り出されたものに過ぎないのです。

遣唐使帰還

5月23日、耽羅国(済州島)が王子の阿波伎らを使者として遣わし、倭国に初めて朝貢しました。またこの使者は、一昨年唐に拘束された津守吉祥らを倭国に送り届けています。遣唐使の一行にいた伊吉博徳の記録によると、彼らは百済が平定された年(660年)の9月12日に釈放され、19日に長安を出発しました。10月16日に洛陽に着くと、別の遣唐使の阿利麻ら5人と再会します。彼らは前年に往路で遭難して生き残り、浙江に漂着して洛陽へ送られていましたが、大使も船も積荷も全部失ったので天子に謁見できず、洛陽に留められていたようです。

ちょうど天子も洛陽に来ており、百済からの捕虜も到着していました。11月1日、倭使らは百済の捕虜を引き連れて天子に謝罪し、天子は高楼の上から罪を許して釈放しました。19日に倭使は天子の慰労を受け、24日に洛陽を出発します。唐も倭国を敵に回すと半島情勢が混乱して面倒なので、倭使には「唐に逆らうなよ」と言い含めたでしょうが、そうとも知らず倭国は既に百済の残党と手を組んでしまっていました。知っていてもそうしたでしょう。

DSCF1818 - コピー

洛陽を発った倭使は、山東半島経由は危険なのでもと来た南ルートをとるよう命じられ、661年1月25日に越州(浙江省紹興市)へ戻ります。そこで準備を整え、4月1日に出港します。7日に檉岸山(舟山群島の須岸山)の南に着き、8日朝に西南の風に乗って出ますが、潮路を見失って漂流し、8夜9日後に耽羅へ漂着しました。舟山群島から済州島までは直線で520kmあり、8日なら1日65km、9日なら58kmほどです。それぐらいはかかるでしょう。

耽羅は百済の属国でしたが、百済が滅亡したところに倭国の使者が着いたので歓迎してもてなし、王子らが彼らを送り届けたというわけです。出発から帰国まで2年以上もかかった大冒険でした。なお倭使を讒言した人物は落雷に遭って死んだといいます。斉明天皇や中大兄皇子ら倭国首脳陣は唐の天子の伝言を承ったでしょうが、はいそうですかと帰るわけにも行きません。

半島情勢

660年8月からの半島情勢を見てみましょう。蘇定方ら唐軍の主力が高句麗を討つため北上すると、熊津都督の王文度が急死し(暗殺かも知れません)、各地で百済復興を目指す勢力が武装蜂起します。蘇定方は既に高句麗軍と対峙していて後退できず、9月3日に劉仁願を泗沘に留鎮させました。

彼は新羅の王子・金仁泰の率いる新羅兵7000と共に反乱軍と戦いますが、鬼室福信・道琛ら百済軍の士気は高く、唐軍は新羅に救援を要請する有様でした。また百済は倭国と手を組み、倭国も呼応して動き始めたらしく、このままでは唐軍は挟み撃ちにされてしまいます。新羅は唐が負ければ自分たちが滅びますから、必死に百済軍を叩きます。

龍朔元年(661年)3月、60歳の老将・劉仁軌が志願して検校帯方州刺史を拝し、泗沘城救援に赴きました。彼は前年に仕事上のミスで兵卒に落とされ、名誉挽回の機会を求めていたのです(劉仁願とは姓名が似ていますが血縁関係はありません)。彼は戦場に駆けつけると新羅兵と盟約し、力戦して百済軍を撃破します。道琛らは熊津江の河口に柵を築き唐軍を阻みますが、劉仁軌と新羅兵が四方から挟み撃ちすると、百済軍は狭い橋を渡って逃げようとして混乱し、多数の兵が水に落ちて死にました。道琛らはやむなく包囲を解いて任存城に戻り、新羅兵は兵糧切れで撤退します。

新羅王の金春秋(武烈王)は、唐軍主力と共に高句麗討伐に従軍し平壌を攻撃していましたが、この年の6月に薨去しました。直ちに長子の法敏(文武王)が跡を継ぎ、将軍の金庾信に命じて唐軍に兵糧を輸送しています。唐軍は任雅相、蘇定方、契苾何力、龐孝泰らを将軍として激しく攻撃したものの平壌は陥落しませんでした。高宗は4月に苦戦の報告を聞き、自ら出陣しようとしましたが皇后に諌められます。蘇定方や契苾何力が奮戦して手柄を立てたものの、9月には詔勅により撤退を開始します。

この頃、道琛と鬼室福信は各々将軍と自称し、勢力を伸ばしていました。劉仁軌は彼らに書状を送って禍福の理を説き、降伏せよと勧めましたが、道琛は驕り高ぶって使者と出会わず、「わしは一国の大将だ、もっと官位の高い使者を寄越せ」と伝えました。しかし驕慢過ぎて仲間割れを起こし、鬼室福信が道琛を殺したといいます(旧唐書東夷伝百済条)。

斉明崩御

百済では鬼室福信が豊璋と倭軍の到来を待ちわびていましたが、661年正月に出発した倭軍はなぜか道後温泉でのんびりしており、3月にようやく筑紫へ来たかと思えば5月までダラダラしています。倭軍の間には病気が流行していたようですし、新羅や唐の工作員による妨害工作もあったでしょう。6月には皇族の伊勢王が薨去し、7月24日には斉明天皇自身も朝倉宮で崩御します。68歳ですから寿命かと思われますが、波瀾万丈の人生でした。中大兄が皇太子として摂政しており、跡継ぎの問題はありません。

8月1日、皇太子は天皇の喪をつとめて磐瀬宮に戻りましたが、その夜には朝倉山の上に鬼が現れ、大きな笠をかぶって喪礼を見下ろしていたので、人々は怪しんだといいます。斉明天皇元年に出現した蘇我入鹿の霊とやらでしょうか。天皇を筑紫へ葬るわけにもいかず、10月7日に帰路につき、23日に難波に帰り、11月7日に飛鳥の川原で殯し、9日まで哀悼しました。

斉明天皇の崩御により、倭国から半島への出兵は一時中止となったようです。しかしこのまま百済を救援しないままでは、国内の百済系渡来帰化人が黙っていません。皇太子はどうするのでしょうか。

太子称制

中大兄皇子は、後に天命開別天皇/天智天皇の諡号で呼ばれますが、『日本書紀』によれば斉明天皇の崩御後、喪服をつけたまま皇太子の地位にとどまり称制(即位せずに政務をとること)しました。権威でも権力でも年齢でも功績の上でも反対する者はいないと思われますが、なぜでしょうか。一説には斉明天皇の後、孝徳天皇の皇后であった間人皇女(中大兄の同母妹)が「中皇命(なかつすめらみこと)」として即位し、中大兄は彼女を輔佐する形で政権を握り続けたといいますが、諸説が紛々としており定かでありません。とりあえず即位するまでは中大兄や皇太子と呼んでおきます。

天智紀を見ると、中大兄は斉明天皇崩御の後、7月末に長津宮に遷り大本営としました。ちょうど唐軍が高句麗を攻めて平壌を包囲しており、倭国も厳戒態勢を解くわけにはいきません。8月、安曇比羅夫・河辺百枝・阿倍比羅夫・物部熊・守君大石らを遣わして百済を救援させ、武器や食糧を送らせます。ついに倭国は百済救援に本腰を入れ始めました。阿倍比羅夫は最近まで蝦夷と共に粛慎と戦っていた歴戦の水軍の将です。とはいえ挙国一致の「大戦」となるであろう事態に、どこまで倭国が対応できるかは未知数です。

9月、百済王子豊璋に織冠を授け、多蔣敷(おおの・こもしき、太安万侶の祖父)の妹を妻に娶らせ、狭井檳榔秦田来津らに兵5000余を授けて伴わせ、百済へ送り込みました。鬼室福信は豊璋を歓迎し、平伏して国政を全て委ねます。しかし同じ記事が翌年5月にあり、いつ送ったのか判然とせず、斉明天皇の時に既に送っていたのかも知れません。10月に斉明天皇の棺は筑紫からヤマトへ帰りますが、皇太子が同行したかは定かでありません。

太子称制元年、すなわち天智元年壬戌(662年)正月、鬼室福信に多数の矢と甲冑用の皮・布・綿・糸、また兵糧として稲3000石を送ります。3月には百済王となった豊璋に布を賜って即位を祝賀しました。そして百済を救援するということは唐・新羅を敵に回し、高句麗を間接的に支援することです。高句麗は大いに倭国の援軍を喜び、使者を遣わして救援を求めました。

『旧唐書』によれば龍朔2年(662年)2月、淵蓋蘇文が沃沮(咸鏡南道)の蛇水で唐軍の補給線を断ち切り、龐孝泰を戦死させました。ついに唐軍は平壌の包囲を解き、退却します。こうなると、まず後方の百済の反乱を鎮圧してからとなりますし、百済についた倭国も叩かねばなりません。

7月、劉仁軌と劉仁願は兵を率いて鬼室福信を熊津の東で大いに破り、支羅城などを陥落させて多数を殺し、あるいは捕虜にしました。福信らは真峴城という要害に籠り防ぎましたが、劉仁軌は新羅の兵を率いて夜襲をかけ、城壁をよじ登って突入し陥落させました。福信らは逃亡し、新羅からの補給線が熊津江まで届くようになります。

『日本書紀』によると同年12月、豊璋と鬼室福信は倭の将軍と相談し、山に囲まれた州柔(周留)から水利がよく肥沃な平野にある避城(へさし、金堤か)へ移ろうとしました。秦田来津は「敵が近くて攻められやすい」と反対しましたが、豊璋らは聞き入れず、ついに遷都したといいます。のんきに平地へ遷都している場合ではありませんから伝説ですが、百済と倭国の間にも不和があったことを示すのでしょう。こんな調子で大丈夫でしょうか。

◆洋◆

◆縁◆

【続く】

つのにサポートすると、あなたには非常な幸福が舞い込みます。数種類のリアクションコメントも表示されます。