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【つの版】ウマと人類史02・騎馬遊牧

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 紀元前3500年頃、人類はおそらくウクライナ付近で野生のウマを家畜化し始めました。当初は食用や運搬、荷車牽引用でしたが、前2000年頃にスポークつき車輪が発明され、軽快な二輪戦車(チャリオット)が開発されると、ウシより脚の速いウマが牽くことで人類は卓越した機動戦力を手にします。そして、ついにはウマそのものにまたがる技術を身につけはじめました。

◆馬◆

◆憑依◆

騎馬淵源

「騎」という文字は、馬に「奇」と書きます。奇とは人(大)が折れ曲がった/不安定な姿(可)でいるさまをいい、騎とは馬に四頭(駟)立てなどで車を牽かせず単独(奇数)でおらせ、人が馬の上に跨る(脚を曲げて乗る)さまを表す文字です。チャイナにはウマは車(二輪戦車、馬車)を牽くものとして入ってきたのですから、それを通常でない(奇妙な)使い方をするのが騎なのです。二輪戦車の使用に慣れた人々にとって、ロバならともかくウマに単独で跨るのは、奇妙で不安定で危うい行為でした。

 しかし、ウマの使用に慣れた人々は、次第にウマの背に直接跨る乗り方を編み出し、利用し始めました。それがいつ、どこでのことかははっきりしませんが、ユーラシア内陸の草原地帯で始まった可能性は高いでしょう。ただ彼らは文字記録や絵画をほとんど残していません。エジプト、ヒッタイト、ミケーネなどの貴族の中には、ウマに乗ったと思われる形跡もありますが、ウマに「跨った」姿が描かれた最古の例はアッシリアにあります。

 アッシリアの歴史は非常に古いのですが、ハンムラビ率いる古バビロニアに敗れた後は都市国家として存続しました。しかしミタンニから軍事技術を学び、ミタンニやバビロニアを併呑して、ヒッタイトやエジプトに匹敵する大国にのし上がります。ヒッタイトが崩壊すると煽りを食ってか衰退しますが、やがて勢力を盛り返し、前10世紀には新アッシリア帝国となります。

 アッシリアはペルシアやローマにも匹敵する軍事大国で、軍の主力はウマが牽く二輪戦車(チャリオット)と歩兵でしたが、騎兵を初めて運用した帝国でもありました。チャリオットは平地では運用できないため、あえてウマを車から外し、戦士がそれに乗って戦うことが始まったのです。最古の騎兵の姿は紀元前865年頃、アッシリア王アッシュル・ナツィルパル2世(在位:紀元前883-前859年)の戦勝碑に浮き彫りで表されています。

 そこには、二頭のウマが一組でおり、それぞれのウマに戦士が跨っています。手前の一人が両手で弓を引き絞り、奥の一人は両手で二頭の手綱を操っているのです。ウマには鞍も鐙(あぶみ)もなく、非常に危なっかしい乗馬ですが、とにかく背には両脚を開いて跨った戦士が乗っているのですから、騎兵には違いありません。チャリオットも御者と戦士は別なため、自然とそうなったのでしょう。初期の騎兵はこのようなものでした。

 アッシュル・ナツィルパル2世の父トゥクルティ・ニヌルタ2世(在位:紀元前891-前884年)は、治世の初期にザグロス山脈へ遠征し、また騎兵部隊を初めて運用したとの記録があります。その姿は浮き彫りにありませんが、息子の時とそう変わらない状態だったでしょう。この新兵器によって、アッシリアは山岳地帯へも勢力を及ぼすことが可能になりました。

 アッシュル・ナツィルパル2世の子シャルマネセル3世(在位:紀元前859-前824年)は、聖書に出て来るイスラエル王アハブと戦いイエフを降伏させたことで有名ですが、アハブ側の対アッシリア連合軍には「アラビアの王ギンディブ」がおり、ラクダに乗った部隊を用いたと記されています。ヒトコブラクダの家畜化はすでにアラビアで開始されており、車は牽けませんがコブがあるので、これに騎乗することは古くから行われていたのでしょう。ウマより大きく威圧効果があるため、ラクダ騎兵はウマ騎兵には脅威でした。

 騎兵の運用はその後も続き、次第に技術も洗練されていきます。シャルマネセル2世から100年後、ティグラト・ピレセル3世(在位:紀元前744-前727年)の時には、馬上で槍を持った騎兵が現れます。手綱はそれぞれの騎兵が片手で操作し、片手で槍を持って戦うのです。これならより機動的で、歩兵の戦列へ突っ込ませて蹂躙することができますが、歩兵部隊はこれに対抗するため長い槍を装備し、槍衾を作って騎兵の突撃を防ぎました。

 このような戦法は、アッシリア人が独自に考えついたのでしょうか。あるいはザグロス山脈やイラン高原、カフカースや内陸ユーラシアでは、すでにウマに直接跨る戦法が存在しており、アッシリア人はそれを真似たのでしょうか。アッシリアの軍事技術のもととなったミタンニで、インド系アーリヤ人の戦士がウマを操っていたことを考えると、後者のような気もします。そして一人の戦士がウマに跨ったまま弓を射る高等技術、すなわち「騎射」の技術は、生まれつきウマと弓に親しんでいた民から発生したものでしょう。

騎馬遊牧

 ユーラシア内陸部やアフリカ、北欧の牧畜民は、徒歩やウマ、ラクダ、牛馬が牽く荷車、イヌが牽くソリなどに乗り、ヒツジやトナカイなどの群れに付き従って移動し、生活しています。このような生活様式を「遊牧」といいます。牧はウシを鞭や棒で打って追うことを意味する文字ですが、「遊」は旗が風に揺らめくように「移動する」ことを意味します。遊んでいるわけではありません。ブッダが4つの門を巡った故事を「四門出遊」と言います。英語ではnomadic pastoralism(移動牧畜)と呼ばれます。

 村落や都市に定住はしていませんが、無軌道に移動するわけでもなく、厳密な縄張りがあって、その中を定期的に往復します。家畜が飲む水や食べる草がある場所は決まっており、冬場になると山の麓など暖かい場所へ、夏場になると山の上など涼しい場所へと移動するのです。乳搾りは家畜が妊娠・出産・授乳する時期に行い、屠殺も季節の一定の時期に限って行い、各々を保存食に加工して食いつなぎます。足りなければ他の集団や定住地の住民と交易を行いますし、時には掠奪することもあります。このため定住民からは盗賊として嫌われますが、定住民だって征服戦争も盗賊行為もしています。

 半農半牧から牧畜主体になり、さらに定住すらやめた連中が遊牧民になったのでしょうが、詳しいことはわかりません。遊牧民でもオアシスなどで粗放な植物栽培は行いますし、漁労をする者もいます。移動牧畜だけでなく、痩せた農地をあちこち動いて使い回す「移動農耕」も古代ゲルマン人などが行っていた記録があります。いろいろな生活様式があるのです。

 ケニアのマサイ族は徒歩で家畜の遊牧を行いますが、徒歩で管理できる家畜の群れは、あまり多くはありません。しかし、ウマに乗って家畜を制御する場合、徒歩で行う場合の10倍もの家畜を統御できるといいます。ウマは大きくて草食ですから、ヒツジの群れもリーダーだと思って付き従いますし、草原に慣れていて耳が良く、敵(猛獣)の接近にもいち早く気づきます(厩戸皇子が豊聡耳と呼ばれたのはこのためでしょうか)。馬車や牛車で統御することもできますが、ウマに直接跨るよりは遅く、小回りもききません。こうしたわけで、騎馬して遊牧することは大きなメリットがあります。

 一般に、こうした生活様式をとる人々を「騎馬民族」「遊牧民族」などと呼びます。しかし、これは不正確です。「民族(nation,ethnos)」とは主権を持つ国民や文化を共有する集団を指す近代の政治用語ですが、彼らは言語も習俗も出自も多種多様で、遊牧という生業形態による民(people,人々)のくくりに過ぎません。騎馬しない遊牧民もいますから、「騎馬遊牧民」ないし「騎馬移動牧畜民(horseback-nomadic-pastoral-people)」とでも呼ぶべきでしょう。また彼らの支配下や同盟関係にある非遊牧民(農民、商人、職人や各種の都市住民)も大勢おり、国(部族連合)のくくりでいうならば、騎馬遊牧民「だけ」の国は多くありません(というか、国になりません)。

騎射誕生

 騎馬を日常的に行うようになれば、ウマの扱い方には慣れ親しみ、狩猟や戦闘においても大いに活躍できます。ことに騎乗して弓を射る「騎射」の技術は、騎馬遊牧民であれば子供の頃から慣れ親しませています。野獣や敵を遠くから撃退するのに極めて有用な技術だからです。騎兵は歩兵に比べて機動力も戦闘力も段違いですが、アッシリアやチャイナなど定住民の世界において、農耕馬でもない軍馬を飼育・鍛錬するには大量の飼葉やカネ(専門職の雇用)が必要となり、日常生活の役には立ちません。しかし騎馬遊牧民は生活そのものが戦闘訓練となり、多数の騎兵を動員することができます。

 ゆえに騎馬遊牧民の部族連合は強力な騎兵軍団そのもので、人口の上では遥かに勝る定住民の国に対して軍事的に優位に立つことができました。歴史上被害者になりがちな定住民からは悪し様に言われますが、自分たちで戦争を繰り返し草原まで侵略する定住民に言えた義理ではありません。では、このような騎馬遊牧民はいつどこで発生したのでしょうか。

 紀元前1500年頃、西のアンドロノヴォ文化(アーリヤ人)と東のアファナシェヴォ文化(トカラ人)が接触したあたり、バルハシ湖の北からアルタイ山脈にかけての地域に、カラスク文化が興りました。その中心地はエニセイ川上流部のミヌシンスク盆地で、モンゴル高原とシベリア、カザフスタン平原を繋ぐ要衝の地です。シベリアとはいえ比較的暮らしやすく、豊かな草原や鉱物資源に恵まれていました(アルタイとはテュルク・モンゴル語で「黄金」の意です)。アファナシェヴォ文化を担っていたトカラ人は、これらを求めて移住して来たのでしょう。前2000年頃、彼らが気候変動などにより南下すると、シベリアの森林地帯からモンゴロイド系の住民が移動してきて混ざり合い、オクネフ文化を築きました。これとアンドロノヴォ文化が混ざり合って生まれたのがカラスク文化と思われます。彼らは青銅器を用い、農耕と牧畜、鉱物の交易などを行いました。

 紀元前10世紀頃、内陸アジアでは寒冷化と湿潤化が始まり、カラスク文化圏には牧畜民や狩猟民が集まって、有力な部族連合を形成しました。彼らは東イラン系言語を共通語とし、「スクダ(Skuda)」と自称していました。これは印欧祖語(s)kewd-(押す、推進する)に遡り、英語shot,shootと同語源で、「射る者」を意味します。位置的にも考古学的にも、彼らが最古級の騎馬遊牧民であったことは間違いなく、それが「射る者」と自称したというのは、彼らが「騎射」の技術を有していたことを表します。近隣のトゥバ盆地やアルタイ地方には、彼らのものと思われる「鹿石」という石碑や石積みが分布しており、東は内モンゴル赤峰市の夏家店上層文化、南はオルドスや雲南の青銅器文化に強い影響を及ぼしました。チャイナでは胡、狄、戎などと呼ばれます。これらについてはあとでやりましょう。

 やがてスクダの一部は交易路に乗って移動を開始し、天山山脈やバルハシ湖沿岸、フェルガナ地方などへ南下したものは「スグダ(Sugda)」と訛って呼ばれました。彼らはのちにギリシア語でソグドイ(Sogdoi)、すなわちソグド人と呼ばれることになります。彼らが住み着いた中央アジアのアム川以北(トランス・オクシアナ、マー・ワラー・アン・ナフル)は、ギリシア語でソグディアナと呼ばれる領域になりました。

 ソグディアナの西、アラル海からカスピ海沿岸に至る領域には、ギリシア語でマッサゲタイ(Massagetai)と呼ばれた集団が住み着きました。おそらくは「大きな(mass)スクダ」を意味し、ソグドと同族でしょう。

 ヘロドトスの『歴史』によれば、このマッサゲタイによって東方へ追いやられ、黒海北岸に住み着いたのがスキタイ(Skythai)という集団でした。すなわちソグド人やマッサゲタイと同じ語源で、スクダの一派です。ギリシア語-aiや-oiは「○○人(複数形)」を意味するので、スキタイ/スキュタイとは「スキト人」「スクダ人」を意味します。彼らの住む地はギリシア語で「○○の地」を意味する-iaをつけて「スキティア(スクダ人の地)」と呼ばれました。アッシリア人は彼らをアシュクザーヤ(Askuzaia)ないしイシュクザーヤ(Iskuzaia)と呼び、ヘブライ語でアシュケナジム(Ashkenazim)と呼びましたが、これもスクダのことで、語頭にaやiがついただけです。

 さらにアッシリアの記録によれば紀元前844年頃、アッシリア王シャルマネセル3世は東方のザグロス山脈北部、ウルミエ湖周辺に割拠していたパルスア(Parsua)という部族と戦っています。これはギリシアの記録にいうペルシア(Persia)です。前835年頃にはその付近でアマダイ(Amadai)という部族とも戦っていますが、これは同じくメディア(Media)です。

 彼らはスクダと同じく「アーリヤ人」の一派で、西イラン系の言語を話していました。彼らやその周辺部族が、アッシリアへ騎兵という存在を伝えた可能性はあります。パルシュはのちに南下してイラン高原南西部のアンシャン地方へ移り、その地のエラム人と混淆してペルシア王国を建国します。パルシュとはペルシア語で「ウマに乗る者」を意味するともいい、アラビア語でもウマをfaras、騎士をfarisと呼ぶことがあります。

 ウマは印欧祖語では(h1)ekwo-sといい、「素早い」を意味する(h1)ek-u-に遡ります。トカラ語yuk/yakwe、ヒッタイト語ekkus、ラテン語equusは古い形を伝えています。ギリシア語ではokys,ikkosが訛ってhipposとなり、ケルト語ではech,epos、ゲルマン祖語ではehwazです。サンスクリットではasva、古ペルシア語ではaspaです。英語horseは別の語源kurs-(速く行く、運ぶ、車)を意味する語から派生したもので、chariotやcarry,carなどと同じ語源です。セム諸語ではアッカド語sisi、ヘブライ語sus、アラム語susyaなどがありますが、これはasva,aspaと関係があるのでしょうか。

 ともあれ、こうして紀元前9世紀頃にはウマに直接跨って移動し、遊牧や戦闘、騎射を行う集団が世界各地に出現しました。彼らは定住民の世界を交易によって繋ぐとともに、軍事力で圧力をかけて侵略し、掠奪を行う恐るべき集団でした。長きにわたる騎馬遊牧民と定住民の対立が始まったのです。

◆走◆

◆馬◆

【続く】

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