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【つの版】ウマと人類史:中世後期編15・巴布流浪

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 15世紀、モンゴル高原ではオイラトとモンゴルが明朝も交えてしのぎを削っていましたが、次第にオイラトは衰えます。15世紀末から16世紀にかけてモンゴル帝国はダヤン・ハーンのもとで再編成され、強国として再び勢力を振るい始めます。この頃、西方はどうなっていたのでしょうか。

◆ウズ◆

◆ベク◆

西域興亡

 明朝の西、オイラトの南には、チャガタイ・ウルスの後継国家のひとつであるモグーリスターンがあります。オイラトはアルタイ山脈とジュンガル盆地を根拠地とし、モグーリスターンは天山山脈とタリム盆地を支配下に置いており、国境を接するため互いに争っていました。明朝は甘粛以西に割拠する諸部族・諸勢力に名目的な官職を授ける「羈縻政策」を行って手懐けており、回族(サリク・ウイグル)やハミ、モグーリスターンも従っています。

 1417年に即位したモグーリスターンの君主ワイスは首都をビシュバリクからイリバリク(イリ・カザフ自治州クルジャ市)に遷し、明朝に朝貢してオイラトと戦いますが、1421年にティムール朝の支援を受けた従兄弟シール・ムハンマドに敗れて追放されます。しかしシール・ムハンマドはティムール朝に逆らって争いとなり、ワイスが1425年に復位しました。オイラトのエセンは1428年モグーリスターンに侵攻し、ワイスを捕虜として服属させます。ワイスは東のトゥルファンを征服しますが、1432年頃戦死しました。

 ワイスの死後、モグーリスターンはその子ユーヌスエセン・ブカのどちらを君主とするかで国内が分裂します。形勢不利とみたユーヌスはティムール朝に亡命して、エセン・ブカが君主となりました。ユーヌスはサマルカンド総督ウルグ・ベクに監禁されますが、ウルグ・ベクの父でイラン側を統治するシャー・ルフに引き取られ、20年近くを過ごすこととなります。

 ティムールの四男シャー・ルフは1409年にアミール(国王)として即位した後、新たなハンを傀儡として据えることもなく、テュルク系のイスラム王朝ティムール帝国の君主となりました。彼はアム川を境に国を分け、北側のマーワラーアンナフルを息子ウルグ・ベクに委ねると、ヘラートに都を置いてホラーサーンとイラン高原を支配します。40年近くに及ぶ彼の治世の下、ティムール朝は繁栄を極め、明朝とも友好関係を結びました。

 1414年にはシャー・ルフの部下のヒズルがデリーのトゥグルク朝を滅ぼしてサイイド朝を開いています。彼はシャー・ルフを宗主としてデリー周辺を統治したものの、1421年にヒズルが死ぬと後継者はティムール朝から独立を宣言します。この王朝は1451年にローディー朝にとってかわられました。

 しかし、1447年にシャー・ルフが逝去し、1449年にウルグ・ベクも暗殺されると、ティムール朝は後継者を巡る争いで再び崩壊します。ウルグ・ベクの子アブドゥッラティーフは1450年に暗殺され、次のアブドゥッラー・ミズラも1451年に殺され、ミーラーン・シャーの孫アブー・サイードがサマルカンドで即位しました。彼を支援したのがウズベク人という勢力です。

昔班王朝

 ティムール朝の北方、ジョチ・ウルスに目を向けてみましょう。かつてティムールはトクタミシュを支援してジョチ・ウルスの君主とし、トクタミシュが裏切るとこれを攻め、1397年に打ち破って、将軍エディゲをジョチ・ウルスの支配者に任命します。エディゲはジョチ裔トカ・テムル家のテムル・クトルクを君主としますが、1399年にテムル・クトルクが死ぬと彼の従兄弟シャディ・ベクを担いで傀儡とします。彼は1407年にエディゲに歯向かって殺され、エディゲはテムル・クトルクの子ボラトを擁立します。1410年にボラトが死ぬと弟テムルが擁立されます。

 1411年、テムルはエディゲを追放しますが、後ろ盾を失ったためトクタミシュの子ジャラールッディーンに攻撃され、1412年に殺されます。すると今度はトクタミシュの子らの間で殺し合いになり、カリム・ベルディ、ケベク、ジャッバール・ベルディらが王位を争った挙げ句、1414年にエディゲが戻ってきてチェクレ、次いでダルヴィーシュを擁立します。しかしトクタミシュの子らはリトアニア大公国と手を組み、1419年にエディゲを打ち破って駆逐し、同年にエディゲは殺されます。その後も王位争いは続きますが、もはや王権は首都サライの周辺にしか及ばなくなっていきます。

 広大なジョチ・ウルスでは、争いに乗じて独立政権が次々と誕生します。1428年には東方でジョチ裔シバン家のアブル=ハイルが諸部族を糾合してハンを称し、シャイバーニー朝(シバンの家)と呼ばれる政権を建てました。彼は1430年頃から南下してティムール朝のホラズムを侵略し、1446年までにはカザフ草原の大部分を統一します。

 ティムール朝では、この勢力を「ウズベク人(ウズベキヤーン)」と呼びました。14世紀にジョチ・ウルスの最盛期を築いたウズベク・ハンに由来するらしく、ジョチ家の君主に従うムスリムとしての自称と思われます。語源上は「氏族(oghuz)の君主(beg)」となります。
 これに対し、旧オルダ・ウルスの残党でシャイバーニー朝に服属しなかった者たちは東方へ移動し、モグーリスターン領のセミレチエ地方(バルハシ湖の南)に入って「カザフ・ウズベク(放浪の/自由なウズベク)」と呼ばれました。

 1451年、シャイバーニー朝の君主アブル=ハイルは、サマルカンドで獄中にあったティムール朝の王族アブー・サイードの救援要請に応じ、マーワラーアンナフルに侵入しました。その甲斐あってアブー・サイードは王位につくことができましたが、アブル=ハイルを恐れてサマルカンドの外にとどめておき、莫大な贈り物と王族の女性を贈ってお帰り願いました。

 モグーリスターンのエセン・ブカは、この混乱に乗じてティムール朝に侵入し、タシュケントまで侵攻します。アブー・サイードはこれを撃退し、エセン・ブカの兄ユーヌスに軍隊をつけてカシュガルに向かわせ、モグーリスターンを分裂させます。また南のティムール朝ヘラート政権と戦い、イラン西部の黒羊朝と同盟して西方を安定させ、ヘラート政権を併合してホラーサーンを再統一しました。1462年にエセン・ブカが死ぬと息子ドースト・ムハンマドが跡を継ぎますが、ユーヌスはカシュガルを拠点として争い、1469年にこれを倒してモグーリスターンを再統一します。

群雄割拠

 1468年にアブル=ハイルが逝去すると、シャイバーニー朝は一時崩壊し、多くの亡命者が東方のカザフ集団に合流します。彼らはジョチ裔トカ・テムル家のオロスの子孫ケレイとジャーニー・ベクを君主に戴き、カザフ・ハン国となりました。1469年にはアブー・サイードが西方の白羊朝との戦いで敗れ、捉えられて処刑されます。せっかく再統一されたティムール朝はまたも分裂崩壊し、サマルカンドにはアブー・サイードの子スルタン・アフマド、ヘラートには別の王族フサイン・バイカラが割拠しました。

 黒羊(カラ・コユンル)朝と白羊(アク・コユンル)朝は、ともにイラン西部からアルメニア高原にかけて割拠していたトゥルクマーン(ムスリム化したテュルク系騎馬遊牧民)の政権です。当初はティムールに服属していましたが、ティムールの逝去後に勢力を広げ、黒羊朝はアゼルバイジャン地方を征服してタブリーズに都を置きます。その西の白羊朝は黒羊朝に服属していたものの、1468年に名君ウズン・ハサンが黒羊朝を滅ぼし、翌年ティムール朝のアブー・サイードも処刑して、イラン高原を制圧しました。

 ウズン・ハサンはティムール朝を服属させるべく、シャー・ルフ家のヤードガール・ムハンマドを支援してヘラートへ進軍させます。フサイン・バイカラは鋭鋒を避けて撤退し、1ヶ月半後にヘラートを奪還し、サマルカンド政権とも争うことなく独立を保ちました。幸いにもウズン・ハサンは1473年にオスマン帝国との戦いに敗れ、1478年に逝去し、白羊朝は崩壊します。

 この頃の中央アジアからイラン高原までを見回すと、モグーリスターンはユーヌスが君主ですが、有力アミールや王子らの反乱が相次いでおり、王権は安定していません。シャイバーニー朝は崩壊し、カザフが西方へ勢力を伸ばしています。サマルカンドとヘラートのティムール朝も安定政権とはいかず、王族や有力者がしのぎを削ることは変わりません。こうした中、1483年にティムール朝の王族としてバーブルが生まれました。彼は波乱万丈の人生を送り、最終的にインドへ侵攻、ムガル帝国の祖となります。

巴布流浪

 バーブルの祖父はアブー・サイードで、父ウマル・シャイフは14歳の時に父を亡くし、サマルカンド政権の王族としてフェルガナ地方を統治していました。当時のフェルガナは西のモグーリスターン、北のカザフやウズベク、西のマーワラーアンナフルに通じる要衝の地です。バーブルの母クトルグ・ニガール・ハーヌムはモグーリスターンの君主ユーヌスの娘で、1475年にウマル・シャイフに嫁ぎ、1483年にバーブルを出産しました。ユーヌスはチャガタイ家のモンゴル王族ですからチンギス・カンの末裔です。

 1487年に母方の祖父ユーヌスが亡くなると、その子マフムードがハンとなりますが、次男アフマド・アラクは東のトゥルファンへ遷って自立し、ハミを巡って明朝と戦っています。1494年、バーブルの父ウマル・シャイフが事故死すると、母方の叔父マフムード・ハン、父方の伯父でサマルカンドの君主アフマドが東西からフェルガナへ攻め寄せました。幼いバーブルは家臣らの助けでこれを撃退し、父の葬儀を執り行います。

 この頃、北方ではアブル=ハイルの孫ムハンマドがウズベク集団を再びまとめ上げ、シャイバーニー朝のハンとなります。マーワラーアンナフルではバーブルを含むティムール朝の王族がサマルカンドの王位を争っており、ムハンマドは彼らの要請を受けて南下します。バーブルは1497年にサマルカンドに入城しますが、その後はウズベク軍に追われて各地を転戦した末、1504年にはヒンドゥークシュ山脈を越えてカーブルを占領します。

 ウズベク軍はマーワラーアンナフル、フェルガナ、ホラズムを征服し、1507年にはヘラートを陥落させ、バーブルは追い詰められます。しかしムハンマドはカザフ遠征に失敗し、1510年にはメルブで西の新興勢力サファヴィー朝に敗れて戦死し、頭蓋骨は金箔を塗られて髑髏杯にされてしまいます。

 サファヴィー朝はアゼルバイジャン地方に興ったイスラム教シーア派の神秘主義教団が、白羊朝の崩壊に乗じて勢力を広げ、1501年にタブリーズを占領して都としたものです。君主イスマーイールの母は白羊朝の名君ウズン・ハサンの娘でした。1508年にはバグダードを征服して白羊朝を滅ぼし、西イランとイラクを制圧して、オスマン帝国やシャイバーニー朝と対峙します。

 サファヴィー教団の信者はトゥルクマーンに多く、教主は彼らに赤い帽子をかぶせて目印とし、テュルク語でクズルバシュ(赤い頭)と呼びました。そのためオスマン帝国やシャイバーニー朝では、サファヴィー朝を「クズルバシュの国」と呼んでいます。チャイナの紅巾の乱めいていますね。

 バーブルはこの機会にサマルカンドを奪還すべしと北上し、イスマーイールに使者を送って臣従と引き換えに援助を要請、ブハラとサマルカンドに入城します。しかしスンナ派の住民はシーア派による支配を嫌い、1512年にはムハンマドの甥ウバイドゥッラーがバーブルを追い出します。

 1514年には後ろ盾のイスマーイールがオスマン帝国に大敗を喫し、バーブルはマーワラーアンナフルを再び失ってカーブルに戻ります。こうなると、バーブルの活路はインドにしかありません。デリーではローディー朝の名君シカンダルが1517年に崩御し、王子たちが貴族とともに王位を巡って争っており、ラージプートやグジャラートの諸侯も従っていませんでした。

 バーブルはパンジャーブ、カンダハールに侵攻して勢力を広げ、地方領主と小競り合いを繰り広げたのち、1526年4月にはパーニーパットの戦いでローディー朝の大軍を撃破、デリーに入城します。彼は周辺勢力との激しい戦いの後1530年に崩御し、子のフマーユーンが跡を継ぎました。

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 バーブルは1508年にカーブルでパーディシャー(帝王)を名乗っていましたが、自らの政権をティムール朝、あるいはグールカーン朝(Gurkaniyan、チンギス家の娘婿[キュレゲン]の家)と称しています。また北インドを征服したことからヒンドゥスターンとも称しましたが、出自がモンゴル系であることからペルシア語でモゴール/ムグール、訛ってムガールと呼ばれるようにもなりました。ムガル帝国とは「モンゴル帝国」の訛りなのです。

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 中世後期から近世初期、15世紀から16世紀にかけて、中央ユーラシア各地は大変動を迎えていました。次回はさらに西へ目を向けて見ましょう。

【続く】

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