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【つの版】度量衡比較・貨幣139

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 正徳6年/享保元年(1716年)に第7代将軍・徳川家継が8歳で薨去し、紀州徳川家の藩主・吉宗が徳川宗家の養子となって将軍位を継承します。幼い家継を傀儡として権勢を振るっていた間部詮房・新井白石らは失脚し、吉宗は彼らの政策を一部受け継ぎつつ、幕政改革を推し進めて行きます。

◆松◆

◆健◆


徳川吉宗

 徳川吉宗は、家康の10男で紀州徳川家の祖である頼宣の孫にあたり、貞享元年(1684年)10月に生まれました。父の光貞は既に55歳の老齢で、綱教つなのり・次郎吉(1679年に13歳で早世)・頼元よりもとという3人の男子を儲けており、正室として伏見宮家から照子女王を迎えていましたが、子はみな側室が産んでいます。ただ吉宗の母・由利(お紋)は大奥の湯殿番で身分が低く、生まれたばかりの彼は家老の加納政直に預けられ、源六と命名されて5歳まで養育されます。のち父に認知されて新之助の仮名を授かり、江戸の紀州藩邸に移り住みました。

 元禄9年(1696年)末に13歳で元服して松平頼久よりひさと名乗り、従四位下・右近衛権少将兼主税頭に任じられます。翌元禄10年に将軍綱吉に謁見して名を頼方よりかたと改め、越前国丹生郡内に3万石を賜り葛野藩主となります。4歳上の兄・頼元(改名して頼職)もほぼ同じ待遇を受けていますが、20歳近く年上の長兄・綱教は将軍綱吉の娘・鶴姫を娶っており別格で、翌元禄11年に父が隠居すると家督を継ぎました。ところが宝永元年(1704年)に鶴姫が、翌宝永2年には綱教・光貞・頼職が相次いで疱瘡により病没したため、頼方が22歳で紀州藩主を継承することになります。この時将軍綱吉から偏諱を賜り「吉宗」と改名しました。

 紀州藩は代々善政を敷いて領民から慕われていましたが、疫病の流行や相次ぐ喪儀による出費に加え、宝永4年(1707年)10月に起きた大地震と津波によって大きな被害を受け、その復旧費により財政が大幅に悪化しました。吉宗は宝永7年(1710年)に国入りすると藩政改革を推し進め、藩政機構の簡素化、質素倹約の徹底などにより財政再建を図ります。また城の大手門前に訴訟箱を設置して領民に意見を求め、文武を奨励し孝行を褒賞するなど、風紀の改革にも努めました。この時の藩政改革の手法は、のちの幕政改革にも取り入れられています。こうした善政による風評も手伝って、家継が薨去すると吉宗は次期将軍に擁立されたのです。時に43歳の壮年でした。

 これまでは藩主が将軍に選ばれると、もとの藩は取り潰され、家臣は幕臣となるのが通例でしたが、吉宗は父方の従兄で伊予西条藩主の松平頼致(改名して徳川宗直)に家督を譲り、紀州藩を存続させています。紀州藩は家康が大坂や畿内・西国の諸大名を抑えるために設置していますから、これを取り潰せば幕府の支配体制が揺らぎかねません。幕府直轄地とするにも55万石余(紀伊国37万石+伊勢松坂17万9000石+大和国1000石)は大きすぎます。

 さて、親藩とはいえ他家から養子に来て将軍家を継ぐのですから、最初にすべきは政権の地盤固めです。しかし家宣の時のように藩士全員を幕臣に取り立てれば反感を買いますし、紀州藩を存続させた以上全員を連れてくることもできません。そこで吉宗は紀州藩年寄の小笠原胤次、御用役(側近)の有馬氏倫加納久通ら大禄でない者40名余りを率いて江戸城に入りました。

 幕閣や大名は安心しますが、吉宗は小笠原・有馬・加納の3名を御側衆に取り立て、特に有馬・加納の2名を申次もうしつぎ(将軍に報告・上奏を行い、命令を伝達する役)とし、事実上の側用人政治を継続します。彼らは「御側御用取次」と呼ばれ、将軍と諸役人との取次、政策・人事の相談や情報源の管理なども行い、将軍の手足として権力を振るうことになります。また紀州藩士はその後も続々と幕臣に取り立てられ、10年後には紀州藩上士の1/4に相当する205名にも及びました。

 このうち十数名は紀州藩の薬込役という奥向きの警備役で、幕臣に編入されて「御庭番」と呼ばれ、大奥の警護および内外の監査・諜報活動とその報告を秘密裏に行いました。かつての伊賀者・甲賀者のような間諜で、広義の「忍者/忍び」に相当します。身分上では下級の幕臣・旗本にあたりますが、将軍や取次と直接情報をやり取りするため重要な役割です。

 とはいえ旧来の幕閣も有能な者は取り立てられています。享保2年(1717年)には水野忠之が老中に任命され、普請奉行であった大岡忠相江戸南町奉行に任命されて、ともに吉宗の幕政改革を推進しました。

享保改革

 この間、吉宗は矢継ぎ早に改革を行っています。享保2年(1717年)には正徳改め享保金銀の旧金銀との交換を強制化し、享保4年(1719年)には「相対済あいたいすまし」を発布します。これは寛文元年(1661年)・貞享2年(1685年)・元禄15年(1702年)にも発布されたもので、「金公事(金銀貸借関係の民事訴訟)は当事者同士で解決せよ」という示談促進法令です。ただし利息を伴わない事例、宗教目的による祠堂銭(名目金)、この法令を悪用した借金の踏み倒し行為は例外とされます。

 これが発布されたのは、度重なる貨幣改鋳で市場が混乱し、金銭に関わる訴訟が増えすぎて幕府の評定所(裁判所)が機能不全に陥っていたためでした。実際、享保3年に持ち込まれた公事3万5790件のうち金公事は3万3037件と92.3%に及び、年内に処理できたのは1/3という有様で、犯罪者を裁く刑事訴訟の処理が滞っていたのです。しかしその後も民間の金銭トラブルは絶えず、評定所はこれにかかわらざるを得なくなっていきます。

 地盤固めの政策としては、いわゆる「目安箱」の設置があります。これは大化の改新の時や奈良時代、戦国時代にも行われたもので、吉宗が紀州藩主の時にも設置されました。箱には庶民の意見・訴状(目安)を投書することを月3回許可し、住所・氏名を記さないものは不可とされ、何重ものチェックを経て将軍に届けられます。貴重な庶民のナマの意見とはいえ、ほとんどは悪口雑言のたぐいでしたが、ある程度ガス抜きにはなったことでしょう。本当に必要な情報は御庭番役が別ルートで報告しています。

 この目安箱への投書のひとつが、漢方医の小川笙船による「貧民を救済するために施薬院(無料の医療施設)を設立されたし」という嘆願でした。この頃、江戸には農村から人口が流入して貧民が溢れており、彼らへの対策は治安上も衛生上も急務です。そこで享保7年(1722年)正月、吉宗はこれを採用して有馬氏倫に設立を命じ、幕府が薬草栽培用に設立していた小石川御薬園内に養生所を建築させました。

 建築費用は金210両と銀12匁、経常費用は金289両と銀12匁1分8厘と計算され、金1両を現代日本の20万円相当とすればそれぞれ4200万円余と5780万円余です。当初は杮葺こけらぶきの長屋で収容人員は40名程度、人員は管理役の与力2名、同心10名、雑用担当の中間8名、医師は7名ですから、こんなもんでしょう。庶民の間には「薬草の人体実験をするつもりだ」「入ったら無宿者ホームレス扱いだ」と風評が立ちましたが、努力もあって次第に受け入れられ、規模も拡大して、享保11年(1726年)には250名もの患者が入所しています。この小石川療養所は幕末まで存続しました。

 また江戸市中の火災対策として、町火消まちびけし(民間消防団)の組織化もこの頃に行われています。江戸では当初は武家地では武家が、町人地では町人が各自で自発的に消火活動を行う程度でしたが、相次ぐ大火に対処するため幕府直営の消防団「定火消」が組織されていました。しかし広大な江戸全域には手が回らず、町火消を整備・組分けして担当地域を割り振ることになったのです。さらに防火建築の奨励、延焼を防ぐための火除け地の設定なども行われましたが、江戸の火災はこの後も頻発しました。

 この他、犬追物や鷹狩の解禁(将軍による江戸各地の視察)、武士に対する武芸の奨励、大奥の人員削減(4000名から1300名へ)、キリスト教と無関係な西洋書籍の一部輸入解禁(蘭学流行の端緒)、訴訟迅速化のための「公事方御定書」の制定(司法制度改革)など多くの重要な改革が行われ、吉宗は幕府中興の祖として讃えられることになります。そして特に重要なのが、混乱していた市場経済と幕府財政の安定化でした。

◆吉◆

◆宗◆

【続く】

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