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【つの版】倭の五王への道10・新羅建国

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

西暦371年冬、百済は平壌まで攻め込んで高句麗の王を討ち取り、翌年には東晋へ朝貢使節を送り、倭国に七支刀を贈って友好関係を結びました。対する高句麗は戦死した王の子を頂いて百済と睨み合い、燕に代わって華北の覇者となったに服属します。高句麗から百済への復讐はどのように成し遂げられるでしょう。倭国はまだ積極的に半島有事に関わっては来ていません。

◆神◆

◆羅◆

東晋と秦

まずチャイナの状況を見てみましょう。369年の第三次北伐に失敗した桓温は、江蘇省北部に駐屯して再進撃を図りますが、疫病や士気の低下で動けないでいる間に、秦が燕を併呑してしまいます。河南省・安徽省の大部分は桓温が抑えたものの、華北を奪還するのは困難になりました。苛立った桓温は建康(南京)の東晋朝廷に乗り込むと、皇帝を廃位して会稽王司馬昱を皇帝に据え(簡文帝)、帝位の禅譲を迫ります。司馬昱は気苦労の余り間もなく崩御しますが、謝安らの尽力で昱の子の曜(孝武帝)が即位し、桓温の寿命が先に尽きて373年7月に65歳で病死しました。この功績により、謝安は東晋の政権を担うこととなり、国勢の立て直しに着手します。

秦は燕の残党を併呑し高句麗を服属させると、東晋との国境を固めつつ西方平定に乗り出します。甘粛省の涼国、青海省の吐谷渾を服属させると、373年には勢いに乗じて東晋領の漢中・巴蜀を攻め取り、376年には涼を滅ぼします。また匈奴鉄弗部の要請に応じてフフホト付近の代国(鮮卑拓跋部)を滅ぼし、華北をほぼ統一しました。高句麗が従う秦は日の出の勢いですが、百済が頼みとする東晋は漢中・巴蜀を失い、今にも秦に滅ぼされてもおかしくない状況です。僅かな年月で国際状況は大きく変化しました。

『三国史記』によれば372年6月、秦は高句麗に使者と仏教の僧侶を派遣し、仏像と経文を贈りました。これが高句麗における仏教の始まりとされ、375年2月には肖門寺・伊弗蘭寺を創建しています。仏教は西方から伝来した世界宗教であるため胡人にも好まれました。後趙には仏図澄が来て仏教を広め、その弟子の釈道安は東晋の襄陽に遷りましたが、379年に秦国が襄陽を攻め取った時に連れ去られ、皇帝苻堅の顧問となっています。

高句麗と百済は、秦と東晋の代理戦争めいた形で小競り合いを繰り返していました。375年に百済の(近)肖古王が逝去すると、376年11月には高句麗が百済を攻め、377年10月には百済が高句麗領の平壌まで攻め込んでいます。当時の高句麗の首都はまだ丸都城で、平壌は南方における拠点に過ぎませんが、ここを失えば朝鮮半島を失うも同然ですから必死に反撃します。11月、高句麗は百済を攻めて南へ押し返しました。

新羅の出現

『晋書』等には見えませんが、北宋の『資治通鑑』晋紀巻104によれば、東晋の太元二年(西暦377年)春、高句麗、新羅、西南夷が秦に遣使入貢しました。これは時系列上、チャイナの史書に初めて現れる「新羅」の名です。

太元二年春、高句麗、新羅、西南夷皆遣使入貢於秦。

また10世紀末の宋で編纂された『太平御覧』巻781・四夷部東夷新羅条に『秦書』という逸書からの引用があります。

秦書曰、苻堅建元十八年、新羅国王楼寒、遣使衛頭、献美女。国在百済東。其人多美髪、髪長丈余。又曰、苻堅時、新羅国王楼寒、遣使衛頭朝貢。堅曰、卿言海東之事、与古不同何也。答曰、亦猶中国時代変革、名号改易。
秦書にいわく、苻堅の建元18年(西暦382年)、新羅国王の楼寒が、衛頭という使者を派遣して美女を献上した。その国は百済の東にある。その人は多く美髪で、髪の長さは丈余である。またいわく、苻堅の時に新羅国王の楼寒が衛頭を派遣して朝貢した。苻堅は「あなたが言う海東(朝鮮半島)の事は古い書物と同じではないが、なぜだ?」と問うと、衛頭は「中国も時代が変革して、名号が改められているではありませんか」と答えたという。

『晋書』苻堅載記に新羅朝貢の記事はありませんが、建元16年(380年)条に「海東諸國、凡六十有二王、皆遣使貢其方物」という記述はあります。また同年に幽州で皇族の苻洛が反乱した時、「苻洛は鮮卑、烏丸、高句麗、百済、薛羅(新羅)、休忍などの諸国に使者を派遣して徴兵しようとしたが、どこもこれに応じなかった」ともあります。さて、新羅はいつ、どのようにして建国されたのでしょうか。

新羅建国伝説

『三国史記』新羅本紀は、天から降臨した朴赫居世により漢の五鳳元年(前57年)に建国されたとしますが、例によってフィクションです。この年代や初期の王たちは、新羅が高句麗や百済より古くから存在すると主張するために創作されたに過ぎません。西暦377年や382年に在位していたのは第17代の奈勿(在位:356-402)で、姓であったといいます。

『日本書紀』では、素戔嗚尊が高天原から新羅に降臨して曾之茂利に居住したが、のち船に乗って出雲に渡ったとあります。垂仁天皇3年(前27年?)には「新羅王子の天日槍」が渡来・帰化して但馬に住み着いたとし、神功皇后摂政元年(201年→321年?)に新羅が日本の属国になったとします。また『新撰姓氏録』では、神武東征の時に海中に没した神武の兄・稲飯命が新羅王家の祖とします。いずれも後世の日本(倭国)の伝承で、やはり史実ではありませんが、新羅と倭地の交流をうかがわせるものではあります。『三国史記』新羅本紀にも瓠公という倭人が出てきて初期国政に関わっています。

チャイナの史書はどうでしょうか。梁の『職貢図』にはこうあります。

斯羅國、本東夷辰韓之小國也。魏時曰斯羅、宋時曰新羅、其實一也。或屬韓或屬倭、國王不能自通使聘。普通二年、其王姓募名秦、始使隨百濟奉表献方物。其國有城、號曰健年。其俗與高麗相類。無文字、刻木為範、言語待百濟而後通焉。
斯羅国は、もと東夷辰韓の小国である。魏の時は斯羅といい、宋の時は新羅といい、その実はひとつである。あるいは韓に属し、あるいは倭に属し、その国王は自ら使者を(南朝に)通じることができなかった。(しかし)普通二年(521年)に王の募秦が百済に随伴して初めて朝貢した。国には城があり、健年(牟)という。習俗は高麗(高句麗)と類似し、文字はなく木を刻んで範とする。言語は百済の通訳を待って通じる。

梁書』ではこうです。

新羅者、其先本辰韓種也。辰韓亦曰秦韓、相去萬里、傳言秦世亡人避役來適馬韓、馬韓亦割其東界居之、以秦人、故名之曰秦韓。其言語名物有似中國人、名國為邦、弓為弧、賊為寇、行酒為行觴、相呼皆為徒、不與馬韓同。又辰韓王常用馬韓人作之、世相係、辰韓不得自立為王、明其流移之人故也、恒為馬韓所制。辰韓始有六國、稍分為十二、新羅則其一也。其國在百濟東南五千餘里。其地東濱大海、南北與句驪、百濟接。魏時曰新盧、宋時曰新羅、或曰斯羅。其國小、不能自通使聘。普通二年、王姓募名秦、始遣使隨百濟奉獻方物。…
新羅は、その先はもと辰韓の種である。辰韓は秦韓ともいう。(梁の首都から新羅まで)相去ること万里。伝承によれば、秦代に労役を避けた逃亡民が馬韓にやって来たので、馬韓は東の境界を分割して居住させた。ゆえに秦韓という。その言語や名称は中国人と似ており、国を邦、弓を弧、賊を寇、行酒を行觴、皆を徒と呼び、(言語は)馬韓と同じではない。また辰韓の王には常に馬韓人を用い、代々継承され、辰韓が自ら王を立てることはできない。明らかに流民だからで、常に馬韓が制している。辰韓は初め六国だったが、十二に分かれた。新羅はその一国である。その国(首都)は百済の東南五千余里。東は大海(日本海)に濱し、北に高句麗、百済と接している(南は衍字)。魏の時は新盧と言い、宋では新羅、あるいは斯羅と称した。その国は小さく、自ら通使を派遣することができなかった。梁の普通二年(521年)、その王、姓は募、名は秦が、初めて百済に随伴して使節を送り、方物を献じた。…

魏志東夷伝韓条の引用もありますが、なかなか詳細です。つまり新羅は辰韓十二国のひとつ斯盧國が発展したもので、慶尚北道の慶州市にあたります。万里とか五千余里とかはあからさまな誇張ですが、だいたいわかりました。しかし建国の経緯はわかりません。また西暦521年当時の新羅の王は『三国史記』によれば法興王(姓は、諱は原宗ないし牟即智、在位514-540年)のはずですが、募秦という姓名で記されています。

梁の前の『宋書』には、倭国の王が称した称号の中に「新羅」が見えますが新羅自体の説明を欠いていますし、本紀にも新羅や斯羅の字は見えません。『北斉書』武成帝本紀には河清3年(564年)に新羅が朝貢したこと、同4年(565年)に新羅国王の金真興(真興王)を使持節・東夷校尉・楽浪郡公・新羅王に冊封した記事がありますが、新羅がどのような国かは説明されていません(北斉書には東夷など外国の伝がありません)。また44年前は王姓がなのに、この時の王は姓です。382年の王は楼寒です。

隋書』ではこうです。

新羅國、在高麗東南、居漢時樂浪之地、或稱斯羅。魏將母丘儉討高麗、破之、奔沃沮。其後復歸故國、留者遂為新羅焉。故其人雜有華夏、高麗、百濟之屬、兼有沃沮、不耐、韓、穢之地。其王本百濟人、自海逃入新羅、遂王其國。傳祚至金真平、開皇十四年、遣使貢方物。…
新羅国は高句麗の東南に在り、漢代の楽浪の地に居る。あるいは斯羅とも称する。魏の将軍の毌丘倹が高句麗を討ち破ると(西暦244年)、高句麗王は沃沮に敗走した。その後、故国に復帰したが、留まる者があり、遂に新羅を立てた。それ故に華夏、高句麗、百済に属す人々が雑居しており、沃沮、不耐、韓、穢の地を兼ねている。その王はもと百済人で、自ら海に逃れ、新羅に入り、遂にその国の王となった。位を伝えて金真平に至り、開皇十四年(594年)に遣使を以て方物を貢献した。…

ここには2つの建国起源譚があります。第一は高句麗からの亡命者による3世紀中頃の建国ですが、魏志東夷伝にそのような記述はありません。第二は、新羅の王がもともと百済人であり、亡命して新羅(辰韓の地)に入り王になったというものです。3世紀には辰韓に独自の王がおらず、馬韓人が馬韓で選ばれて辰韓の王(辰王)になっていましたから、4世紀の動乱で百済に馬韓を追われた辰王が海路で辰韓へ逃げ込んだのかも知れません。

また、『翰苑』新羅条はこうです。

開源拓構肇基金水之年、宅壤疏疆創趾弁辰之域。國苞資路、地總任那。擁叛卒以稱強、永附金而為姓。
金水の年(金徳の晋と水徳の宋の間)に建国し、弁辰の域に国を創る。国は朝貢(苞資)の路、任那(弁韓)の地を総べる。叛卒(唐への反乱軍)をもって強を称し、永く金を附して姓となす。

この詩文めいた本文にごちゃごちゃ注釈がくっついていますが、「擁叛卒以稱強、永附金而為姓」の注釈にこうあります。

括地志曰、新羅王姓金氏其先所出未之詳也。隋東藩風俗記云、金姓相承三十餘代、其先附庸於百濟。因百濟征高麗、高麗人不堪戎役、相率歸之、遂致強盛。…
李泰の)『括地志』にいわく、新羅の王姓の金氏は、その先祖の出どころが未詳である。『隋東藩風俗記』によると、(新羅王姓の)金姓は受け継ぐこと三十余代であるが、その先祖は百済の附傭(属国)であった。百済が高句麗を攻撃すると、高句麗人は戎役(戦争)に耐えられず、相率いてこれ(新羅)に帰化したので、ついに新羅は強盛となった。…

この『隋東藩風俗記』は逸書ですが、隋書にいう開皇14年(594年)の新羅の使者が伝えた建国伝説を書き記したもののようです。しかし『三国史記』によれば真平王(金伯浄、在位579-632)は新羅の第26代の王で、三十余代も遡れません(30世代900年遡ると紀元前4世紀に始まることになります)。金姓の始祖である金閼智から数えても奈勿が8世孫、智証が11世孫、真平は15世孫です。かつ、521年の王は金姓ではありません。

実態考察

推察するに、新羅王家の祖は4世紀中頃に百済から亡命した馬韓人の辰王です。馬韓は宋書に「韓」とも表記されますから、姓は慕(馬)からとったものです。楼寒のも馬・慕・募が訛伝したものでしょう。帯方郡の故地に外来の百済王が立ったため権威や利害を巡って争い、敗れて馬韓を追い出されたのです。馬韓の目支國(月支、自支とも)にいて代々王位を継いでいたといいますが、海路で逃れたならソウル付近の交易に便利な場所に王がおり、半島西部と南部をぐるっと船で回って慶州に来たことになるのでしょうか。下記のサイトでは目支國を清州市と推定しています。

自前の王がいなかった辰韓の族長らはこれを奉戴し、斯盧(慶州)に都を置きました。しかし百済はこの勢力を放置せず、使者や軍隊を遣わして脅しつけ、馬韓や弁韓の諸国ともども属国(附傭)にしたのです。

『三国史記』では奈勿が西暦356年から47年間在位したとしますが、彼の玄孫の子が534年生まれなので、178年間に4世代では1世代44.5年となり、やや不自然です。あるいは奈勿/楼寒の即位は376年頃かも知れません。
慶州は日本海(彼らからすれば東海ですが)に面しており、潮流や風向きの関係上、日本列島では出雲と最も接触しやすい位置にあります。北風に乗って南下し、対馬暖流に乗ればいいわけです。素戔嗚命が新羅から出雲に来たとか、天日槍が新羅から穴門(長門)や出雲を経て但馬に来たというのも、この海路が古くから拓けていたことをいいます。また斯盧とは韓語でsio-la「鉄の出る村」という意味らしく、日本では城(き)を付けて「しらき」と呼び、のち濁って「しらぎ」となりました。

じゃあ金姓は?というと、521年から565年の間に募姓から金姓に代わったわけですから、その間に新羅になにかあったのです。実は金姓はもともと金海の金官国(駕洛国・金官加羅・任那加羅、弁辰の狗邪韓国)が用いていたもので、532年に新羅がこの国を征服した時、百済からの独立と内外への権威づけのため金姓と系譜を借用したのです。

狗邪韓国は倭国への窓口として古くから繁栄しており、弁辰/弁韓諸国の盟主的存在でした。倭語で韓や唐を「から」と呼ぶのは狗邪/加羅(くや、かや、から)に由来します。本来は素奈羅(韓語でso-nara,「金属の国」)といい、金官とは漢語での意訳です。洛東江が山々を削ってもたらす砂鉄(so,倭語sapi)を求めて人々が群れ集ったもので、韓人や倭人のみならず燕・斉・秦漢などからも人々がやって来て栄えました。

漢の武帝が設置した真番郡は、もと真番国といい、燕や秦や朝鮮王国に引き続き、ソウルから金海へのルートを抑えたものです。郡治の霅(上古音:tshap)県は『漢書』地理志の注に引く『茂陵書』によれば「去長安七千六百四十里」とありますが、洛陽から楽浪郡まで5000里、長安から洛陽まで950里ですから、平壌から1690里(733.46km)は離れています。平壌から金海まで直線距離で520km余り、陸路か海路ならそれ以上にはなるでしょう。

おそらく辰韓(秦韓)はこの真番郡が放棄された後、居残った華僑(秦)と地元住民(韓)が集まって、真番郡の県城を再利用して作り上げたものです(霅県は盟主の狗邪韓国となったわけです)。そのため土着の馬韓や濊貊とは違って共通語として(秦漢代の)中国語を話し、チャイナ辺境部と変わりない程度には文明化していたのです。

弁辰與辰韓雜居、亦有城郭。衣服居處與辰韓同。言語法俗相似、祠祭鬼神有異、施灶皆在戶西。其瀆盧國與倭接界。十二國亦有王、其人形皆大。衣服絜清、長髮。亦作廣幅細布。法俗特嚴峻。(魏志東夷伝韓条弁辰)

弁(辨)は辨別(わかれる)の意ですから、弁辰(弁韓)は辰韓から分離した集団と思しく、独自の王(盟主)を頂いて洛東江流域を抑えていました。しかし辰韓は自ら王を持たず、馬韓と協約を結んで属国となっていたのです。商売敵の弁韓を牽制し、楽浪郡との接点を確保するためでしょうか。

複数の部族が互いの勢力が拮抗して決着がつかない時、外来の王を迎えて仲裁者とし結束するというやり方は、歴史的によく見られます。有名なのは9世紀のラドガで、スラヴ人の部族が争って決着がつかないためヴァリャーギ(ノルド・ヴァイキング、ルーシ)の有力者リューリクを迎えて王位につけたと『原初年代記』に書かれています。

『三国遺事』に引く『駕洛国記』に拠れば、駕洛国初代の首露王は天から降臨した盒子の中の金の卵より産まれ、姓を金と名乗ったといいます。建国は漢の建武18年(西暦42年)と伝えますが、首露王は158年在位して西暦199年に逝去しており、あからさまに誇張です。十代目とされる金仇亥は532年に新羅に降伏しており、10世代300年遡ってもせいぜい3世紀からの王統に過ぎません(魏志東夷伝に見える弁辰の王でしょうか)。卵から始祖王が生まれるのも夫余や高句麗で見たパターンですし、新羅の建国神話や金閼智の出現伝説も大同小異です。

唐代の伝承では、新羅の金姓は前漢の重臣で匈奴王族の金日磾の末裔となっていました。この場合、金姓は漢の武帝から授かったわけです。金日磾の子孫は代々漢に仕え、三国志に登場する金旋や金禕は彼の末裔です。また金海金氏の金庾信は少昊金天氏(三皇五帝の一人)の後裔と称していました。

新羅・高句麗の同盟

長々と見てきましたが、要は新羅の実際の建国は4世紀中頃か後半、百済の建国より後の話です。おそらく百済に馬韓を追放された辰王が辰韓を纏めて成立しましたが、建国から間もなく百済の属国となり、海の彼方の取引相手の出雲もなんかジリ貧で、いまいちパッとしません。

そこへ手を差し伸べたのが高句麗です。辰韓改め新羅(慶尚北道)の北は江原道で、山岳地帯や沿岸部に濊貊が細々と住んでいました。その北には沃沮(咸鏡道)がおり、高句麗に服属しています。百済は帯方郡の故地と三韓を服属させたものの、東方の山岳地帯はまだ手つかずでした。高句麗はこのルートを通り、新羅に対百済の同盟を持ちかけたのです。

新羅が百済の東や南を荒らすか、そうでなくても高句麗側について牽制してくれるだけで、高句麗としては大助かりです。金銀財宝や工作員を送り込んでの交渉が行われたことでしょう。そして377年と382年には、高句麗が新羅の使者を伴って秦へ朝貢を行う、ということになりました。379年3月、百済は高句麗に対抗するため東晋に朝貢しようとしますが、海上で暴風に遭って到達できず、使節の船は帰還しています(『三国史記』)。

また『日本書紀』神功62年(382年)条に引く『百済記』によれば壬午年、貴国(倭国)は新羅征伐のため武内宿禰の子の葛城襲津彦(沙至比跪)を派遣しましたが、襲津彦は新羅に美女二人を贈られて攻撃をやめ、加羅国(金官国)を攻撃しました。加羅国王らは百済へ亡命し、倭国(百済か)は将軍の木羅斤資を派遣して襲津彦を攻撃し、加羅を復興しました。襲津彦は自殺したともいいますが、応神紀にも普通に出てきており謎めいています。この事件も造作っぽく、倭国の軍事介入もあったかどうか疑わしいですが、どうやら百済と新羅が加羅(弁韓)を巡って争い始めたようではあります。

◆加◆

◆羅◆

高句麗は天下統一に邁進するチャイナの大国・秦を後ろ盾とし、辰韓の地に興った小国新羅を味方につけることに成功しました。百済が後ろ盾とする東晋は海の彼方にあり、漢中・巴蜀を奪われ、桓温も死に、今にも秦に飲み込まれそうです。倭国も海の彼方でいまいち頼りになりません。さあ、百済はどうなるでしょうか。

【続く】

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