【つの版】度量衡比較・貨幣45
ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。
西暦1372年、琉球の中山王国に初めて明朝の使節が至り、その王の察度は弟を遣わして朝貢しました。これは現在の沖縄本島中部に存在した王国であることが歴史的に確認されていますが、それ以前については謎に包まれています。記録や伝説を鑑みつつ、王国の成立までを追って見ましょう。
◆南◆
◆国◆
琉球王統
1650年に編纂された琉球王国の正史『中山世鑑』によれば、いにしえに阿摩美久という神が天帝の命を受けて島々(御嶽)を創造したのち、天帝の息子と娘が天下ってこの地の人類の祖となりました。天帝の娘は風に感じて妊娠し(イザナギ・イザナミのごとく兄妹で交わるとこの時代は儒教的に問題なので)、国主・按司・百姓・君と祝(神女)の祖を産んだといいます。これより1万7802年、25代にわたって天孫氏が君臨していましたが、家臣の利勇が主君を毒殺して国を奪い、中山王と称しました。1代平均712年にもなるため、明らかに神話です。
この時、浦添按司の舜天が兵を挙げて利勇を討伐し、推戴されて王位につきました。彼は日本から渡来した源為朝の落胤とされ、南宋の淳煕14年(1187年)に即位し、50年間在位しました。跡を継いだ息子・舜馬順煕は在位11年で逝去し、その子・義本の時には飢饉や疫病が相次いだため、1259年に浦添按司の英祖(ゑぞ)に譲位しました。
英祖は天孫氏の末裔で、利勇に弑殺された25代目の王の曾孫にあたるとされます。彼の長男・大成は王位を継ぎましたが、次男の湧川王子は北方に赴いて舜天王統から北山世主・今帰仁城主を継ぎ、五男の大里王子は南方に赴いて大里按司・南山/山南王の祖になったといいます。英祖王統は5代90年続きましたが次第に衰え、最後の王・西威が逝去したのち、1350年に浦添按司の察度が中山王に擁立されました。
彼の父・奥間大親は貧しい庶民でしたが、察度は英祖王統の分家である勝連按司の娘を娶って出世し、日本の船から鉄を買い付けて農具とし、人々に分け与えて信望を集めました。しかし北山には湧川王子の子孫怕尼芝が、南山には大里王子の子孫承察度が割拠し、国は三つに分かれたといいます。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihonbungaku/64/5/64_70/_pdf/-char/en
察度・怕尼芝・承察度は『明史』ほか海外の史書にも見えますが、それ以前の王は明史にも同時代史料にも見えません。1522年建立の「国王頌徳碑」には「舜天・英祖・察度三代以後、其余世主」とあり、この頃には舜天と英祖が察度以前の王として認識されていたようですが、1372年からは150年も後の記録です。また明史には「三王はみな尚を姓とする」とありますが、これが舜天や英祖、天孫氏の姓なのかもわかりません。ひとまず客観視するため、明史や同時代史料を読んでいきましょう。
三王朝貢
洪武7年(1374年)、(察度の弟の)泰期がまた朝貢し、皇太子にも手紙を奉った。皇帝は刑部侍郎の李浩に命じて文綺・陶器・鉄器などを賜らせ、その国に馬を売った。9年(1376年)夏、泰期は李浩に従い朝貢し、馬40匹を賜った。李浩は「その国は錦布を貴ばず、磁器や鉄釜を貴びます」と報告したので、これ以後はそのようにした。翌年(1377年)に使者を遣わして正月を祝い、馬16匹と硫黄千斤を貢納した。翌年(1378年)にまた貢納した。山南王の承察度も使者を派遣して朝貢したので、中山と同様に下賜品を授かった。15年(1382年)春、中山が朝貢し、明朝は内官(宦官)を派遣して使者の帰国に付き添わせた。翌年、山南王が中山とともに朝貢し、詔して二人の王に鍍金(金メッキ)した銀印を賜った。
承察度は大里のあて字と思われ、沖縄本島南部(島尻)の南城市大里を本拠地としていました。
時に二王と山北王は雌雄を争って互いに攻伐しており、明朝は内史監丞の梁民に詔勅を賜い、命じて休戦させ、三王はみな明朝の命令を奉じた。山北王の怕尼芝は使者を遣わし、二王(中山王・山南王)とともに朝貢した。18年(1385年)にまた朝貢したので山北王にも鍍金した銀印を賜り、また二王には海舟一艘ずつを賜った。これ以後、三王はしばしば使者を派遣して朝貢したが、中山王が最も多かった。
怕尼芝は羽地のあて字で、沖縄本島北部(国頭)の名護市羽地地域を本拠地としていました。山北/北山王国の勢力範囲は奄美群島まで及んでいたともいい、三国の中で最も強大だったようです。中山王・南山王はこれに対抗するため連合し、明朝に仲裁を依頼しました。そして三王とも明朝から印綬を授かり朝貢国となったのです。しかし、なぜこの時期になって沖縄本島の政権とチャイナが結びついたのでしょうか。
考えられるのは、14世紀中頃から高麗やチャイナに繰り返し襲来した倭寇の影響です。そもそも1372年に明朝から中山王へ派遣された使節の楊載は、1369年に日本国王の良懐(懐良親王)に対して派遣されており、入寇の理由を詰問しています。翌年に趙秩が再び日本に派遣され、1371年には朝貢使節を派遣した良懐を日本国王に冊立していますが、山東や福建への倭寇の襲撃は収まらず、詰問の使者がたびたび派遣されています。そうした中で楊載が明朝から琉球へ派遣されたというなら、倭寇絡みと推測はつきます。すでに倭寇や海商によって大陸から琉球への航路が知られていたのでしょう。
1372年6月には北朝方の今川了俊が大宰府を奪還し、以後20年間九州は南北朝に分かれて争っています。島津氏は大隅・日向・薩摩三国の守護を兼ねて了俊に対抗していますから、奄美以南との交易(や略奪)によって軍資金稼ぎを行ったことは推察でき、北山王国の発展はこれによるのでしょう。また琉球は日本と明朝を結ぶだけでなく、南海交易にも関わっていました。
洪武23年(1390年)、中山が朝貢した。その通事(通訳)は勝手に乳香10斤、胡椒300斤を携えて都(南京応天府)に入ったので、門衛はこれを没収した。明朝は詔してこれを返還し、鈔(紙幣)を賜った。
乳香は遥か南アラビアの特産品で、胡椒は南インドの特産品です。中山王国の通訳がそれを持っていたということは、インド洋や南シナ海を経て遥々もたらされたのでしょう。琉球から持ってきたのか、南京まで赴く途中に福建などで手に入れたのかわかりませんが、密貿易や賄賂にでも使おうとしたのでしょうか。明朝は海禁政策によって朝貢以外の民間による貿易を制限していましたが、こうした行為は大目に見てやっていたようです。
また『高麗史』『朝鮮王朝実録』によれば、1389年と1392年に琉球国中山王の察度が使者を高麗・朝鮮に派遣しています。この時、倭寇に捕獲された高麗・朝鮮人を本国に送還するとともに、硫黄・材木・胡椒・鼈甲などを献じたといいます。九州を経由してやってきたのでしょう。
のち中山王と山南王は、王族や寨官(按司)の子を朝貢使節につけて派遣し、明朝の国学(国子監、国営大学)に留学させています。かつて倭国・日本が遣隋使や遣唐使を送ったように、琉球の諸王も子弟を留学させ、国際的な知識や教養、礼儀作法を身に着けさせようとしたわけです。明朝は喜んで彼らに衣冠束帯を下賜し、チャイナの文化を教え込んでいます。こうした国際交流はその後も続き、琉球には急速にチャイナ文化が流れ込みました。
『中山世鑑』によると洪武25年(1392年)、洪武帝は閩人三十六姓を中山王に下賜しました。閩とは福建のことで、この地域の住民が琉球に移住させられたというのです。明史にも「洪武29年(1396年)に閩中の舟工三十六戸を賜い、朝貢使節の往来に便利なようにさせた」とあります。彼らはチャイナの文化・文明・技術を琉球にもたらし、工芸や商業に従事して国を発展させました。
琉球政変
ただこの頃、琉球では政変が生じていました。『朝鮮王朝実録』によると1394年9月、中山王の察度は朝鮮に使者を派遣し、亡命した山南王子・承察度の送還を求めています。1398年2月、琉球国南山王であった温沙道(うふさと?)が朝鮮の晋陽(慶尚南道晋州市)に現れ、「中山王に国を滅ぼされた」と称して15人の臣下を連れて亡命してきました。朝鮮は彼を哀れんで衣食を支給し、宮廷に招いて拝謁させましたが、10月に死去したといいます。両者が同一人物かはわかりません。山南/南山王の位は叔父の汪英紫、その子の汪應祖が引き継いだといいます。
また『明史』によれば洪武29年(1396年)春、山北王の怕尼芝が卒去したとして、その跡継ぎの攀安知(これも「はねじ」の音写でしょうが)が明朝に貢納しています。『中山世鑑』には洪武28年(1395年)に中山王察度が75歳で薨去し、子の武寧が跡を継いだとあります。数年の間に三王が代替わりしたわけで、大きな争いがあったと思われますが詳細はわかっていません。明朝では1399年から靖難の変が勃発しています。
永楽元年(1403年)春、琉球の三王は永楽帝の即位を慶賀して朝貢し、下賜品を授かっています。翌年2月に中山王世子の武寧が父の喪を報告し、王位を世襲することを認められました。4月には山南王承察度の従弟・汪應祖が前王の喪を報告し、前王には子がなかったので自分が位を継いだことを告げました。明朝はこれを承認し、彼を王に冊立しています。
しかしまもなく中山で政変が起き、1406年に武寧に代わって思紹が王位につきます。これが尚氏王統の始まりで、彼の子・巴志は三山を統一し、琉球王国を建国するのです。
◆琉◆
◆球◆
【続く】
◆
つのにサポートすると、あなたには非常な幸福が舞い込みます。数種類のリアクションコメントも表示されます。