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【つの版】徐福伝説06・海漫漫

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

徐福らの行方については、チャイナでも議論がありました。出発したが風波に遭って戻って来たとも、平原廣澤を得て王になり戻って来なかったとも、会稽の東の彼方の亶洲に住み着いたとも、蓬莱にたどり着いて仙人になり昇天したとも言われます。いったい彼らはどこに行ったのでしょうか。

◆石◆

◆海◆

僊居蓬萊

秦漢魏晋には多くの仙人・道家に関する文献が著され、太平道や天師道(五斗米道)などから発展した「道教」の経典となって行きました。そこにも徐福(徐市)や蓬萊の名は散見されます。

漢の劉向(劉歆の父)が編纂したとして後漢の桓帝以後に作られた『列仙伝』には、安期先生という仙人が蓬萊に赴いた話があります。彼は琅邪郡の阜郷の人で、東海地方で薬売りをしており、当時の人々から「千歳の翁」と言われていました。始皇帝が東に巡遊した時、彼を召して見え、共に語り合うこと三日三晩に及びました。彼に金や璧玉を賜ることは数千万に及びましたが、彼は退出すると阜郷の亭(宿)にみな贈り物を置き、手紙と赤玉の靴を遺して去っていきました。その書に「数年経ったら私を蓬莱山に求めよ」とあったので、始皇帝は徐市・盧生ら数百人を遣わして海に入らせました。しかし蓬莱山に着く前に風波に遭って帰還したので、阜郷の海辺十数箇所に祠を立てて祀ったといいます。

これは史記に伝わる話とは異なりますが、盧生らに羨門ら仙人を探させたとはあるので、その異伝でしょう。また史記封禅書や漢書郊祀志によると、漢の武帝の世に方士の李少君が竈を祀って丹砂を黄金に化することを唱え(錬金術)、蓬莱山で安期生に会ったと称しました。武帝は始めて竈を祀り、方士を遣わして安期生ら仙人を探させたといいます。この書ではまだ徐福が徐市と呼ばれ、神仙化もしておらず、比較的古い伝承なのかも知れません。

仙とは古くはと書き、人がオヒガンに遷って不老不死の存在(イモータル)となったものです。要はニンジャですが、とはうずくまった死者を両手で抱えて移動させることを表します。チャイナでは遺体を屋根のない板屋(殯宮)に納めて弔い、風化して骨になったら埋葬する風習がありました。ここから「うつす、うつる、かわる」という意味が出たのです。実際「僊」とされる人々も死後に棺を開けたらいなかった(屍解した)というジーザスめいた伝説が多くあり、死を超越して不死者になったと信じられていたようです。とは方士が薬草を求めて山に入り、僊が蓬萊や崑崙など山に住むとされたことからの造字です。真人は『荘子』では道の体得者ですが、のち高位の仙人とされました。真(眞)も「倒れた死体」が原義ともいいますが、おそらく匙で鼎にものを詰める(充填する)ことを表し、転じて物事の中身が詰まっており真実であることを表します。真の男はイモータルです。

また『列仙伝』によると、服閭という人が莒(きょ、山東省日照市莒県)におり、海辺にある諸方の廟(神社)を経巡っていましたが、ある廟に三人の仙人がいて、瓜を賭けて博打をしていました。彼らは服閭を雇って瓜を担がせ、目を瞑らせます。気がつくと彼は蓬莱山の南にある方丈山におり、金銀財宝を与えられて還されたといいます。瀛州との位置関係はわかりません。

戦国時代の列禦寇の著作としてこの頃に編纂された『列子』の湯問篇では、蓬萊など三神山の話が詳しくなっています。

殷湯(湯王)が夏革に「巨大なものは何があるか」と尋ねると、夏革はこう答えた。「渤海の東は幾億万里あるか知れませんが、底知れぬ大きな谷があり帰墟といいます。天下の水や天漢(銀河)の流れは全てここに流れ込み、しかも増減しません。
その中に五山があり、岱輿・員嶠・方壺・瀛洲・蓬萊といいます。その山は高さと周囲が三万里、頂上は平らで九千里。山々の間は互いに七万里離れており、山の上の楼閣(臺観)は黄金や宝玉でできており、禽獣はみな縞模様です。珠玕(宝玉)の樹が群生していて、華や実はみな滋味があり、食べればみな不老不死になります。住民はみな仙人や聖者の種族で、一日一夕に空を飛んで往来する者は数え切れません。
しかしこの五山は根がなく、筏のように浮かんでおり、潮流や波に従って移動するため一箇所に留まっていません。住民が困って天帝に訴えると、天帝は五山が西極に流れて住民が住居を失うのを恐れ、禺彊(東方の風神)に命じて巨大な鼇(ごう、海亀)を十五匹連れてこさせます。そして五匹の鼇の背に五山を載せて支えさせ、六万年に一度交替させました。
しかし龍伯の国に大人(巨人)がおり、足を上げて数歩もせずして五山のところに到達し、釣りを始めました。彼は巨鼇のうち六匹を釣り上げ、背負って帰国し、その骨(腹甲)を焼いて占いを行ったので、岱輿・員嶠の二山は北極へ流れて大海に沈みました。住民はすみかを失い、移住した数は巨億にのぼりました。天帝は怒って龍伯の国を罰し、民の背丈を縮めましたが、伏羲・神農の時に至ってもまだ背丈が数十丈もあったといいます」

なんとも壮大な法螺話です。三神山は太古の昔には五山あり、そのうち二つは失われたという後付の神話で、ムーやレムリアやアトランティスとは関係ないと思います。元ネタは戦国時代の楚の屈原『楚辞』天問にあります。

鰲戴山抃、何以安之。釋舟陵行、何以遷之。/鰲は山を載せて四肢を動かすのに、どうして安定しているのか。(龍伯国の人は)舟を捨てて陸を行くのに、どうしてこれを(釣って)遷すのか。

楚は戦国時代には東海に到り、呉越・徐・琅邪にまで達していましたから、その地の神話を取り入れたのでしょう。「天問」とはこうした神話について問う(ツッコミを入れていく)歌です。小説『封神演義』では東海の彼方に金鰲島があり、通天教主が率いる截教というクランがドージョーを構え、西方の崑崙山の元始天尊率いる闡教というクランと対立しています。

残ったのが方壺・瀛洲・蓬萊ですが、史記等には方丈とあったはずです。壺の字になったのは、これらの山が逆さにした壺のように下が狭く上が広く、海上から突出しているためともいいます。

秦王国

徐福が何処かへ去り、始皇帝が崩御してから800年余りの時が過ぎました。西暦600年、チャイナの南北を久しぶりに統一した隋の天子・文帝のもとに東海の彼方から使者がやって来ました。漢や魏晋や劉宋などと交流のあった倭国からの遣隋使です。文帝の次の煬帝にも倭国が使者を遣わしたので、煬帝は隋としては初めて倭国へ返礼の使者を遣わし、どのような国かを調査させました。隋使の裴世清は山東半島から百済を経由し、倭国へ赴きます。

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度百濟、行至竹島、南望𨈭羅國、經都斯麻國、迥在大海中。又東至一支國、又至竹斯國。又東至秦王國其人同於華夏、以為夷洲、疑不能明也。又經十餘國、達於海岸。自竹斯國以東、皆附庸於倭。

対馬・壱岐を経て竹斯(筑紫)国へ着いたのち、東へ進むと「秦王国」がありました。その住民は華夏(チャイナ)と同じで、チャイナの言葉を話し、チャイナの文化を持っていました。驚いた裴世清は「これは昔の書物にいう夷洲(亶洲の誤り)ではないか」と疑いましたが、詳細は不明であったと記されています。さらに十余国を経て倭国(ヤマト、畿内)の海岸(難波津)に到着したとありますから、秦王国は筑紫の東で瀬戸内海の西部、豊前か周防に存在したようです。これについては既に見ました。

ここで夷洲が秦人徐福の移住した伝説のある亶洲と混同され、徐福と倭地がようやく結び付けられ始めたわけです。ただ秦王国とは言いますが、かつて辰韓や弁辰にいたチャイナ系の住民(秦人・はだひと)が倭国に渡来したもので、徐福とは関係ないと思います。

既に見て来たように、チャイナは朝鮮半島南部にも古くから進出していました。燕は朝鮮・真番を略属して交易路に要塞や関所を置き、秦もこれを接収して遼東郡に所属させました。漢の時には亡命燕人の満が朝鮮王国を立て、漢の外藩として交易や防衛を担いましたが、武帝はこれを取り潰して楽浪・玄菟・臨屯・真番の四郡を置きます。

真番郡はソウルから洛東江流域に至る内陸の交易路を抑えるもので、内地から数万人の漢人が入植させられました。倭地との交易も始まったでしょうが経済的に成り立たず、武帝の崩御後に放棄されます。この時、居残った漢人入植者(秦人)と先住民が協力して真番郡の跡地に立てたのが辰韓(秦韓)諸国でした。

彼らはそうとは称さず「秦の圧政を逃れてきた」との建国神話を語り伝え、辺境にありながらチャイナの文化と言語を保ってきたのです。少なくとも、彼らが長らくチャイナの言葉を話していたことは、チャイナの史書に書かれています。しかし、彼らが徐福や盧生の末裔だとは記されていません。そういう伝説があれば記録されていたと思うのですが。

4世紀末から倭国がこの地に攻め込むと、秦人の一部は戦乱を逃れ、倭国へと移住(渡来・帰化)します。これが秦人(はだひと、海[わだ]を渡って来た人)で、先進技術を倭国に伝え、倭王の政権を経済的に支えました。

秦人を率いる氏族を秦氏と言います。『日本書紀』には、応神16年に百済から弓月君が120県の民を率いて渡来・帰化したとありますが、秦氏の祖とは記されていません。815年に成立した『新撰姓氏録』には、秦始皇帝の三世孫・孝武王の後裔が弓月君(融通王)であると記され、波多姓を賜ったとします。また『日本三代実録』によると秦始皇帝の十二世孫を功満王といい、子の弓月君は十三世孫に相当するといいます。三世孫では近すぎるというので適当に世代を増やしたのでしょう。

彼ら秦人を徐福と結びつける話はありません。あったかも知れませんが、少なくとも記録されていません。裴世清が「もしや」と推測しただけであり、その地の住民に聞き取りを行ったとしても「わからなかった」が結論です。しかも夷洲と亶洲を取り違えています。

なお、近代には秦氏を大秦国(ローマ帝国)からやって来た景教徒(ネストリウス派キリスト教徒)だとか、ユダヤ人だとか、アッシリア捕囚後に行方知れずとなった「失われた十支族」の一派だとかする説も流行しましたが、粗雑で非科学的な俗説に過ぎません。熱狂的に信じる人もいますが、つのは蓋然性が低いと考えます。妄想や陰謀論はほどほどにしましょう。

隋が滅び唐が興り、倭国は日本と国号を改めました。日本は遣唐使によって唐の文化文明を学び、国際社会における先進国の仲間入りを果たします。しかし、唐が編纂した多くの史書でも、日本が編纂した『古事記』や『日本書紀』においても、徐福が倭地に到来して王になったとは書かれていません。

記紀は日本が太古から独立国だと主張してアイデンティティを築くため編纂されたので、呉の太伯も漢倭奴国王も帥升も卑彌呼や臺與も倭の五王もことごとく無視しており、徐福についても書き記さなかったのでしょう。チャイナ側にもそのような伝承がない以上、「徐福が倭地に来た」と書き記せば、「ははあ、倭王の先祖はもしや」とか思われて都合が悪いのです。

そう主張するためには、倭国もとい日本の建国を、少なくとも徐福の時より前に置かねばなりません。神武天皇の即位年が百済滅亡から1320年遡った紀元前660年辛酉に置かれたのは、それもあってのことでしょう。呉の太伯や成王に朝貢した倭人については説明できませんが、179万数千年も前とした天孫降臨よりは後ですし、無視すれば済みます。

海漫漫

さて、チャイナでは徐福はどう扱われていたでしょうか。道教や民間では蓬莱に赴いた仙人として尊ばれたものの、儒教や士大夫の世界では「始皇帝を惑わして人民を苦しめた詐欺師」としての評価が根強く、史書や詩文でもそう言われることが多かったようです。唐代の徐福の扱いを見てみましょう。

隋が仏教を重んじたのに対し、唐は道家の祖である老子(李耳)と国姓が同じなためもあり道教を重んじ、老子を自らの先祖として尊崇しました。

太宗は玄奘を庇護しましたが、帝位を簒奪した武則天が仏教を重んじたこともあり、玄宗以後は道教や儒教を重視する傾向が特に強まったようです。玄宗の妹の玉真公主は若くして出家し女道士になっていますし、彼女の師である司馬承禎は玄宗に道士の免許を授け、政治に深く関わっています。

道教は魏晋南北朝時代に大きく発展しました。天師道(五斗米道)は張魯が曹操に降った後も教団組織を強化し、経典を編纂し、儒教・仏教と並ぶ「三教」のひとつとして歴代王朝に尊崇されました。

高名な詩人・李白は、玉真公主の推薦で玄宗に仕え、宮廷文人として活躍しています。彼もまた道教や神仙思想と深く関わりがあり、「謫仙人(下界に流謫された仙人)」「飲中八仙」といった異名で知られました。しかし彼は古代の詩風を重んじて「古風」という詩集を作り、蓬莱に不死の薬を求める始皇帝を批判して、玄宗の道教傾倒を批判してもいます。

・古風五十九首 其三
 秦皇掃六合 虎視何雄哉 揮劍決浮云 諸侯盡西來
 明斷自天啓 大略駕群才 收兵鑄金人 函谷正東開
 銘功會稽嶺 騁望琅邪台 刑徒七十萬 起土驪山隈
 尚采不死藥 茫然使心哀 連弩射海魚 長鯨正崔嵬
 額鼻象五嶽 揚波噴云雷 髯鬣蔽青天 何由睹蓬莱
 徐市載秦女 樓船幾時回 但見三泉下 金棺葬寒灰

「徐市は船に秦の女たちを載せ、蓬莱に不死の薬を求めたけれども、船はたどり着けずに引き返し、始皇帝は崩御した」という、史記に書かれた通りのことを歌っています。士大夫の世界では、徐福はこのような扱いでした。

やがて玄宗は政治に飽き、楊貴妃の色香に溺れ、政務は宰相の李林甫に丸投げされるようになります。李林甫の死後は楊貴妃の親族の楊国忠が実権を握り、自分の意に従う者ばかりを重んじました。755年、北京周辺の節度使(地方総督)である安禄山は「君側の奸を除く」と称して挙兵し、たちまち洛陽を陥落させると「大燕聖武皇帝」を名乗り、唐から独立しました。

楊貴妃・楊国忠は混乱の中で死に、玄宗は蜀へ逃れて退位し、皇太子の李亨(肅宗)が即位して北方のウイグルと同盟し、どうにか反乱を鎮圧します。しかし唐はこれにより大きく衰え、ウイグルや吐蕃に圧迫され、国内には唐に反抗的な節度使が多数割拠するという分裂状態に陥りました。この状況は唐が滅ぶまで140年も続き、盛唐の時代は終わりを告げたのです。

唐の後期、詩人・白楽天こと白居易(772-846)は、「海漫漫」という諷諭詩の中で徐福について歌っています。やはり徐福は詐欺師として扱われ、蓬莱や不死を求めることの愚かさを歌っています。

・海漫漫 戒求仙也
 海漫漫 直下無底旁無邊
 雲濤煙浪最深處 人傳中有三神山
 山上多生不死藥 服之羽化爲天仙
 秦皇漢武信此語 方士年年采藥去
 蓬莱今古但聞名 煙水茫茫無覓處
仙人を求めるのを戒めていう。海は広々としていて、下の深さは底知れず、横の広さも果てしない。波濤の彼方に三神山があると人は言い伝えている。その山の上には不死の薬が多く生え、服用すれば羽が生えて天仙となると。秦の始皇帝や漢の武帝はこの言葉を信じ、方士を毎年遣わして薬を探し求めさせた。蓬莱は今も昔も名を聞くだけで、どこにも見当たらない。
 海漫漫 風浩浩 眼穿不見蓬莱島
 不見蓬莱不敢歸 童男髫女舟中老
 徐福文成多誑誕 上元太一虚祈祷
 君看 驪山頂上茂陵頭 畢竟悲風吹蔓草
 何況 玄元聖祖五千言 不言藥不言仙 不言白日升青天
海は広々、風は広やか。穴が空くほど見つめても、蓬莱島は目に見えない。蓬莱が見えねば敢えて帰らず、童男童女は舟の中で老いていく。徐福や文成(少翁、武帝を騙した方士)は嘘ばかりで、上元太一(天帝さま)に虚しく祈祷するばかり。君よ見るがいい、驪山(始皇帝陵)と茂陵(漢武帝陵)の頂上を。結局は寂しげな風が蔓草を吹くばかり。玄元聖祖(老子)の五千言の教えには、薬の話も仙人の話も、白日昇天の教えもないではないか。

「海漫漫」を含む白居易の詩は、日本の貴族社会で流行し、日本文学に多大な影響を与えました。白居易存命中の承和5年(838年)、大宰少弐の藤原岳守が唐の商人の荷物から『元白詩集(元稹と白居易の詩集)』を見つけ、これを仁明天皇に献上しています。天皇は喜んで彼を従五位上に叙し、同11年(844年)には留学僧恵萼により67巻本の『白氏文集』が伝来しています。

日本文学の中に徐福の話が現れるのは、記紀でも風土記でも万葉集でもなく平安中期(10世紀末)の『うつほ物語』です。そこに「蓬莱の山へ不死薬取りに渡らむこそ、…その使に立ちて、船の中にて老い」とあり、徐福の名こそないものの「海漫漫」の詩を踏まえた表現です。『源氏物語』『平家物語』『源平盛衰記』などにも引用されており、当時の知識人の間では一般的な教養として扱われていました。『竹取物語』にも蓬莱の玉の枝が出てきますし、田道間守や浦嶋子の物語も徐福伝説を真似たものかも知れません。

しかし徐福が日本に渡来したという話は、チャイナでも日本でも記録されていません。徐福の行方は杳として知れず、いくつかの伝承に断片的に見えるだけです。明確に徐福と日本が結びつけられるのは唐の滅亡後、北宋で973年に刊行された釈義楚の『義楚六帖(釈氏六帖)』からです。

◆Is this the real life?◆

◆Is this just fantasy?◆

【続く】

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