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【つの版】倭国から日本へ28・壬申の乱

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

672年壬申1月、天智天皇は近江で崩御しました。子の大友皇子が跡を継ぎますが、出家し吉野へ去った天智の弟・大海人皇子は虎視眈々と皇位を狙い、動き出します。「壬申の乱」の始まりです。

◆虎◆

◆視◆

結果は有名ですからネタバレへの配慮はいいでしょう。大海人皇子は大友皇子の朝廷を打倒し、天武天皇となりました。天武紀は上下に分かれ、上の大部分が「壬申の乱」に当てられています。勝った側の記録ですから公平とは言えませんが、ざっくりと見ていきます。

日本書紀卷第廿八 天渟中原瀛眞人天皇 上 天武天皇
http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_28.html

大友皇子

大友皇子は天智天皇と側室・伊賀宅子娘(やかこのいらつめ)の子で、当時24歳の青年です。異母弟の川島皇子はまだ15歳ほどで、建皇子は8歳で夭折しています。天智は最年長の成人男子である彼を跡継ぎとみなし、太政大臣に任命して大臣たちを輔佐につけましたが、おそらく当初は皇太弟で年長者たる大海人皇子を跡継ぎにと考えていたはずです。少なくとも大海人皇子を「中継ぎ」とし、大友皇子が政治の年季を積んでから、というやり方もあったでしょう。国内外が不穏な状況下で弱いリーダーが立てば危険です。

しかし、大海人皇子は皇位を譲り、出家して吉野へ去ってしまいます。乙巳の変の時、古人大兄皇子が同様に出家して吉野へ去りましたが、同年に謀反の密告があり殺されています。天智・大海人・大友も知っているこの事を鑑みれば、大海人が皇位を諦めた可能性は低いでしょう。日本書紀にすら「虎に翼を着けて放すようなものだ(虎着翼放之)」と書かれています。

大海人の生年は不詳ですが、626年生まれの天智よりは若いはずです。鎌倉時代の文献では686年に享年65歳としますが、これだと621年生まれとなり兄より年上になるため、65歳をひっくり返して56歳とし、631年生まれとする説が有力です。とすれば672年には40過ぎ。素直に天智から皇位を引き継ぎ、20年在位して60歳ほどで崩御すれば大友皇子が45歳くらいで皇位を継ぐことになりますが、なぜ大海人は出家したのでしょうか。

おそらく天智が自分の子に皇位を継がせたがり、大海人とその派閥の反感を買ったのでしょう。唐の(儒教の)制度では、天子に男子がいれば彼が皇太子となり、幼少であっても跡を継ぐのが普通です。兄の家系が絶えれば弟や親戚の家系が継ぐこともありますが、基本は父子相続で、弟は皇叔として藩国の王となります。しかし倭国では長らく「年長の有力な王族が継ぐ」ことになっていました。かつ大友皇子の母は身分の低い側室(采女)に過ぎず、舒明天皇と皇極・斉明天皇の子で天智天皇の弟である大海人が皇位継承から外れるのは、倭国の制度からしても大海人個人としても納得できません。

このように有力な王族が複数いて皇位が決めにくい場合、先代の皇后が女帝(女王)として即位し、中継ぎとなって問題を先送りにしていました。大海人自身も天智に「皇后(倭姫王)が大業を継ぎ、太政大臣(大友)を摂政とされますよう」と進言しています。そのため、倭姫王が即位するか称制(即位せず皇位を代行する)したともいいます。

また大友皇子は『日本書紀』では即位したと記されていませんが、平安時代の『西宮記』『扶桑略記』などでは即位したとしており、中世から近世・近代にかけて論争になりました。一応1870年には「弘文天皇」の諡号を奉られていますが、これは彼が即位したと公式に認めたわけではありません。父のように皇位につかず称制したとか、即位式を上げる暇がなかったともいいますが、判断がつかないので保留し、ここでは「大友皇子」と表記します。

唐使弔問

大友/弘文元年(672年)3月18日、近江の朝廷は阿曇稲敷を筑紫へ遣わし、天皇の崩御を唐使の郭務悰らに告げました。前回見たように、郭務悰らは新羅の反乱を倭国が支援しないよう2000人もの人員を率いて筑紫に到来しており、そのまま畿内へ向かわせることはできません。唐側も2000人で倭国を征服するつもりはなく、牽制して一応の友好関係を結べれば充分です。

郭務悰らは倭国の大王の訃報を聞いて哀悼の意をあらわし、東に向かって拝み、敬意を表します。そして唐の天子の国書と信物を稲敷らに預けました。稲敷らがこれを近江大津宮へ届けると、5月12日に近江朝廷は甲冑や弓矢、大量の布や綿を郭務悰に届けます。『日本書紀』は国書の内容を記しませんが、「新羅の反乱を鎮圧するから物資を差し出すように」と記してあったに違いなく、近江朝廷は言われるままに唐を支援したわけです。断れば唐兵らとの戦いになります。郭務悰もその覚悟を決めて来たはずです。目的を果たした郭務悰らは、満足して5月30日に(唐領の旧百済へ)帰還しました。

近江朝廷が唐に対して弱腰だったからタカ派ないし新羅派の大海人皇子が決起したとか、天智が圧政を敷いて人心が離れていたとか、そういうことではないでしょう。単に皇位継承争いです。壬申の乱は九州だけで起きたとか、天皇は外国人とか爬虫人だとか言いたい人は自我科へ罹って下さい。

東国挙兵

同5月、大海人皇子に仕えて吉野にいた朴井雄君(えのいの・おきみ)は、このように皇子へ報告しました。「私が美濃へ参りますと、美濃・尾張の国司に近江の朝廷が『先帝の陵を作るために人夫を集めよ』と命令していました。しかし集めた人々には武器を持たせており、必ず変事があります。速やかに避けられませ」。また別の人が「近江京から倭京に至るあちこちに監視がおり、宇治の橋守は従者が吉野に食糧を運ぶことを禁じています」と報告したので、大海人は「私は自ら身を引いているのに、禍が降りかかろうとしているとは。このまま黙っていられようか」と(白々しく)宣言します。

6月22日、大海人は村国男依(むらくにの・おより)、和珥部君手(わにべの・きみて)、身気広(むげの・ひろ)を集め、こう命じます。「近江の廷臣らが私を亡き者にしようと企てている。お前たちは美濃へ行き、安八郡の湯沐令(東宮・大海人の領地の管理人)である多品治(おおの・ほむち)に機密を打ち明け、兵を集めよ。また美濃国司と接触して挙兵し、速やかに不破道(ふわのみち、近江と美濃の境)を塞げ。私もすぐ出発する」。

24日、大海人は東国へ向かおうとしますが、「戦の備えもなく東国へ行くことができますか」と諌められ、男依らを呼び戻そうと思いました。また大分恵尺(おおきたの・えさか)、黄書大伴(きふみの・おおとも)、逢志摩(あふの・しま)らを飛鳥守衛の高坂王のもとへ派遣し、駅馬の使用許可証である駅鈴を求めさせます。そして「駅鈴を得られなければ、志摩はすぐ戻って報告しろ。恵尺は近江へ行き、高市皇子と大津皇子(共に大海人の子)を呼び出して、伊勢で落ち合えるようにせよ」と命じます。果たして高坂王は駅鈴を出さず、志摩は戻り、恵尺は近江へ向かいました。

もはや大海人は後戻りできません。すぐに吉野を出発し、妃の鸕野(うの、天智天皇の娘)は輿に乗って随行します。この時従ったのは、大海人の子である草壁皇子と忍壁皇子、朴井雄君ら従者20人余り、女官10人余りでした。宇陀・名張・伊賀を経て伊勢に至り、途中で高市皇子らと合流し、呼びかけに応えて集まった者たちを従えて進みます。6月26日には大津皇子や男依も駆けつけ、「美濃の兵3000をもって不破道を封鎖しました」と報告します。大海人は高市皇子を不破に遣わし、東海道・東山道に部下を遣わして兵を集め、27日には桑名に妃を残して不破へ向かいます。

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近江抗戦

近江朝廷では大海人皇子が東国へ向かったと聞いて恐れをなしますが、まず東国へ韋那磐鍬(いなの・いわすき)らを遣わして討伐させ、穂積百足らを倭京(飛鳥)へ、佐伯男を筑紫へ、樟磐手を吉備へ遣わして徴兵させます。そして「筑紫大宰の栗隈王と吉備国守の当摩広嶋は大海人皇子と親しかったから、もし従わねば殺せ」と命じました。広嶋は磐手に殺されましたが、栗隈王は「いま筑紫の兵を動かせば外国が攻めてきます」と主張し、彼の子らも武装して警戒していたため、佐伯男は恐れて帰りました。また磐鍬らは不破へ入ろうとしますが、伏兵に阻まれて引き返します。

伊賀・伊勢・尾張・美濃の兵を集めた大海人は、野上(岐阜県関ヶ原町野上)に行宮を置き、高市皇子を総大将として不破に駐屯させます。同じ頃、倭京(飛鳥)では大伴吹負(おおともの・ふけい)らが大海人側に味方して挙兵し、高市皇子の命令と称して飛鳥を占領します。近江軍の穂積百足は殺され、残りはみな吹負に降りました。吹負から報告を受けた大海人は喜び、彼を倭(やまと)の将軍に任命します。奈良盆地の豪族は尽く吹負に服属し、近江朝廷は東と南の両方から囲まれました。

7月1日、大海人は不破から奈良へ向かおうとしますが、2日には紀阿閉麻呂らに兵を率いて伊勢から倭(ヤマト)へ向かわせることとし、また村国男依らに命じて不破から近江へ向かわせます。この時、近江軍と判別するため赤い布を纏わせました。不破軍は各地の要衝を抑えつつ近江へ進軍し、近江朝は山部王・蘇我果安・巨勢比等らに命じて犬上川のほとりに布陣させます。しかし山部王は(裏切ろうとしてか)果安らに殺され、近江軍は混乱のため進まなくなり、果安は撤退したのち責任をとって自決します。近江軍から不破軍へ降る者も現れ、形勢は大海人側に傾いて行きます。

しかし5日、近江軍の田辺小隅が密かに鹿深(甲賀)を越えて侵入し、甲賀郡の倉歴(くらふ)の陣営を奇襲して撃ち破ります。6日には莉萩野(たらの)の陣営を襲いますが、多品治に敗れました。甲賀は近江と伊賀・伊勢を繋ぐ要衝の地です。ここを取られれば不破側は危ないところでした。

倭京攻防

南では大伴吹負が奈良山(平城山)に駐屯し、北の山背へ睨みをきかせています。しかし河内国の壱伎韓国(いきの・からくに)は近江派で、東へ兵を派遣し高安城に入らせます。吹負は奈良盆地の西側に兵を派遣して要路を守らせ、南の倭京を本陣として防備を固めさせました。

7月初め、坂本財(さかもとの・たから)が高安城に近づくと、河内軍は食料庫を焼いて撤退し、財は城に入ります。しかし壱伎は自ら大軍を率いて到来し、4日には北から侵攻した大野果安らが吹負の軍を撃破します。大海人側につこうとした河内国司は自決し、吹負は命からがら倭京へ逃げました。

吹負が倭京に戻ると、苦戦の報を聞いて東国から援軍が続々とやってきたので、3つの道に分けて配備します。近江の将軍である犬養五十君(いぬかいの・いきみ)は、別将の廬井鯨(いおいの・くじら)を派遣して吹負の陣営を急襲させますが、三輪高市麻呂らが箸墓のほとりで戦って大いに近江軍を破り、鯨を敗走させました。しかし依然として吹負が不利な状況です。

吹負が金綱井(橿原市今井か)に兵を集めた時、高市許梅(たけちの・こめ)という豪族が突然口がきけなくなり、3日後に神がかりして託宣を下しました。いわく「我らは高市社(橿原市雲梯町の河俣神社)に坐す事代主神、また身狭社(橿原市見瀬町の牟佐坐神社)に坐す生霊神(いくたまのかみ)なり。神日本磐余彦天皇(神武天皇)の陵に馬と種々の武器を奉れ。我らは皇御孫命(大海人皇子)の前後に立ち、不破まで送り奉った。今また官軍の中に立って守護している。西の道から軍勢が来るゆえ気をつけよ」

先是、軍金綱井之時、高市郡大領高市縣主許梅、儵忽口閉而不能言也。三日之後、方着神以言「吾者高市社所居、名事代主神。又身狹社所居、名生靈神者也。」乃顯之曰「於神日本磐余彥天皇之陵、奉馬及種々兵器。」便亦言「吾者立皇御孫命之前後、以送奉于不破而還焉。今且立官軍中而守護之。」且言「自西道軍衆將至之、宜愼也。」

言い終わると許梅は目を覚まします。そこで許梅を遣わして神武天皇の陵を祭り拝ませ、馬と武器を奉り、また御幣を捧げて高市と身狭の神々を祀りました。やがて大坂から壱伎が来襲したので、人々は「お告げのとおりだ」と言いました。また村屋神も祝(はふり、神官)に憑依して「我が社の中道から軍勢が来るから塞げ」と託宣し、何日も経たぬうちに廬井鯨らが来襲したので、また「お告げのとおりだ」と言ったといいます。戦後、大海人皇子は神恩に感謝し、これら3つの社の神の位階を引き上げました。

神託を受けるまでもなく西から敵が来るのは当然ですが、神徳を語るありがた話なのでいいでしょう。神武天皇の陵はこれ以前に祀られていた形跡がありません。記紀によれば畝傍山の東北、白檮尾の上にあったとされ、後に大窪寺・国源寺が陵寺として建立されました。神武本人の神霊ではなく地元の神々が託宣した理由は不明です。神武については後で考察してみましょう。

ともあれ、河内の近江軍はいつの間にやら鎮圧されたらしく、7月22日には吹負が「既定倭地(すでにヤマトの地は平定された)」として、大坂を越えて難波に向かっています。壱伎韓国はどうしたのでしょうか。吹負らは3つの道に分かれて山を越え、山崎に至り、淀川の南に集結します。そして難波の小郡(迎賓館)に入ると西の諸国に使者を派遣し、服属させました。

近江平定

一方、不破軍の主力を率いる村国男依は次々と近江軍を撃破し、7月22日には瀬田に到達します。大友皇子と近江朝の群臣は瀬田橋の西に陣営を構えて男依を防ぎましたが、散々に打ち破られて逃げ去ります。7月23日、追い詰められた大友皇子は山前(山崎)に身を隠し、ついに自決しました。大海人皇子が吉野を出発してから、ほぼ1ヶ月後のことでした。

7月24日、大海人皇子側の将軍は大津宮に集まり、近江朝廷の大臣や将軍を捜索し逮捕しました。26日、将軍たちは大友皇子の首級を携えて、不破宮の大海人皇子のもとへ向かいます。彼が直接兵を指揮したわけではなく、高市皇子も総大将とはいえ不破付近に留まっていたようです。

1ヶ月後の8月25日、大海人皇子は高市皇子に命じて、近江の群臣の罪状と処罰を発表します。右大臣の中臣金ら8人は重罪につき斬首されました。また左大臣の蘇我赤兄、大納言の巨勢比等とその子孫、中臣金の子、蘇我果安の子らはみな流刑とし、それ以外は全て赦しました。尾張国司の少子部鉏鉤は大海人側に仕えて功績がありましたが、山に隠れて自決しました。大海人皇子は訝しみ、「何か陰謀でも企んでいたのか」と言いましたが、27日には論功行賞を行います。

こうして「壬申の乱」は終わりました。大海人皇子は9月8日に不破から桑名へ遷り、鈴鹿、阿閉、名張を経て、9月12日に倭京(飛鳥)の嶋宮に入ります。ここに天武天皇の時代が始まります。

◆勝◆

◆利◆

【続く】

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