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【つの版】ユダヤの秘密10・蒙古襲来

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

11世紀末から2世紀に及んだ十字軍運動は、カトリック・ヨーロッパ世界に大きな変動をもたらしました。そして比較的平和裏にキリスト教徒と共存していたユダヤ人への迫害が始まったのも、この頃からです。

◆地獄◆

◆杯◆

迫害激化

十字軍運動が壁に突き当たった13世紀には、ユダヤ人への迫害は腹いせめいてさらに激化します。1215年、教皇インノケンティウスは第4ラテラノ公会議を開催し、ユダヤ人の公職追放、法外な利息取り立ての禁止、キリスト教徒との性的関係の禁止などが取り決められました。

またユダヤ人とイスラム教徒には「キリスト教徒ではないと識別できる衣服や印」を身につけるべしと定められます。その形状は地方により様々でしたが、ナルボンヌでは胸の中央に楕円形のバッジをつけるべしとされ、イングランドでは十戒の石板を模したものとされます(有名な六芒星が用いられたのはだいぶ後になってからです)。

1253年、イングランドでは「ユダヤ人はキリスト教徒と同席するな、キリスト教徒を召使いとするな、シナゴーグを新たに建設するな」といった法令が定められています。さらに1275年にはエドワード1世によりユダヤ人の高利貸しが禁止され、1290年には「全土からユダヤ人を追放する」との勅令が出されます。これは財産没収と借金帳消しにより国王の懐具合を改善しようという程度のことで、フランスやドイツでもちょくちょく行われています。ほとぼりが冷めるとユダヤ人は続々と戻ってきて、再び重用されました。

ユダヤ人は国王から「私有財産」とみなされ、多額の税を納める代わりに庇護を受けていましたが、国王の懐具合が悪くなると庇護は取り上げられ、カネを巻き上げられたのです。日本でも徳政令がしばしば行われましたし、借金を帳消しにすることはユダヤ教やシュメール文明ですら行われましたが、ユダヤ人はそのたびに多大な迷惑をこうむりました。またキリスト教徒の民衆による差別や蔑視、迫害は頻繁に起き、虐殺にすら発展しました。

そのためもあってユダヤ人は用心深くなり、宝石や貴金属を取り扱う商売を行い、賄賂や根回し、いざという時の逃走資金にあてるという知恵を身に着けます。医学や手工業もユダヤ人の特技です。ユダヤ人は知恵を非常に重視し、無一文でも知恵さえあれば豊かで幸福な生活を送れることから、いかなる財産にも勝る神の賜物として讃えました。カネを得ることは大事ですが、カネを活用して生き残ることこそが優れた知恵なのです。もちろん世俗的な知恵ばかりでなく、哲学的・神秘的な知恵も重んじられました。

神秘教学

ユダヤ教の法学・哲学・神学などについては、つのは素人なので詳しくありませんが、この時代に大きく発展していますので一応触れておきます。

1135年生まれのコルドバ出身のラビ、モーシェ・ベン=マイモーン(略称RMBM、ラテン語名マイモニデス)は、アラビア人哲学者イブン・ルシュド(アヴェロエス)に学んでアリストテレス哲学を学びました。しかしムラービト朝に続いてアンダルスに侵入したムワッヒド朝によるキリスト教徒・ユダヤ教徒への迫害が強まると、マイモニデスと家族はアンダルスを去ってモロッコ、パレスチナ、さらにエジプトへ移住します。

マイモニデスはサラーフッディーン(サラディン)の庇護を受け、彼の侍医として仕え、カイロのユダヤ人共同体の長として尊敬を集めました。彼はこの地でトーラーとタルムードを研究し、『ミシュネー(第二の)トーラー』と呼ばれる法規集(ハラーハー)を編纂しています。またアリストテレスの哲学とユダヤ教を調和させるためいくつかの著作を残し、イスラム教やキリスト教の哲学にも大きな影響を与えたといいます。

1250年頃、カスティーリャ王国のグアダラハラで生まれたのがモーシェ・デ・レオン(モーシェ・ベン=シェム・トーヴ)です。彼はマイモニデスの哲学書を研究し、先行する『イェツィラー(形成)の書』や『バヒル(光明)』なども参考にして、1280年代にアラム語で『ゾーハル(光輝)』という書物を書きあらわしました。自分の名では売れないというので、2世紀のラビであったシモン・バル=ヨハイに擬しています。

これはユダヤ教の神秘思想「カバラ(受容、伝承)」の根幹をなす書で、世界の創造(神からの光の流出)、原初の人間アダム・カドモン、そして悪の起源について神話的に語られています。大雑把に言うと神が最初の創造を失敗し、残った欠片が悪の起源だというのですが、同じく流出説をとる古代の新プラトン主義の流れをくんでいるようです。

また「神は6日で世界を創造し、7日目に安息した」「神には千年も一日のようだ」という聖書の記述をもとに、「世界は7000年存続する」としました。創造から6000年が経つと最後の審判が起き、残り1000年間は安息日というわけです(ゾロアスター教でも世界は6000年存続するとします)。

このことは既にキリスト教の教父らも説いていましたが、ギリシア語訳聖書では世界創造紀元が西暦紀元前5508年とされるため、西暦500年頃に終末が来るはずでしたが過ぎ去っています。ユダヤ暦では西暦紀元前3761年を世界創造紀元とするため、最後の審判はまだまだ先ですね。

このような神秘主義思想は、ユダヤ教からも広く受け入れられたとは言えませんが、のちにキリスト教やイスラム教にも伝わって変容していきます。

終末予言

『ヨハネの黙示録』によると、復活して昇天したイエス・キリストは未来に再臨して千年王国を築き、その後で最後の審判を行うということになっています。しかし百年経っても千年経ってもイエスは再臨せず、千年王国は訪れませんでした。そこでキリスト教世界では様々な屁理屈が唱えられ、終末が延長されます。権力者や教会にせよ、終末が本当に来たら困ったでしょう。

12世紀中頃、神聖ローマ皇帝の親族でバイエルンの町フライジングの司教であったオットーは、『年代記』を著してこう解釈しました。『ダニエル書』やエウセビオス、アウグスティヌスによると、世界には4つの地上の帝国が次々と現れ、最後に神の国(千年王国)が訪れます。4つの帝国とは、アッシリア、メディア&ペルシア(カルデア=バビロニアはメディアの属国扱い)、ギリシア、そしてローマです。

ローマが滅びる時こそ終末が来るはずですが、現在は東ローマ帝国と神聖ローマ帝国に分裂しています。オットーによれば、東ローマの帝権は西暦800年に断絶し、カール大帝によって神聖ローマ帝国に遷りました。またアウグスティヌスのいう「神の国」を担う教会と、地上の国である帝国は混合状態にあり、皇帝と教皇が協調して各々の役割を分担する「楕円(中心がふたつある円)」の状態こそが望ましいと説きます。

オットーは皇帝と教皇の叙任権闘争が『ダニエル書』にいう「巨像の足を石が砕いた」状況にあたるとし、終末が差し迫っていると考えましたが、のち皇帝が教皇と協調体制を回復すると「終末は延期された」としました。この「楕円」理論は、西欧の権力構造を表すものとして広く説かれました。

マイモニデスとほぼ同じ頃、南イタリアのカラブリアにフィオーレのヨアキムという神秘主義思想家が現れます。彼はキリスト教徒の修道士で、若い頃にエルサレムやギリシアなどを遍歴し、南イタリアに修道院を建てて瞑想と著述に没頭しました。

彼によれば、世界史は三位一体に対応しており、3つの部分に分かれています。第一は旧約聖書に描かれる「父の時代」で、イスラエルの民が選ばれ、幕屋や神殿が建設され、祭司と預言者が活動しました。第二が「子の時代」で、イエス・キリストに始まり、使徒たちによって教会が形成され、ヨアキムの生きている時代まで1200年ほど続いています。そして西暦1260年頃に「聖霊の時代」が始まり、聖霊が直接人々に降り注いで国家や教会など地上秩序は不要となり、修道士の時代が訪れるというのです。

1260年という数字は、『ヨハネの黙示録』に基づいています。「異邦人は42ヶ月(1260日、3年半)聖都を蹂躙する」「二人の証人が1260日証言する」「荒野に逃げた女が1260日神に養われる」といった記述から、日数を年数に置き換えたのです。モーセからイエスまでも1260年ぐらいですから、なにか繋がりを感じたのでしょう。しかし「国家も教会も不要になる」と予言したため教会から睨まれ、ヨアキム死後の1215年には異端と認定されます。

彼が予言した1260年には、特に終末は到来しませんでしたが、終末が近いであろうという思いは多くの人が抱いていました。そして1240年頃、遥か東方から黙示録の騎士めいた恐るべき大軍が襲来したのです。

蒙古襲来

1206年にモンゴル高原を統一したモンゴル帝国は、テングリの使命を受けた地上の支配者と号して全世界へ侵攻を開始しました。カラ・キタイ、西夏、ホラズム、金を次々と滅ぼすと、1236年からチンギス・カンの孫バトゥによるアラル海以西への大遠征が開始されます。ヴォルガ・ブルガールやキプチャク(クマン)諸族、ルーシ諸侯は粉砕されて服属し、1241年にモンゴル軍はハンガリー及びポーランドへ侵攻しました。彼らはクマン人からテュルク語でタタール(他者)と呼ばれたため、ヨーロッパ人はモンゴル人を「タルタロス(地獄)から来た者たち」と恐れたといいます。

この頃、ポーランドとハンガリーにはドイツ人も多く入植しており(東方植民)、特にバルト海沿岸のプロイセンなどにはドイツ騎士団が割拠して異教徒・異民族と戦っていました。ポーランド諸侯やハンガリー王は彼らと組んでモンゴル軍に立ち向かいますが散々に打ち破られ、国土を蹂躙されます。モンゴル軍の一部はクロアチアのアドリア海沿岸にまで到達しました。

しかし、1242年にモンゴル皇帝オゴデイが崩御したため、モンゴル軍は潮が引くようにポーランドとハンガリーから撤退していきました。ルーシ諸侯のほとんどはモンゴル帝国に従って貢納し、バトゥはヴォルガ川河口付近に首都サライを建設して、黒海北岸に至る広大な領域を支配しました。

1253年から1260年にかけては、モンゴル皇帝モンケの弟フレグが西アジアへ大遠征を行い、イラン・イラク・シリアを制圧してアッバース朝を滅ぼしています。十字軍国家もモンゴルに味方してイスラム勢力と戦いましたが、エジプト・マムルーク朝の将軍バイバルスは1260年にモンゴル軍を撃破し、パレスチナを確保することに成功しています。

国土防衛と再建の必要に駆られたポーランド諸侯は、ドイツなどで迫害を受けていたユダヤ人を呼び寄せます。1264年、ヴィエルコポルスカ公ボレスワフは「カリシュの法令」を発し、ユダヤ人の安全、自治権、信仰の自由などを保証しました。これはドイツやボヘミアで都市法として行われていたマクデブルク法に基づいています。

ポーランドやハンガリーは、当時の欧州では相当に辺境でしたが、モンゴル帝国やその属国と境を接しているという、交易に関しては有利な位置にありました。都市はしょぼいですが新興国ゆえドイツ人などの入植も歓迎され、土地は広く肥沃です。ドイツやボヘミアのユダヤ人たちはそれなりに魅力を感じ、東方へ向かって移動を始めたことでしょう。それでも多くは元の土地にとどまったようです。

東地中海と黒海の覇者となったヴェネツィアへ移住したユダヤ人もいましたが、さほど多くはありませんでした。ヴェネツィアはクリミア半島をハザールにちなんでガザリアと呼んでいますが、ハザール系ユダヤ教徒についての報告は特にないようです。マルコ・ポーロはヴェネツィアの商人で、クリミアを経由してモンゴル帝国を西から東へ旅しています。

しかし、モンゴル帝国からは東方の様々な交易品に加え、恐ろしいものもやって来ました。悪名高い「黒死病」です。

見よ、青白い馬が出てきた。そして、それに乗っている者の名は「死」と言い、それに黄泉が従っていた。(ヨハネの黙示録6:8)

◆死◆

◆神◆

【続く】

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