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【つの版】ユダヤの謎09・耶蘇降誕

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

セレウコス朝シリアの王アンティオコス4世は、反旗を翻したユダヤのエルサレム神殿政府を攻め滅ぼし、大祭司ヤソンを殺して神殿を略奪します。さらに神殿をギリシアの主神ゼウスに捧げて偶像を据え、祭壇に豚を生贄として捧げました。この暴挙に敬虔なユダヤ教徒は怒り、抵抗運動を行います。

◆抵抗◆

◆王◆

護教反乱

前167年、モディン村の祭司マタティアは、一族を率いてシリアに反乱を起こします。長年の搾取と迫害で鬱屈していた多数のユダヤ人がこれに参加し、ゲリラ戦を行って各地で異教の神殿を破壊します。前166年にマタティアが病死すると息子ユダが跡を継ぎ、彼の異名マカバイ(「鉄槌」を意味するとも)から、この反乱を「マカバイ戦争」と呼びます。

ユダは弟たちと共に各地でゲリラ戦を繰り返し、シリアの大軍を次々と打ち破り、前165年にエルサレムを奪還し、神殿清めの儀式を行います(ユダヤ教のハヌカー祭の起源)。アンティオコス4世は怒り狂ってユダヤ軍を討伐に向かいますが、ヤハウェの祟りか前164年にパルティアで急死しました。

巨悪は滅びましたが歴史は終わりません。シリアの将軍リュシアスは9歳の王子アンティオコス5世を擁立して摂政となり、大祭司メネラオスの要請を受けてエルサレムへ侵攻します。ユダヤ軍はユダの弟エレアザルが戦死し、シリア側も本国で反乱が起きたため撤退し、両者は一時和平を結びます。

前162年、ローマの人質だったシリアの王子デメトリオスが帰還し、リュシアスとアンティオコスを殺して即位しました。彼はアロン家のアルキモスをエルサレムの大祭司に任命し、将軍バッキデスと共に遣わします。アルキモスは「和平は成立した、戦いをやめよ」とユダヤ人に呼びかけますが、和平反対派は粛清されます。ユダ・マカバイはシリアに対抗するためローマと同盟するも、前160年にシリア軍に敗れて壮烈な戦死を遂げました。

ヨナタンは跡を受け継ぐとひとまずシリアと講和し、ローマ・エジプト・スパルタなど列強と同盟を結びつつ、アンティオコス4世の子アレクサンドロス・バラスを援助して反乱を唆しました。そして前153年、バラスによりエルサレムの大祭司・将軍・総督として承認されます。こうした巧みな外交戦略により、彼は「アッフス(狡猾な者)」の異名をとりました。バラスは前150年に王位につきますが、前145年にデメトリオス2世に殺され、前142年にはヨナタンも罠にかけられて処刑されました。

弟シメオン(ギリシア語形:シモン)が跡を継ぐと、デメトリオス2世の許可により自治を認められます。彼は王ではなく「大祭司にして将軍、ユダヤ民族の指導者(タシ/ナスィ、ギリシア語:エトナルケス)」と名乗りましたが、その地位は一族に世襲されました。これをマタティアの祖父シモン/シメオンの名から「ハスモン朝」と呼びます。ローマとスパルタもこれを承認し、ユダヤ民族はバビロン捕囚以来約450年ぶりに独立を回復したのです。

王朝混乱

前135年にシモンが暗殺されると、子のヨハネ(ギリシア名ヒルカノス)が跡を継ぎました。彼は前133年にシリア王アンティオコス7世によるエルサレム包囲を受けて服属し、前129年には彼のパルティア遠征に同行しますが、遠征軍は大敗してアンティオコスは戦死します。帰国したヨハネは混乱に乗じてサマリアとエドム(イドマヤ)を征服し、サマリアの神殿を破壊し、エドム人をユダヤ教に強制改宗させました。これによりハスモン朝ユダヤはかつての統一イスラエル王国に匹敵する領土を獲得します。

マカバイ記1』はシモンの死で終わっており、建国の経緯を内外に周知させるためヨハネが編纂させたもののようです。

彼は有能な専制君主として長年君臨しましたが、王位にはつかず大祭司・将軍・民族指導者の称号を維持します。ハスモン家はレビ族ですがアロン家ではなく、律法に従えば大祭司の位にはふさわしくありませんし、ユダヤのヘレニズム化政策も律法に背くことでした。そこで敬虔派(ハシディーム)と呼ばれる人々はハスモン家から距離を置き、堕落して体制派となった祭司ではなく、律法を研究解釈する律法学者(ラビ)を指導者とする宗派を形成しました。これがファリサイ派(分離派)です。これに対し、旧来の祭司階級とそれに従う人々はサドカイ派(正義派)と呼ばれました。

ファリサイ派にも与せぬ人々は、汚れた俗世を捨てて神秘主義教団エッセネ派を形成しました。彼らは死海の西岸の洞窟群に居住し、独自の律法や掟を定めて厳格に守る生活を続け、「死海文書」などの写本を遺しました。その教義では終末が差し迫っていること、光と闇の最終戦争が起きて選民が勝利することなどが説かれ、エリヤやエリシャの時代に存在した在野預言者の集団に似た存在だったようです。洗礼者ヨハネやイエスの活動を彼らと結びつける説もあります。一般庶民との接触を嫌う彼らは、期待した終末が来ないまま消滅し、ユダヤ教やキリスト教、グノーシス主義へ合流しました。

前104年、ヨハネ・ヒルカノスは在位31年にして逝去しました。遺言により長男ユダ・アリストブロスは大祭司の位を受け継ぎ、その母が民族指導者の位を受け継ぎますが、不満に思ったユダは母を投獄して位を奪い、さらには「王」を初めて称します。バビロン捕囚以来480年ぶりの王政復古です。

彼はまた長老会議「ユダヤ人の共同体」を創設し、大祭司を議長として70人の長老(祭司やサドカイ派)を議員としました。これはギリシア語のシュネドリオン(共に座る、議会)が訛って「サンヘドリン」と呼ばれます。ユダは国内をまとめるとガリラヤを征服しますが、即位の翌年に病死しました。

前103年、ユダの弟ヨナタンは兄の妻サロメ・アレクサンドラと結婚して王位につき、ギリシア風にアレクサンドロス・ヤンナイオスと名乗りました。彼はガザを占領し、シリアの支援を受けた反乱を鎮圧し、エジプト軍を撃破してガリラヤ湖北東のイトゥレアを征服するなど大いに勢力を広げました。

前76年、ヤンナイオスが在位27年で逝去すると、63歳の妻サロメが女王として即位します。彼女は野党ファリサイ派と和解し、国内を安定させますが、ファリサイ派は権力を得るや腐敗して横暴となり、かつて自分たちを弾圧した人々に報復します。怒った反ファリサイ派は各地で挙兵し、王子アリストブロス2世がリーダーとなります。前67年にサロメが逝去すると、子で大祭司のヨハネ・ヒルカノス2世が王位につきますが、まもなくアリストブロス2世に敗れて追放されました。

ヒルカノス2世は気弱な性格でしたが、彼の友人でイドマヤ(エドム)人のアンティパトロスは彼を担ぎ上げ、アラブ系ナバテア人の支援を取り付けてユダヤの王位を奪還するよう仕向けます。

この頃シリアも内紛で末期状態にあり、ローマの将軍ポンペイウスは前63年にセレウコス朝シリア王国を取り潰し、ローマの属州としました。アリストブロスとヒルカノス&アンティパトロスは共にローマに支援を求めますが、アリストブロスは気位が高く従わなかったため、ローマはヒルカノスを支援します。ポンペイウスとヒルカノスの軍はエルサレムを攻略し、アリストブロスを捕虜とします。ヒルカノスは大祭司・民族指導者の位につきますが王号は称さず、実権はアンティパトロスが握りました。

この時、ガリラヤ湖南岸からヨルダン川東岸に及ぶダマスカスなど10の都市(デカポリス)はローマによってユダヤ人の支配から独立させられ、都市同盟を組んで自治を行うようになりました。その住民はギリシア人が多く、ユダヤ教徒からは「汚れた異邦人」とみなされて差別されています。

アンティパトロスはポンペイウスを後ろ盾(パトロン)としてユダヤを支配し、長男ファサエロスをエルサレム知事、次男ヘロデをガリラヤ知事に任命します。前57年、アリストブロスは脱獄して反乱しますが鎮圧され、ローマへ送られ幽閉されました。前49年、ポンペイウスとユリウス・カエサルの間にローマ内戦が勃発すると、アリストブロスはカエサルに釈放されてユダヤへ派遣されますが、ポンペイウス派に殺されます。

しかし前48年にファルサロスの戦いでポンペイウスが敗れると、東方諸国はこぞってカエサルになびき、アンティパトロスも抜け目なくカエサルに取り入りました。前44年にカエサルが暗殺されると反カエサル派のカシウス、ついでカエサル派のアントニウスにつきます。前43年、アンティパトロスは政敵に毒殺されますが、ファサエロスとヘロデが跡を継いでユダヤを統治します。ヘロデはアリストブロスの孫マリアムネを娶り、地位を固めました。

前40年、アリストブロスの子アンティゴノスは大国パルティアの支援を取り付け、ユダヤに侵攻しました。ファサエロスらはこれを迎撃しますが、罠にかかって捕縛され、ファサエロスは死亡、ヒルカノスは耳を削ぎ落とされて幽閉されます。アンティゴノスはそのままエルサレムを征服し、王位につきました。これに対しヘロデはローマに支援を要請してユダヤ王に任命され、前37年にアンティゴノスを打倒し、37歳にしてヘロデ朝を開きました。

大王君臨

ヘロデはユダヤ教徒でしたがイドマヤ(エドム)人で、血統的にはユダヤ人ですらなく、ハスモン家の出身である妻マリアムネの弟アリストブロスを大祭司とします(名前のバリエーションが少ないのでややこしいですね)。しかし前34年には大祭司アリストブロスと叔父ヨセフを、前30年にはパルティアから帰国していたヒルカノスを、前29年にはマリアムネを、翌年にはマリアムネの母アレクサンドラを処刑してハスモン家を滅ぼし、反対派を粛清して王権を確立します。大祭司にはヘロデ派のアナネルが任命され、長老議会(サンヘドリン)は宗教的問題だけを裁くよう権力を限定されました。

この間、ローマではアントニウスとオクタヴィアヌスが権力を争っていましたが、アントニウスはエジプトの女王クレオパトラと手を組んで専制君主さながらに振る舞ったため反感を買い、前31年にアクティウムの海戦で敗れたのちエジプトで自決、クレオパトラも後を追います。ヘロデは抜け目なく勝者オクタヴィアヌスに帰順し、後ろ盾としました。

前27年にオクタヴィアヌスが「アウグストゥス(尊厳者、ギリシア語名セバストス)」の称号を元老院から受けると、ヘロデはサマリアの町を彼に捧げてセバステ(現サバスティーヤ)と改名し、ギリシア・ローマ風に改築しました。また前25年にはヤッファテルアビブ)の北方に港湾都市カイザリア(海辺のカイザリア)を建設し、前20年にはガリラヤ湖北方の町パニアス(ピリポ・カイザリア)にアウグストゥスを祀る神殿を建立しています。

ヘロデは土木事業に力を入れ、前20年頃からエルサレム神殿の大改築を開始し、異教徒(異邦人)も神殿に参詣できるスペースを儲けて観光収入を増やしました。また各地にアントニアやマサダなどの要塞を築き、ユダヤ人が多く住む小アジアの都市にも多くの公共施設を寄付しています。これはギリシア系住民には喜ばれましたが、ユダヤ人からはかえって反感を買いました。

パクス・ロマーナの成立によってヘロデの支配は安定しましたが、晩年のヘロデはますます猜疑心が強くなり、前7年にはマリアムネとの息子らを、前5年には庶長子アンティパトロスを処刑し、弟フェロラスも死に追いやりました。新約聖書では晩年のヘロデが「新たなユダヤ王が誕生した」との予言を恐れ2歳以下の幼児を虐殺したと書かれていますが、史実ではありません。

耶蘇降誕

いわゆる史的イエス、ナザレのイエスはヘロデ王の晩年に誕生しています。彼の生涯に関しては様々な伝説がありますが、「ダビデ王の故郷ベツレヘムで生まれた」というのはメシア(キリスト)として箔をつけるための後付話と思われ、普通にガリラヤ地方のナザレ村で生まれ育ったのでしょう。

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西暦(ユリウス・グレゴリオ暦)紀元元年は「キリスト誕生紀元」ということになっていますが、西暦525年に神学者ディオニュシウス復活祭(パスハ、イースター)の日付を計算するため算出したもので、ナザレのイエスの推定誕生年より数年遅いと考えられています。この紀元は8世紀になって西欧で普及しますが、東ローマやロシアではギリシア語訳旧約聖書に基づいた「世界創造紀元」が用いられていました。

遺領分割

紀元前4年、ヘロデは在位33年にして70歳で逝去し、遺言に従って領土は3人の息子と妹サロメに分割相続されました。サロメはヤムニア、アシュドド、エリコ付近の町ファサエロスを相続し、西暦10年に逝去しました。

ヘロデ王国の中核であるユダヤ・サマリア・イドマヤはアルケラオスが相続しますが、領内では不平分子による反乱が頻発し、ローマから問題視されて西暦6年に廃位されました。彼は南ガリアのヴィエンヌへ配流され、その領国はローマの皇帝直轄領・ユダヤ属州とされます。州都はエルサレムではなく「海辺のカイザリア」に置かれ、シリア属州総督の管轄下にありました。

一方、アルケラオスの同母弟アンティパトロス(アンティパス)はガリラヤとペレア(ヨルダン川東岸)を相続し、王とは名乗らず領主として、西暦39年まで40年以上在位します。西暦14年にアウグストゥスが崩御しティベリウスが帝位につくと、彼は西暦20年頃ガリラヤ湖西岸に町を建設してティベリアスと名付け、自らの領国の首都としました。敬虔なユダヤ教徒からは「不浄な地」として嫌われましたが、アンティパスはガリラヤ人や非ユダヤ人、解放奴隷や乞食などもかき集めて移住させたといいます。

またアンティパスの異母弟フィリッポス(フィリポ)は父の領地の北東部、すなわちゴラン高原一帯(イトゥリア、テラコニテス、バタネア、ガウラニティス)を相続し、西暦34年に逝去するまで平穏に統治しました。彼はパニアスの町をフィリポ・カイザリアと改名し、ガリラヤ湖北岸のヨルダン川河口部の漁村ベツサイダ(漁師の家)をベツサイダ・ユリアと改名しました。ここはイエスの弟子アンデレ、ペテロ、フィリポの故郷で、西にはイエスの活動拠点となったカファルナウムの町があります。

いずれもエルサレムからは100km以上北に離れた辺境で、住民も非ユダヤ人が多く、敬虔なユダヤ教徒からは蔑まれていた地方です。このような土地に生まれ育った「あの男」は、果たして何をしでかしたのでしょうか。

◆灰◆

◆水◆

【続く】

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