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【つの版】倭の五王への道18・倭濟

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

倭の五王の第二、珍は劉宋から安東将軍・倭国王の称号を受け、倭隋ら13人の将軍号も認められました。しかし「使持節、都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王」という大仰な称号のすべてには承認を得られず、対高句麗同盟の盟主としては百済王にも劣る官位でしかありません。倭国王のさらなる要求が行われます。

◆濟ber

◆punk◆

倭國王濟

珍に続いて倭国王となったのは濟(済)であると『宋書』は伝えます。

[元嘉]二十年、倭國王濟遣使奉獻、復以為安東將軍、倭國王。二十八年、加使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安東將軍如故。并除所上二十三人軍郡。
元嘉20年(443年)、倭国王の濟が使者を遣わして奉献し、また(前の王と同じく)安東将軍・倭国王とした。元嘉28年(451年)、使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事を加え、安東将軍はもとのままとした。あわせて、上奏された23人に将軍号や郡太守の称号を与えた。

これは夷蛮伝東夷倭国条の記述で、文帝紀にはこうあります。

[元嘉]二十年…是歳、河西國、高麗國、百濟國、倭國並遣使獻方物。…二十八年…秋七月甲辰、安東將軍倭王倭濟、進號安東大將軍

珍の時は獲得できなかった称号が、451年になってほぼ貰えました。夷蛮伝では安東将軍はもとのままなのに、本紀で安東大将軍に進号しているのは気になりますが、本紀に書いてあるということはこちらが正しいのでしょう。後から重ねてせっついたのかも知れません。倭王の臣下や王族にも、劉宋の官爵が名誉称号としてばらまかれています。

ただしよく見れば都督に百済は含まれず、任那と加羅を分けているだけです。秦韓(辰韓)は新羅ですから実質では新羅・任那(弁韓)・馬韓南部に対する軍権が認められただけですが、認められなかった珍以前よりは遥かにマシです。将軍号にも大がつき、高句麗王や百済王よりはまだ格下ですが、少しは良くなりました。ただし次の興の時にはまた「安東将軍・倭国王」に逆戻りしているため、濟の一代限りの称号となりました。

半島・大陸情勢

438年から13年、この間に何があったのでしょうか。高句麗は北魏と劉宋の双方に朝貢していますが、劉宋の方が征東大将軍号を授けるなど扱いが上であり、高句麗も直接国境を接する北魏よりは劉宋の方が付き合いやすく、毎年朝貢使節を送っています。439年に文帝が「北伐を行う」と称して軍馬を要求すると、高句麗は馬800頭を送りました。

『三国史記』によれば訥祇王28年(444年)4月、新羅に倭軍が侵攻し、金城を10日余も包囲しました。食料が尽きて引き上げようとした倭軍に対し、新羅王は群臣の反対を聞かずに追撃して将兵の大半を失ったといいます。また34年(450年)7月、高句麗の辺境の首長が悉直(江原道三陟市)の辺りで狩猟をしていたところを、何瑟羅(江陵市)の城主の三直が急襲して殺害し、俄かに高句麗との緊張を招きました。怒った高句麗王は新羅の北西部国境に軍を派遣しましたが、新羅が謝罪を行ったため退却したといいます。果たして実際にあったことでしょうか。

百済では、『宋書』によれば元嘉27年(450年)正月辛卯、餘毘(毗有王)が劉宋に上書して方物を献じています(文帝紀及び夷蛮伝)。この時、百済王が独自に任命した(私假臺使)西河太守の馮野夫は、易林、式占、腰弩を上表して求め、太祖(文帝)はすべてこれに与えたとあります。『三国史記』にも毗有王14年10月に「遣使入宋朝貢」とありますが、毗有王の即位は西暦427年ですから、三国史記の記事は毗有王24年とすべきでしょうか。

半島はそんな感じで大きな争いはありませんが、チャイナでは結構な事態が起きています。百済の使者が来た翌月の元嘉27年(450年)2月、北魏が劉宋領に侵攻し、河南地方の太守らは敗走します。7月、将軍の蕭斌王玄謨らが北伐を行いますが、冬に滑台で敗れて撤退。11月、北魏軍は山東を攻め、魯・陽平の太守らが戦死します。劉宋軍は各地で敗れ、12月に北魏の太武帝が建康(南京)に迫り、長江北岸の瓜歩(南京市六合区)に到達、首都に戒厳令が敷かれました。翌年春に北魏軍は引き上げますが、劉宋は山東と河南の大部分を失い、長江以北は荒地となって多数の難民が発生しました。

このような状況ですから、倭国王が「私は味方でございます」と使者を送ってくれば大いに歓迎しますし、なるべく要求を聞き届けてやらねば内外に見限られてしまいます。とはいえ百済も高句麗も味方につけておかねばなりませんし、特に高句麗は北魏にも通じていますから、反高句麗派の倭国や百済をあまり持ち上げれば、河南や山東を失った劉宋を見離して北魏に完全に臣属する可能性も大いにあります。

劉宋としては百済・倭国と高句麗が手を取り合い、協力して北魏に対抗して欲しいところなのですが、百済建国の事情からして無理な話です。また高句麗をあまり優遇してもつけあがりますし、百済や倭国の機嫌を損ねます。高句麗が百済を滅ぼし半島を統一して、まるごと北魏に味方したら大変です。微妙な政治的バランスが必要なのです。

各国の機嫌を損ねない方向で調整した結果、濟を使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事とし、安東大将軍・倭国王とし、その臣下らに名誉称号をばらまいたわけです。どうせ名目や印綬、多少の品々を与えるだけですから、これで対北魏の友好国が確保出来れば安いものです。

允恭天皇

濟は長めに在位しており、劉宋世祖孝武帝の大明6年(462年)に倭王濟の世子興が次の倭国王に冊立されていますから、それ以前に薨去したようです。大明4年(460年)の倭使は濟か興か定かでありませんが、この頃とすれば、443年の濟の最初の遣使から18年間前後は在位していたわけです。

倭讚を記紀でいう履中天皇、珍を反正天皇とすると、濟はその允恭天皇(雄朝津間稚子宿禰 ヲアサヅマ・ワクゴノスクネ)にあたります。津を濟と意訳したのでしょうか。宋書は珍を讚の弟としますが、讚・珍と濟の関係は書かれていません。梁書には「有倭王贊。贊死、立弟彌。彌死、立子濟。濟死、立子興。興死、立弟武」とあり、濟を彌(珍)のとしますが、これは宋書に珍と濟の繋がりが書かれていないので、たぶん父子だろうとして書き加えたのでしょう。断絶して別の王家が立ったらそう書くはずです。

次の興は濟の子で、武は興の弟、すなわち濟の子です。記紀にあてはめるなら允恭の子の安康天皇(穴穂 アナホ)が興、雄略天皇(大泊瀬幼武尊 オホハツセ・ワカタケ)が武にあたるはずです。

では、参考までに允恭紀をざっと見ていきましょう。

日本書紀巻第十三 雄朝津間稚子宿禰天皇 允恭天皇
http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_13.html

允恭は履中・反正の同母弟で、仁徳と磐之媛の子です。反正が男子を遺さず在位5年で崩御したため(年齢的に70歳は過ぎているはずですが)、群臣により擁立されました。しかし彼は「私は病気により足が不自由で歩くことが出来ず、体に傷をつけて治そうとしたが効果がなく、父からも跡継ぎにはできぬと叱られた身だ」と断り続け、1年近くも皇位につきませんでした。翌年12月、妃の忍坂大中姫が寒さの中で手水鉢を捧げ持ち、何時間も立ち続けて説得したので、やむなく即位します。

遷宮の記事がないため先帝の丹比柴籬宮にとどまったことになりますが、古事記では遠飛鳥宮(高市郡明日香村飛鳥)としますから、河内とヤマトの両方に宮があったのでしょうか。允恭3年に新羅から名医を招いたところ、病はすぐ治りました。允恭4年には氏姓制度の改革を行い、盟神探湯(くかたち)を行わせて氏族の正誤を正しました。允恭5年、外戚である葛城玉田宿禰を「先帝の殯を怠った」として誅殺しています。

允恭7年、皇后の妹の弟姫(衣通郎姫)を近江坂田から迎えて妃としましたが、皇后は嫉妬して入内させず、弟姫も姉を憚って藤原宮(橿原市)や茅渟宮(泉佐野市)に留まりました。天皇はしばしば遊猟にかこつけて彼女のもとに通いましたが、允恭10年に皇后に諌められて取りやめ、翌年彼女のために藤原部を定めました。これは藤原部の縁起譚で、史実ではなさそうです。

允恭14年に淡路島へ遊猟したところ、獣がみな隠れて何も獲れません。怪しんで占うと島の神が託宣し、「赤石(明石)の海底の真珠を私に供えよ」と言います。そこで海人を集め海に潜らせましたが、誰も海底に届きません。この時、阿波の男狭磯が腰に縄を結んで60尋も海底へ潜り、大きな蝮(鰒、アワビ)を抱えて浮上すると息絶えました。貝の腹中には桃の実ほどもある大きな真珠があり、天皇はこれを淡路島の神に供え、男狭磯を手厚く葬ったといいます。なんかの昔話です。以後8年は空白です。

允恭23年、木梨軽皇子を皇太子としましたが、同母妹の軽大娘皇女と恋仲になり、近親相姦をしたため、翌年軽大娘皇女を伊予へ流しました。それから17年間は空白で、在位42年に崩御したことしか語られません。この時新羅王は弔問の使者を派遣しましたが、大泊瀬皇子(のちの雄略天皇)が使者の呟いた言葉を疑い一時拘束したため、新羅は恨み朝貢を減らしたといいます。

陵は河内の長野原陵で、藤井寺市の市ノ山古墳(5世紀後半、墳丘長227m)に比定されます。42年も在位した大王の割に大した大きさではありません。

皇太子である木梨軽皇子は先の件で人望を失っており、群臣に擁立された穴穂皇子が皇太子を討伐して皇位につきます(安康天皇)。軽皇子はその場で自害したとも、伊予に流されて軽大娘と再開し自害したともいいますが、史実性の薄い歌物語に過ぎません。

こう見ると允恭紀は年数が長い割にスカスカで、ろくな記録がありません。まあ倭濟が長たらしい外交称号を獲得したのも、軍事的功績によるものではなく国際的状況の賜物ですから、倭王本人が何か特別なことをしたわけではありません。長生きして政権を安定させ、世継ぎを残せば充分です。

允恭の年代を機械的に西暦に当てはめると412年から453年になり、讚・珍・濟の朝貢は彼の時代に全部収まってしまいます。しかし当然日本書紀の年代がおかしく、東晋や劉宋への朝貢のことも一切書かれていません。倭国改め日本国の、倭王・倭国王改め日本天皇の権威とメンツに傷がつくからです。7世紀末から8世紀初頭の国家イデオロギーにまみれた記紀の内容を、文献批判もせず鵜呑みにするのはどうでしょうか。

もちろんチャイナやコリアの文献も、当時のイデオロギーや著者・編纂者の思惑が満ち溢れていますし、史書に限らずあらゆる文献・文章はそんなものです。つのの記事も鵜呑みにせず、あなたはあなたで考えて下さい。

年代推定

允恭の享年は「若干」とありますが、古事記・旧事紀では78歳、愚管抄や神皇正統記では80歳とします。しかし計算上は即位時に70歳は過ぎているはずで、42年も在位したなら110歳は超えていると思いますが。

讚が確実に文献に登場するのが421年で、珍は438年から、濟は443年から460年頃まで、濟の子の興は462年。この間に40年が経過しています。讚・珍・濟が兄弟とすると、珍や濟は遅くとも420年以前に生まれていなければならず、413年の遣使が讚のものならそれ以前です。

河内王権を築いた仁徳にあたる倭王が、368年頃から40年在位したとするならば、30歳で即位して70歳まで長生きしたか、20代の若さで即位して60代まで生きたことになります。その子の讚(履中)が438年の少し前に死んだとすれば30年近い在位で、408年に30歳と仮定すれば378年頃の生まれ、父は30代か40歳。弟の珍(反正)は438年から442年まで5年間在位し、讚とあまり変わらない年代(60代)です。濟(允恭)が443年頃60歳だとすると、18年在位すれば80歳近く、次の興はともかく武は479年頃まで15年在位しており、相当高齢の王が続いたことになります。

濟(允恭)が珍(反正)の子とすれば、珍が30歳で濟を儲けたとして410年頃に生まれ、33歳で即位し53歳で崩御となります。あるいは仁徳の晩年の末子だとすれば、400年頃に生まれたとして43歳で即位し61歳で崩御となります。履中や反正とは父子ほども離れており、同母弟なら母が異常な高齢出産になりますから異母弟でしょう。允恭の倭名の後半「稚子(わくご)宿禰」も末子ぽさがあります。つまり、こうなります。

仁徳(応神):在位368-408年、40年
履中(倭讚):在位408-437年、30年
反正(倭珍):在位438-442年、5年
允恭(倭濟):在位443-461年、18年

反正の在位は5年ですから、倭珍の推定在位期間と一致します。仁徳は87年ではなく、日本書紀の応神と同じ41年ぐらい在位しています。履中の在位期間は30年から6年と24年も削られ、代わりに允恭は18年から42年と26年も水増しされています。1年や2年のデコボコを均せばおよそすっきりしますね。

渡来人・帰化人は文字や干支の知識を持っていますから、自分たちや先祖が来た年代や当時の倭王について、各々記録や伝承を残していたはずです。後世の政権が史書を編纂する時、それらを参照してつき合わせ、都合の悪いものは廃棄し、都合の良いように作り上げたのです。しかし年代の辻褄は意図せずしてか意図的にかぼやけており、後世の人を悩ますことになりました。

意柴沙加宮と東国開発

ところで、和歌山県隅田八幡神社に伝わる銅鏡にはこのような銘文が刻まれています。

癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟
癸未年八月日十大王年、男弟王が意柴沙加(おしさか)の宮におられる時、斯麻が長寿を念じ、開中費直(かふちのあたい、河内直)、穢人の今州利の二人らを遣わし、白上同(上質の白銅)二百旱をもってこの鏡を作る。

癸未年は西暦443年か503年にあたり、意柴沙加宮は允恭の妃・忍坂大中姫(安康・雄略の母)の宮で桜井市南部ですが、男弟王とか斯麻は誰かわかりません。穢人は濊貊の濊で、高句麗や百済から連れて来られた(ないし自ら渡来した)鏡職人でしょうか。この鏡の鋳型のもととなった鏡は、大阪府八尾市の郡川車塚古墳、同藤井寺市の長持山古墳(伝允恭陵の陪冢)、京都府京田辺市のトツカ古墳、福井県若狭町の西塚古墳(5世紀後半)、東京都狛江市の亀塚古墳などで、允恭か継体と関係がありそうです。忍坂大中姫は継体の曽祖父・意富富杼王の同母妹で、男弟王は彼にあたるかも知れません。

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政治や経済の中心地が河内へ遷ったようでも、ヤマトや奈良盆地は相変わらず重要な拠点、先祖の陵墓が集まる古い都として存続しています。神功・応神・履中もヤマトに宮を置いたと伝えますし、允恭の妃の出身地もまさにヤマトの奥懐で、雄略天皇の諱の大泊瀬とは桜井市から宇陀へ通じる初瀬(長谷)のことです。河内とヤマトは河川や道路で不可分に結びついています。

東国経営のための道路は山背・近江から美濃だけでなく、ヤマトから宇陀・名張・伊賀・伊勢へと通じており、関東には毛野に有力豪族が栄え、蝦夷と戦って勢力を拡大していました。朝鮮半島へ送られた将軍にも上下の毛野氏がいますし、東国で戦慣れした「東夷」らも彼らに従って送り込まれたでしょう。半島から持ち帰られた牛馬や技術、労働力は東国の開拓や戦争に用いられます。日本海ルートが衰退して勢力が弱まった出雲系の人々や、半島からの渡来人も、新天地を求めて東国へ移住します。

河内の巨大古墳が出現する頃、全国各地の古墳は縮小傾向にあり、中央の王権が強まって来たことを示します。しかし倭王と豪族の格差はまだ大きくなく、利害や血縁によって緩く繋がっているだけで、機嫌を損ねた皇后・外戚や豪族はしばしば倭王の命令に従いませんでした。朝鮮半島に駐留する連中も遠隔地なのをいいことにやりたい放題です。劉宋から賜った名誉称号も、倭王が安東将軍や安東大将軍で、重臣や豪族らにばらまかれた将軍号や郡太守号と大差ありません。さて、倭王はどうするのでしょうか。

◆You could be king◆

◆I could be king◆

【続く】

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