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【つの版】倭の五王への道04・佐紀

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

4世紀中頃、纒向遺跡は突如として解体し、倭国の大王級陵墓の築造地は奈良盆地北部の佐紀丘陵へ移動します。さらに半世紀後の5世紀初頭(古墳時代中期)以後、奈良盆地を離れた河内に超巨大古墳が次々と出現します。これは何を意味するのでしょうか。

◆咲◆

◆Saki◆

婚姻圏の拡大

ところで、『日本書紀』に基づき神武から景行に至る歴代天皇と、その婚姻関係を見てみましょう。王家の婚姻圏は、およそ勢力圏に相当します。また古今東西でそうですが、君主の妃および母親の一族は「外戚」として権力を握ることがしばしばあります。おぼろげな伝説にしても、日本書紀編纂者が当時の系譜関係をどう考えていたかは推測できます。

歴代の皇居と陵墓は下記を参照して下さい。

神武の妃は前述の媛蹈鞴五十鈴媛命で、三輪山の大物主神の娘とされます。次の綏靖は母方の叔母(父は同じく大物主神)である五十鈴依姫命を娶って安寧天皇を儲けていますが、異説では磯城県主か春日県主の娘を妃としています。安寧の妃は鴨王ないし磯城県主の娘、懿徳の妃は兄の娘ないし磯城県主の娘、孝昭の妃は尾張氏(愛知県の尾張ではなく葛城高尾張、奈良盆地南西部)か磯城県主の娘で、奈良盆地南部一帯にとどまります。交易圏は広くても、初期のヤマトはせいぜいこの程度の勢力だったのでしょう。日本書紀は西暦720年成立で国威発揚のために書かれた国史ですが、最初からヤマトが日本列島を統一支配する強大な国であったとは書いていません。

孝安天皇の妃も磯城県主か十市県主の娘ですが、彼の兄は天足彦国押人命という大王めいた(非実在的な)名で、和邇氏・春日氏・小野氏・近江国造など近畿北部諸氏族の祖とされます。また孝安はこの兄の娘を娶って孝霊天皇と大吉備諸進命を儲けたともされ、吉備の名が皇族に初めて現れます。

和邇氏は天理市の北部、和邇町や櫟本町を拠点とする氏族で、添上郡・添下郡に勢力を持っていました。添(そふ、曾布)とは奈良市東部の佐保川流域を指す地名で、平城山丘陵の東側を佐保、西側を佐紀と呼びました。ただし卑彌呼や臺與の頃に和邇氏と呼べる勢力が存在したかは疑問で、四官には伊支馬(生駒)はあっても和邇は現れません。櫟本に弥生時代の高地性集落があるため古くから住民がいたとしても、ヤマト王権内では後発勢力で、箔をつけるため先祖を加上したのでしょう。4世紀後半には櫟本に東大寺山古墳が築造され、例の中平年紀年銘鉄刀が副葬されています。

孝霊天皇の妃も磯城県主ないし十市県主の娘で、孝元天皇は彼女が産んでいますが、別の妃に蠅伊呂泥(ハエ・イロネ、亘某姉、倭国香媛、意富夜麻登玖邇阿礼比売命)と蠅伊呂杼(ハエ・イロト、亘某弟)がいます。彼女らは安寧天皇の孫にあたる淡路御井宮(淡路島北東部、淡路市佐野の御井か)の和知都美命の娘で、それぞれ倭迹迹日百襲媛命、日子刺肩別命、彦五十狭芹彦命(大吉備津彦命)、倭迹迹稚屋姫命(倭飛羽矢若屋比売)と彦狭島命、稚武彦命(吉備氏)を産んでいます。皇孫とはいえ淡路島出身者の娘が吉備氏の祖と卑彌呼めいた皇女を産んだわけで、やはりなにやら外来性があります。吉備や播磨の勢力がヤマトの王の外戚となり、ヤマトに乗り込んできて纒向を作ったのかも知れません。

孝元天皇の妃は饒速日尊の子孫である欝色謎命と伊香色謎命、河内の青玉繋の娘である埴安媛と三人おり、欝色謎命は大彦命(四道将軍の一人)、少彦男心命、開化天皇、倭迹迹姫命を、伊香色謎命は彦太忍信命(武内宿禰の祖父ないし父)を、埴安媛は武埴安彦命(崇神の時の反逆者)を産みました。河内へも婚姻圏が広がったようです。そう言えば武埴安彦命とその妻は北(山城)と西(河内)からヤマトを攻めようとしましたね。

饒速日尊は神武以前にヤマトを治めていたという謎の人物(神)で、物部氏の祖ともされますが、物部氏が実際に台頭するのは古墳時代中期の5世紀以後です。彼らは河内に本拠地を持ち、後からヤマト王権の重臣となったため饒速日尊という共通祖神を新たに作り出した形跡があります。和邇氏も祖神として天足彦国押人命を作りました。また記紀編纂時には物部氏系の石上麻呂が左大臣の位にあり(717年薨去)、編纂者が彼の祖神を持ち上げたのでしょう。『先代旧事本紀』は記紀編纂より後、9世紀に衰退した物部氏が編纂したもので、自らの氏族を持ち上げようという意図はさらに明白です。

開化天皇の妃は先帝の妃であった伊香色謎命で、崇神天皇と御真津比売命を産みました。また丹波の大県主(大豪族)の娘を娶って彦湯産隅命を、和邇氏の娘を娶って彦坐王(四道将軍、丹波を平定)を、葛城垂見宿禰の娘を娶って武歯頬命を儲けています。こうして婚姻圏は淡路・河内・畿内北部・丹波にまで拡大しました。開化もこれまで宮や陵があった奈良盆地南部(橿原市や御所市)から北に遷って春日率川宮(奈良市)に宮居し、陵もこの地にあるといいます。ただ、開化天皇陵とされる奈良市油阪町の念仏寺山古墳は5世紀前半のものです。

崇神天皇は再び奈良盆地南部の纒向に遷り、大彦命の娘・御間城姫を娶って垂仁天皇らを儲け、紀伊国の荒河戸畔の娘を娶って豊城入彦命(上毛野君と下毛野君の祖)と豊鍬入姫命(臺與か)を儲け、尾張大海媛(葛木高名姫)を娶って大入杵命(能登国造祖)・八坂入彦命(景行の皇后の父)・渟名城入媛命・十市瓊入媛命を儲けました。ミマツ(彌馬升)や尾張は葛城地方ですから、葛城から紀伊へ婚姻圏を広げたことになります。

古事記では崇神天皇の妃を御真津比売としますが、崇神の同母妹にも同名の御真津比売がいます。開化(ミマツヒコ)の入婿が崇神(ミマキイリヒコ)ということかも知れませんが、定かではありません。卑彌呼が倭迹迹日百襲姫命とすると、世代的には孝元天皇から開化天皇の時代になります。

垂仁天皇の皇后は丹波の彦坐王の娘・狭穂姫命ですが、彼女は誉津別(ほむつわけ)命を産んだのち、兄狭穂彦王の反乱に巻き込まれて焼身自殺しています(狭穂は佐保・添と同じ)。垂仁は彼女の姪にあたる丹波道主王の娘・日葉酢媛命を娶って皇后とし、五十瓊敷入彦命(河内を平定)、景行天皇、大中姫命、倭姫命(豊鋤入姫命の後継者、伊勢の斎宮)、稚城瓊入彦命を儲けました。また日葉酢媛命の妹である渟葉田瓊入媛・真砥野媛・薊瓊入媛や、開化天皇の孫娘にあたる迦具夜比売、山背の大国不遅の娘など多くの妃を娶っています。やはり近畿北部と交流が深いですね。

誉津別命は成長しても口がきけませんでしたが、鵠(くぐい、白鳥)が飛ぶ様を見て初めて声を発したので、垂仁天皇は湯河板挙を派遣して鵠を捕らえに行かせました。鵠は但馬を経て出雲へ飛び(宍道湖・中海は白鳥飛来地の最南端です)、ここで捕まえました。これを誉津別命に与えると話ができるようになったので、天皇は喜んで湯河板挙を鳥取造(鳥を捕獲する職掌)に任命したといいます。『古事記』では山辺大鶙が派遣され、紀伊・播磨・因幡・丹波・但馬・近江・美濃・尾張・信濃と追跡し、越国の和那美之水門(わなみのみなと、新潟県長岡市川口和南津)に罠網を張って捕獲しました。しかし本牟智和気王(誉津別命)はなお話すことができません。悩んだ天皇の夢の中に出雲大神が現れ、自分の神殿を作るよう求めました。天皇は本牟智和気王に曙立王と菟上王を随行させ、出雲まで派遣して神殿を建てさせましたが、この時に本牟智和気王が初めて口をきいたといいます。細かく語られる割にホムツワケ/ホムチワケは天皇となりませんでしたが、これは本来ホムタワケ(応神天皇)のことではないかとも言われます。近畿北部や北陸は本来出雲の勢力圏ですから、友好関係を結んで損はないでしょう。吉備はヤマトと結んで瀬戸内や太平洋沿岸を、丹波は出雲と結んで日本海沿岸を掌握したわけです。どちらも大事なので役割分担というべきでしょうか。

景行天皇は非常に多くの妃と子らを持ちました。最初の皇后は稚武彦命(若建吉備津日子命)の娘の播磨稲日大郎姫で、櫛角別王、大碓皇子、小碓尊日本武尊、仲哀の父)を儲けました。次の皇后は崇神天皇の孫の八坂入媛命で、成務天皇ら7人の男子と5人の女子を儲けました。他に垂仁天皇や武渟川別命の孫娘、日向や熊襲の豪族の娘、物部氏の娘らを娶っており、八十人も子がいたといいます。無論彼が様々な系譜の祖として後から繋げられただけでしょう。八(や)は倭語で「多数」を意味します。

成務・仲哀・神功

成務天皇は奈良盆地を離れて近江国の志賀高穴穂宮(滋賀県大津市穴太)に宮居し、これら多数の王族を各地に封建しましたが、自らは子を即位させず兄・日本武尊の子(仲哀)を皇太子としました。ここまで父から子へ代々継いできたのが、叔父から甥へ継承されたのです。成務の陵墓は佐紀丘陵にあるとされ、大遠征したとはいえ纒向に宮居し山辺道上に陵墓がある景行とは異なります。考古学的には、これが4世紀中頃になるわけです。

仲哀天皇は即位の翌年熊襲討伐のため敦賀から筑紫へ遠征しますが、橿日宮(福岡市香椎宮)で急逝します。そして神功皇后が三韓征伐を行った後、応神天皇を産みました。ヤマトでは仲哀と別の妃の子である麛坂皇子と忍熊皇子が神功と応神の帰還を阻もうとしましたが、麛坂皇子は猪に食い殺されました。忍熊皇子は明石から宇治へ撤退し、狹々浪の栗林(滋賀県大津市)まで攻め込まれて死亡します。神功は乱を平定すると磐余稚桜宮(奈良県桜井市)に宮居し、西暦200年から269年まで69年摂政の座にあったといいます。また仲哀は河内へ埋葬されましたが、神功の陵墓は佐紀丘陵にあります。

神功皇后(息長帯比売命)の高祖父は、崇神天皇の異母弟である彦坐王で、和邇氏の母を持ち丹波を平定しました。その子孫は繁栄し、何人かの皇后を輩出しています。息子の一人が山代之大筒木真若王で、山城国南部の綴喜郡(京田辺市付近)を治めました。彼もその子も丹波の王女を娶り、神功皇后の父息長宿禰王に至ります。彼の妃は但馬出身の葛城高額媛で、アメノヒボコの末裔です。神功の血縁はみな丹波・山城・但馬と近畿北部ばかりで、ヤマトとの縁が薄いことが理解ります。なお応神天皇の子孫に息長氏があり、近江国東部の坂田郡(滋賀県米原市)を根拠地としています。

随分混乱していますが、果たしてこのような大動乱はあったのでしょうか。仲哀はともかく成務や神功の宮と陵は離れすぎています。河内の大王陵の主たちがヤマトに宮を置いたこともありますから断定はできませんが、この時代にはヤマト王権を構成する勢力が分かれて争っていた形跡があります。

つまり、卑彌呼や臺與の時代には一応纏まっていた「七万戸の邪馬臺國」が利権を巡って内部分裂を始めたのでしょう。ヤマトは近畿の南に寄り過ぎており、日本海側からはやや遠いのも事実です。そう言えば投馬國から邪馬臺國までも但馬・丹波・山城を通りましたね。

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おそらく丹波や山背、近江や和邇など近畿北部の外戚勢力を背景に、佐紀に倭王が遷ったのでしょう。後に平城京(奈良の都)が置かれるぐらいの地政学的なポテンシャルはあります。東の伊賀、南のヤマト、西の河内、北の山背とはおよそ等距離で、伊勢・紀伊・吉備・丹波とのバランスもとれます。

平安京が794年からたまたま千年以上続いただけで、海外や九州から新たな勢力が攻め込んで来なくても、倭國・日本の首都は国内のパワーバランスによって歴史上結構頻繁に動いています。大王の父系血統は当時でも重んじられたでしょうし(卑彌呼の後を「宗女」が継いでいます)、一応断絶はしていないと思いますが、外戚が強くて王統が揺らぐ状況ではあったでしょう。

247年頃まで40年は在位した卑彌呼の後、臺與の後見人が248年に35歳として、30年ずつ在位したとすれば278年・308年・338年・368年に世代交代が起きます。つまりおよそ崇神(248-278)・垂仁(278-308)・景行(308-338)・成務(338-368)の4代に相当します。全くの当てずっぽうですが、世代交代の目安としてはあり得なくもないでしょう。佐紀に遷ったのは成務に相当する王で、その妃や王族・外戚の墳墓も佐紀に営まれたわけです。

仮に崇神から9代を1世代30年で遡ると、神武の即位は270年遡って紀元前22年になり、倭国のライバルの高句麗と同じぐらいにはなります。年代を引き伸ばす前には、そのぐらいにヤマトの建国年代が「設定」されていたのでしょう。とすると西暦57年の金印は3代目の安寧、107年の帥升は5代目の孝昭とできますが、徐福や呉の太伯が説明できません。それで紀元前数百年まで神武を遡らせ、その前に日向三代や神代を置いたのでしょう。

卑彌呼の死からほぼ120年後、倭國にとって重大な事件が起きました。確かなこととして、4世紀後半から倭國は百済と同盟を結び、朝鮮半島に出兵しています。これについては後で述べましょう。

たぶん日本書紀の編纂者も、これを知った上で敢えて神功皇后を卑彌呼や臺與の時代に据えた(成務と応神・仁徳の間に挿入した)のだと思います。神功46年以後の事件は、明らかに年代を120年遡らせているからです。

◆咲◆

◆全国編◆

駆け足で進み過ぎた感もありますが、今回は以上です。次回は東海地方から関東・東北、また北陸についてもざっくり見ていきます。記紀にいう四道将軍や、ヤマトタケルの時代です。

【続く】

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