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【つの版】日本建国18・神武東征

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

出雲の主に国譲りを承諾させたのに、天孫は日向へ天降り、山や海の神々と通婚して世代を経ました。そしてニニギの孫ウガヤフキアエズが海神の娘タマヨリヒメを娶って産んだのが、神武天皇とされています。古事記でも日本書紀でも神代は終わり、人の世が始まります。

古事記 中卷-1 神武天皇から開化天皇まで
http://www.seisaku.bz/kojiki/kojiki_08.html
日本書紀巻第三 神日本磐余彥天皇 神武天皇
http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_03.html

◆移◆

◆民◆

神武天皇

「神武天皇」は記紀編纂後、淡海三船によって8世紀後半に贈られた漢風諡号であり、倭風諡号は古事記では神倭伊波禮毘古(カムヤマト・イワレビコ)命で、日本書紀では神日本磐余彦天皇と表記します。倭・日本は奈良盆地東南部の地名であると共に、日本列島(大八洲)を「天下」とする国家概念ですが、磐余(いわれ)はヤマトの南で飛鳥の北、奈良県桜井市中部から橿原市に及ぶ一帯を指す地名です。あくまでこの地に宮居したことからそう呼ばれたのであって、日向にいた頃からの呼称ではないはずです。

『古事記』によると、彼の個人名は若御毛沼(ワカミケヌ)命、または豊御毛沼(トヨミケヌ)命です。すぐ上の兄に御毛沼(ミケヌ)命がいるので、彼より若いからという適当な命名でしょうか。ケとは「食物」を意味し、ミケヌは「御饌(みけ)の主」の意とされます。

『日本書紀』では幼名を狭野(サヌ)、諱(いみな、実名)を彦火火出見(ヒコホホデミ)としますが、これは祖父ホオリの別名でもあります。即位前は諱でワカミケヌ(サヌ)と呼んだ方がいいでしょうか。でもわかりやすさを重んじて神武とします。

彼はウガヤフキアエズの末子(四男)で、長兄は五瀬(イツセ)、次兄は稲氷(イナヒ)、三兄は御毛沼(ミケヌ、ミケイリノとも)です。父に兄弟はいないため、ニニギ以来の日向の領国は、順当に行けばイツセが継承するに違いありません。しかし、そうはなりませんでした。

西海遍歴

『古事記』ではこうです。神武とイツセは高千穂宮で議論し、「天下の政を行うため東へ行こう」と言って、船で日向を出発し筑紫へ赴きました。日向から筑紫へは明らかに北ですが、東へ行くための準備でしょう。途中で豊国の宇沙(宇佐)に至り、土着の豪族(神)であるウサツヒコ・ウサツヒメの歓迎を受けます。その時の宮を「足一騰宮(あしひとつあがりのみや)」と言い、伝承では宇佐神宮の南にあるとされています。

そこから筑紫の岡田宮(筑前国遠賀郡岡田神社)に遷り、1年間留まったのち、東に向かって阿岐(安芸)国の多祁理宮(広島県府中市多家神社)に到着しました。下関海峡を抜け、周防灘を東進し、広島湾に入ったわけです。神武とイツセらはこの地に7年間留まり、ついで吉備の高嶋宮に遷って8年も留まりました。高嶋宮の位置には諸説あり、決定していません。

日向を出てから1+7+8=16年も経ちますが、まだヤマトに着いていません。そもそも出発時から「東へ行く」とは言ったものの、「ヤマトへ行く」とは一言も言っていません。このまま安芸や吉備に留まって瀬戸内航路を抑え、諸国を統治することになっていたかも知れません。

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しかし神武らは高嶋宮を離れ、さらに東へ向かいます。やがて速吸門(はやすいのと)という海峡に着くと、浦島太郎めいて海亀の甲羅に乗り釣り糸を垂れ、羽(帆)を打ち上げて近づいてくる者がいました。神武らは船の上から彼を呼び、「何者か」と問いかけます。すると「私は国津神です」と答え、「海の道を知っているか」「我らに従うか」と問うと「知っています。従います」と言います。それで彼を水先案内人とし、船の上から槁(さお)を差し渡して船に引き入れ、槁根津日子(サオネツヒコ)と名付けました。

瀬戸内海は潮の流れが速く複雑で、古来航行する船は地元の漁師らを雇って水先案内人としました。中世には芸予諸島に水先案内のプロ集団である村上海賊(村上水軍)がおり、彼もそのような存在でしょう。速吸門がどこかは諸説あり、吉備の児島湾の出入口とも、淡路の北の明石海峡ともいいます。

こうして神武らの船団は「波速の渡」を経て、「青雲の白肩(しらかた)の津」に停泊しました。波速は難波(なにわ)です。以前見たように、ここには上町台地が突き出しており、その東側には大和川が流れ込む草香江(くさかえ)という入り江・湿地・潟(かた)が存在しました。神武らは大阪湾からこの入り江に入り、生駒山地の西麓(東大阪市付近)へ着いたわけです。

日本書紀では

この間の状況は、『日本書紀』神武紀では詳しくなっています。また神武紀にはこれまでのような「一書」の引用による異説の紹介がなく、すっきり整えられています。それによると、神武は生まれつき明達で意がしっかりしており、同母兄らを差し置いて15歳で立太子されました。長じると日向国吾田邑の吾平津媛を娶り、手硏耳(タギシミミ)命を儲けています。父祖の後継者として地元に根を下ろそうとしたのでしょう。

しかし45歳の時、彼は兄や子らにこう語ります。「むかし我が天津神のタカミムスビ尊・オオヒルメムチ尊(アマテラス)たちは、この豊葦原の瑞穂の国を、我が天祖ニニギ尊に授けられた。子孫は代々この(葦原中国の)西の片隅の地を治めてきたが、天孫降臨から現在まで179万2470余年にもなる」

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"!?"

昔我天神、高皇産靈尊・大日孁尊、舉此豐葦原瑞穗國而授我天祖彥火瓊々杵尊。於是火瓊々杵尊、闢天關披雲路、驅仙蹕以戻止。是時、運屬鴻荒、時鍾草昧、故蒙以養正、治此西偏。皇祖皇考、乃神乃聖、積慶重暉、多歷年所。自天祖降跡以逮于今一百七十九萬二千四百七十餘歲

たった数世代で179万数千年とはどういうことでしょうか。日数の間違いとしても多過ぎます。よくわかりませんが考察は後回しにし、続けます。

「しかしこの地は(葦原中国の他の国々から)遠く、王の恩沢(めぐみ)はなお行き渡らず、各地の邑君・村長は自分勝手に境界を決めて、互いに争っている。さてまたシオツチノオジに聞くところ、『東に美しい地があり、青山が四方をめぐっている。その中に天の磐船に乗って飛び来たり、降臨した者がいる』という。その地こそ六合(四方上下)の中心であり、大業を広めて天下を治めるに足る地であろう。行って都としようではないか」

諸皇子らは「まことにそうです。我らもそう思っていました。早く行きましょう」と答えます。この年は「太歳甲寅」、六十干支で甲寅にあたる年とされますが、いったい西暦何年のことでしょうか。その年の10月、神武一行は日向から船で「東征」に出発しました。

やがて速吸の門に至ると、小舟に乗った漁師が近づいてきて「私は国津神、名を珍彦(ウズヒコ)と申し、魚を釣って浦々を巡っております。天津神の御子が来られると聞き、お迎えに参りました」と告げます。それで彼を水先案内人とし、船竿で船へ引き入れ、椎根津彦(シイネツヒコ)の名を賜りました。『古事記』とだいたい同じです。

ところが、次は菟狭(宇佐)でウサツヒコ・ウサツヒメに歓迎された話で、ウサツヒメが中臣氏の遠祖アメノタネコに嫁いだ話が付け加わっています。とすると、日本書紀での速吸の門は児島湾や明石海峡ではなく、日向から宇佐までの間の海峡…豊予海峡に他なりません。まあいろいろな場所に水先案内人がいたのでしょう。

神武一行は同年11月に筑紫国の岡水門(岡田宮)に至り、12月には安芸国の埃(え)の宮に入りました。古事記にいう多祁理宮でしょうが、何年も居座ってはいません。日向出発の翌年、乙卯年の3月には吉備国に入り、高嶋宮を設営しました。神武らはここに三年間留まり、船楫を修繕し兵糧を蓄え、一挙に天下を平定せんとした、とあります。最初から目的地はヤマトで、先に降臨した何者だかもいるわけですから、当然戦って征服するつもりです。

乙卯・丙辰・丁未と三年を吉備国高嶋宮で過ごし、勢力を蓄えると、神武らの水軍は戊午年の2月にヤマトめがけて出陣します。難波の岬(上町台地の北端)を急な潮流(浪速)に翻弄されながら抜け、淀川の流れを遡り、3月には河内国草香邑の青雲の白肩の津に到着しました。途中経過はともかく、経路は古事記も日本書紀も同じです。

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五瀬薨去

しかし当然、ヤマトや河内の先住民は侵略者に抵抗します。ここまで一切戦闘はありませんでしたが、神武らは初めて敵軍の激しい攻撃に晒されます。

『古事記』によると、登美能那賀須泥毘古(とみの・ながすねびこ)という者が待ち構えており、白肩津に上陸しようとしていた神武軍を襲撃します。ナガスネビコの軍勢は激しく矢の雨を降らせたので、神武軍は船べりに楯を並べ立てて防ぎました。それでこの地を「楯津(たてつ)」といい、いま(古事記編纂時に)日下(くさか)の蓼津(たでつ)と訛って呼んでいるといいます。日下と書いて「くさか」と読むのはなぜでしょうか。

この時の戦により、神武の兄イツセは手に「痛矢串(いたやぐし、矢傷)」を負いました。彼は苦しみながらこう告げます。「我らは日の神(アマテラス)の子孫であるから、太陽に向かって戦うのは良くない。ゆえに賤しい奴に痛手を負わされたのだ。ぐるっとまわり、太陽を背負って攻撃しよう」

そこで神武軍は白肩津から撤退し、大阪湾に出て岸沿いに南下します。この時イツセは手の血を海で洗ったため、この海(大阪湾)を血沼(ちぬ)の海と呼ぶといいます。しかしイツセの傷は深く、紀伊国のある水門に至った時「賤しき奴の手にかかって死ぬのか!」と雄叫びを挙げて死にました。それでここを「男の水門(おのみなと)」といい、イツセは紀伊国の竃山(かまやま)に葬られたといいます。

それぞれの場所は諸説ありますが、おおよそ紀淡海峡を抜けた和歌山市のどこかとされ、紀ノ川南岸の和歌山城北西に小野(おの)町があり、南東の和田に竈山墓・竈山神社があります。

『日本書紀』ではこうです。4月に皇師(神武らの軍勢)は白肩津から上陸し、大和川沿いに進んで龍田(龍田大社、生駒郡三郷町)へ進軍しようとしました。しかしこの道は険阻で、人が並んで進めないほどだったので、危険と判断して撤退し、生駒山を越えて中洲(奈良盆地)を目指しました。

この時、長髄彦(ナガスネヒコ)は西から軍勢がやってきたと聞き「天津神の子らが来て、我が国を奪おうというのだ」といい、兵を集めて孔舎衛坂(くさえざか、東大阪市日下町)で阻みました。この戦いで流れ矢がイツセの腕に命中し、神武の軍は不利となります。神武は「我らは日神の子孫であるのに、太陽に向かって攻め込んだからこうなったのだ。神祇を祀り、日神の威を背負って戦えば、戦わずして必ず勝つ」と考え、一時撤退します。

ナガスネヒコの軍は追ってきませんでしたが、神武の軍は草香の津に戻ると楯を立て並べ(楯津)、雄叫びを挙げてキアイを入れました。5月には茅渟(ちぬ)山城の水門へ至りますが、イツセの矢傷が悪化し、雄叫びを挙げて薨去しました。おおよそ古事記と同じです。

彼を葬った後、神武らはさらに南下し、6月下旬には名草(なぐさ)邑で名草戸畔(なぐさとべ)という者を誅殺しました。紀伊国名草郡、今の海南市の名草山のあたりを治めていた酋長で、名前からは女性のようです。

二兄入海

さらに狭野(さの)を越えて熊野神邑に至り、天磐盾(あまのいわたて、岩山)に登り、軍を率いて進みます。ヤマトへ「日へ向かう(西から東へ向かう)」ことなく攻め込むには、紀伊半島の南を回って伊勢かどこかから西へ行くほかありません。しかし山が海に迫っており、陸路で進むのは困難で、船に乗って行くしかない道も多くあります。

時に旧暦6月下旬、新暦7月で、南風の強い時期です。熊野灘を進むうち皇舟(神武の水軍)は暴風に遭って漂流しました。この時神武の兄のひとり稲飯(イナヒ)命は「ああ、わが祖は天神、母は海神だ。なぜ陸でも海でも厄をこうむるのか」と嘆き、剣を抜いて海に入りました。すると彼は(母方の本性である)サメに変化し、鋤持(サイモチ)神となりました。

また三毛入野(ミケイリノ)命は「我が母もおばも海神だ。なぜ波を起こして溺れさせようとするのか」といい、船から海の上に降り立ちました。すると彼は「波の穂(浪秀)を踏んで」常世郷へ立ち去ったといいます。

古事記ではイツセと神武だけが東征の記事に現れ、この二人は「母の国である海原へ入った」「波頭を踏んで常世国へ渡った」とありますが、東征の途中でそうなったとは書かれていません。普通に着いてきて海で溺死したのを婉曲的に表現したのでしょうか。

『新撰姓氏録』では右京皇別の「新良貴(しらき)氏」の条に「稲飯命は新羅国王の祖であり、この氏族はその子孫である」とあります。12世紀高麗の『三国史記』新羅本紀に「昔脱解は倭国の東北千里にある多婆那国から漂着した」とあり、13世紀の『三国遺事』に「脱解は龍城国から漂着した」とあります。史実とは思えませんが、そういう伝承が存在したのでしょう。三毛入野命は宮崎県の高千穂神社で祀られており、死んだのでも常世国へ去ったのでもなく「高千穂に戻ってきた」と伝えています。彼はこの地で鬼退治をし、その子孫が長く当社を守ってきたとされます。

三人の兄たちを失った(別れた)神武は、残った兵を率いて紀伊半島を南下します。その先には何が待つのでしょうか。

布都御魂

『古事記』によると、神武が熊野村に至った時に大きな熊が現れ、消え失せました。すると神武と兵士らは(熊の姿をした神の威力で)気絶し、倒れ伏してしまいます。この時、熊野の高倉下(タカクラジ)という人が一振りの横刀(太刀)を持ってきて神武に献じました。すると神武は気絶状態から回復し、太刀を受け取ります。(太刀の威力で)熊野山の荒ぶる神(熊)はおのずから切り倒され、その魔力で気絶していた兵士らも皆回復しました。

神武は当然、タカクラジにこの太刀について尋ねます。するとこう答えました。「私はこのような夢を見ました。天照大神と高木神がタケミカヅチ神に命じて『葦原中国はとても騒がしく、我が子孫が難儀している。お前が平定したはずだから、お前が天降れ』と言われますと、タケミカヅチ神は『私が行かなくても、この太刀を天降らせれば充分です。これはサジフツ神、ミカフツ神、またフツノミタマといいます。これをタカクラジの倉の屋根を穿って落としますから、彼が天津神の御子に献上するでしょう』。朝起きて倉を見ると、果たしてこの太刀がありましたので、ここに持ってきたのです」

これは後に石上神宮に奉納されました。日本書紀ではタケミカヅチの副将にフツヌシがおり、それと関わる名でしょう。また気絶から回復させたのは、「ミタマフリ(御魂振り)」というもので、剣や玉飾りをゆらゆらと振って邪気を祓い生気を活性化させるマジナイです。

『日本書紀』では上陸地を熊野荒坂津(丹敷浦)とし、皇子タギシミミと共にここに来て丹敷戸畔(ニシキトベ)なる女酋長を殺した以外は、ほぼ古事記と同じです。また神は熊の姿で現れず、毒気を直接吐いて来ます。

八咫烏

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また高木大神は神武を導くため、天から八咫烏(ヤタガラス)を遣わしました。日本書紀では頭八咫烏と書きます。脚が三本になったのは後にチャイナ神話で太陽の中にいるとされる三足烏(火烏・陽鴉)と結び付けられたためで、記紀にはそうとは書かれていません。

『新撰姓氏録』によると、これは賀茂建角身カモノタケツノミ)命という神が化身したものです。彼はカミムスビの孫で日向の襲国に天降り、大和の葛城山に来て神武を導いたというのですが、名からしてオオナムチの子である葛城鴨氏の一族に違いありません。どうも葛城鴨氏の一派が「天神の子・山城賀茂氏」として分けられたようです。日本書紀では八咫烏には(人間の)子孫がおり、葛野主殿県主に任じられたとあります。要は葛城鴨氏の人間が山道を案内した、ということなのでしょうか。

神武らは八咫烏の導きにより、熊野から北上して峻険たる山並みを越え、ヤマトの南の吉野に到達します。そこには吉野川で魚を捕る神、井(泉)を光らせて出てきた尻尾のある神、同じく尻尾があって岩を押し分けて出てきた神がおり、それぞれニエモツノコ、イヒカ、イワオシワクノコと名乗りました。どれも怪しい国津神ですが敵意はなく、神武に服属しました。

和歌山市から紀ノ川を遡れば楽にヤマトに着きますが、「日に向かって進軍する」というタブーに背きます。紀伊半島を回って熊野に上陸した神武らは北上して吉野に達し、南から宇陀に侵入しました。ここはヤマトの東です。西へ向かって大和川沿いに進めば、「日を背にして」ヤマトへ入ることができる、というわけです。いよいよ決戦の時です。

◆神武◆

◆英霊◆

【続く】

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