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【つの版】ウマと人類史:中世後期編07・帖木西征

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 1370年に中央アジアの西チャガタイ・ウルスの実権を握り、皇女を娶ってチンギス家の娘婿(キュレゲン)となったティムールは、東のモグーリスタンや西のホラズムなど周辺諸国と戦います。さらにトクタミシュを支援してジョチ・ウルスを再統一させ、自らはイラン高原への遠征を開始します。

◆勇者◆

◆魔王◆

南渡阿母

 最初の標的は、ヘラートを首都としてホラーサーン(現アフガニスタン)を支配するクルト朝です。建国者シャムスッディーンはヘラート付近の領主で、早くからモンゴル帝国に服属し、先行するゴール朝の後継者としてゴール朝のスルタンの娘を娶りました。またも娘婿です。傍系や別系の王が立つ時、先代の王朝の女性を娶って娘婿となることは歴史上広く行われます。

 その後もフレグ・ウルスの有力な封臣としてヘラート付近を統治し、フレグ・ウルスが崩壊すると自立して王位を称し、ホラーサーンの諸侯を糾合して勢力を広げます。さらにマーワラーアンナフルに侵攻して西チャガタイと戦いますが敗れ、臣従して貢納しています。ティムールにも臣従していましたが、1380年のクリルタイに君主が出席しなかったため、1381年に侵攻を受けます。ティムールは侵攻前に「抵抗しなければ生命と財産を保障する」と住民へ呼びかけ、ヘラートはさしたる抵抗もなく降伏しました。

 クルト朝の君主ギヤースッディーンはサマルカンドへ連行され、ティムールの子ミーラーン・シャーが15歳でホラーサーンの統治者に任命されます。しかし占領後にティムールは約束を違えて重税を課し、ヘラートの塔や城壁を破壊して抵抗力を弱め、宗教指導者(イマーム)や神学者(ウラマー)を多数連行したばかりか、ヘラートの装飾された門扉まで持ち帰ります。ムカついたヘラート市民は1383年に武装蜂起して徴税人を殺したため、ティムールとミーラーンの命令で虐殺され、旧王族も処刑されました。

 またティムールはヘラートの西方に進軍し、サブゼヴァールのサルバダール政権やトゥースを征服、南はスィースターンとカンダハールを攻略して、ホラーサーンを支配下におさめます。1384年にはカスピ海南部のマーザンダラーン地方を制圧し、イラクと西イランを治めるジャライル朝を撃破して、テヘラン北西の都市スルターニーヤ(ソルターニーイェ)を占領しました。ここでティムールは兵を返し、サマルカンドへ帰還して国内を整えます。

三年戦役

 1386年、ティムールは再びイラン遠征に出発し、スルターニーヤを経てアゼルバイジャン地方に入り、ジャライル朝の首都タブリーズを攻撃します。君主アフマドは戦わずして逃亡し、西のマムルーク朝へ亡命しました。ティムールはタブリーズとアゼルバイジャン地方を接収すると、学者・芸術家・職人などをサマルカンドへ送り、ヴァン湖北岸の黒羊朝などを破りつつダゲスタンやジョージアまで進軍、ティフリス(トビリシ)を包囲しました。

 この時ジョチ・ウルスのトクタミシュの軍勢がカフカースを超えてダゲスタンに現れ、ティムール軍と交戦しています。トクタミシュはすでにタブリーズを攻撃して掠奪していたともいい、南北は再び軍事的緊張状態に入りました。この時は勝敗がつかないうちにトクタミシュが撤退し、ティムールは兵糧と書簡を送って和解を求めましたが、両者の関係は悪化し始めます。

 1387年には息子ミーラーン・シャーとともにアルメニア高原に進出して白羊朝を服属させ、マラティヤやスィヴァスまで進出します。恐れをなした周辺の諸侯はマムルーク朝に支援を求め、マムルーク朝はシリア北部に兵を派遣して防がせました。ティムールはこれと戦わずアルメニアから去り、ザグロス山脈の山岳民を制圧しつつ、イラン南西部に割拠するムザッファル朝を攻撃、イスファハーンを占領します。占領後に市民が反乱を起こすと、ティムールは7万人もの市民を殺戮し、生首でピラミッドを作ったといいます。

 ムザッファル朝では1384年にシャー・シュジャーが逝去し、子のザイヌルアービディーンが即位していましたが、従兄弟のシャー・マンスールによって目を潰され、彼の傀儡となっていました。ティムールが首都シーラーズに迫るとマンスールは降伏し、ザイヌルアービディーンは廃位され、マンスールの兄ヤフヤーが王位につけられました。

 しかし同年、遠征の留守をついてトクタミシュが本国マーワラーアンナフルに侵攻します。モグーリスターンも呼応して攻め寄せ、ホラズムではスーフィー朝の君主スレイマンが反乱し、ホラーサーンでも貴族ハージー・ベクが反旗を翻します。留守役の王子ウマル・シャイフはトクタミシュ軍に苦戦を強いられ、サマルカンドとブハラが包囲されました。これを聞いたティムールは1388年2月に撤退し、故郷キシュへ駆けつけます。

 なお同年に名目的なチャガタイ・ウルスのハンであったソユルガトミシュが病没し、子のスルタン・マフムードが跡を継ぎました。父がカイドゥの曾孫ですからオゴデイ家の出自ですが、同年にはクビライ家も断絶してアリクブケ家の者がカアンを称していますし、まあいいでしょう。

応報復讐

 ティムール軍が戻ってくるとトクタミシュは撤退しますが、ホラズムとモグーリスターンは恨み骨髄に徹していますから意気盛んでした。ティムールはまずモグーリスターンへ遠征し、ハンを称するドゥグラト部のカマルッディーンを討伐します。ティムール軍はイリ川を渡ってモグーリスターンの首都アルマリク(イリ・カザフ自治州伊寧県)を攻撃し、逃げる敵を追ってトルファン付近にまで到達します。

 1390年頃、カマルッディーンはアルタイ山脈まで逃げ込んで行方不明となりました。そこでイリヤース・ホージャの弟ヒズル・ホージャがドゥグラト部のホダーイダード(カマルッディーンの甥)によりモグーリスターンのハンに擁立され、ティムールと講和します。なおヒズルは1391年に明朝へ使者を派遣し、朝貢するとともに支援を求めています。

 東方が鎮圧されると、ティムールは取って返して西のホラズムを攻撃します。ホラズム軍は撃破され、スレイマンはトクタミシュのもとへ亡命し、ウルゲンチは包囲された末に陥落します。裏切りを重ねたウルゲンチをティムールは許さず、街は徹底的に破壊されて更地にされ、大麦の種が蒔かれたといいますが、要衝であることからすぐに復興が命令されてもいます。

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 1391年1月、ティムールはトクタミシュを討伐すべく大軍を率いてタシュケントを出陣し、オトラルを経て広大なカザフ草原に進軍します。行軍の途上ジェスカズガンという地に碑文を建て、飢えと疲労に苦しみながら西へ向かい、ウラル(ヤイク)川を超え、6月にヴォルガ川の支流コンドゥルチャ川のほとりでトクタミシュと戦いました。騎馬遊牧民同士の草原での決戦の末、ティムール軍が大勝利をおさめ、トクタミシュは命からがら逃げ延びます。ティムールはジョチ裔トカ・テムル家のテムル・クトルクを新たなハンに任命し、トクタミシュの敵であったエディゲを後見人とします。

 エディゲはマンギト部の出自で、チンギス・カンの子孫ではないためハンとはなりませんでしたが、テムル・クトルクは彼の姉妹の娘、つまり甥にあたります。ジョチ・ウルス東部のハンであるオロスが1377年に逝去した後、その子トクタキヤが跡を継ぎますが在位三ヶ月で逝去し、遠縁のテムル・ベクが継いだもののトクタミシュに殺され、その子テムル・クトルクはエディゲとともにティムールのもとへ亡命していました。

五年戦役

 トクタミシュはサライに戻って再起を図りますが、ティムールはエディゲらに彼との戦いを任せ、自らは1392年から再びイランに進軍します。フレグ家断絶後の群雄割拠を終わらせるべく、ティムールは「チンギス・カンはチャガタイ家にイラン全土の支配権を委ねた」と勝手に宣言しています。彼が担ぐチャガタイ・ウルスのハンはオゴデイ家の出自ですが、ティムールの妃はチャガタイ家のカザン・ハンの娘ですからいいのでしょうか。

 名目はともあれ、ティムールは再びホラーサーンからマーザンダラーンに進み、ムザッファル朝への攻撃を再開します。1393年5月にはシーラーズ近郊でマンスール率いるムザッファル軍と激突し、頭部を二度斬りつけられましたが、駆けつけた兵士らに救出され、マンスールは殺されます。ティムール軍はシーラーズを占領してムザッファル朝を滅ぼし、続いてイラクのジャライル朝に服従を求めます。

 これが拒否されると、ティムールはジャライル朝の首都バグダードを攻撃し、ジャライル朝のスルタン・アフマドはエジプトのマムルーク朝へ亡命しました。マムルーク朝はティムール軍の捕虜や反ティムール派の亡命者を多く抱えており、ティムールは返還を要求しますが拒まれます。マムルーク朝は周辺の諸侯やジョチ・ウルスのトクタミシュに対ティムール同盟を呼びかけて対抗し、スルタン・バルクークはシリアに進み睨みを効かせました。

 バルクークはクリミア半島出身のチェルケス人で、マムルークとしてエジプトに売られ、政争を勝ち残ってスルタンに即位した人物です。

 周囲を敵に囲まれ、1394年に息子ウマル・シャイフもクルディスタンで戦死し、ティムールはイラクから撤退します。アゼルバイジャンにはミーラーン・シャーが駐屯して防衛を担いますが、バグダードはマムルーク朝などの支援を受けたアフマドによって奪還されました。さらに同年末にはトクタミシュがデルベントを越え、アゼルバイジャンに攻め寄せました。

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 1395年春、ティムールは北へ進んでトビリシからカフカース山脈を越え、カフカース北麓を流れてカスピ海に注ぐテレク川のほとりでトクタミシュ軍と激突しました。激戦の末にこれを打ち破ると、カスピ海沿いに進んでヴォルガ川河口部の都市アストラハンに侵攻、ヴォルガ川を遡ってジョチ・ウルスの首都サライを破壊しました。トクタミシュはドン川を渡ってルーシへ逃亡し、ウクライナを支配していたリトアニア大公国に助けを求めますが、ティムールとエディゲらはこれを追ってルーシに侵攻します。

 ティムールはトクタミシュの追跡をエディゲらに任せ、アゾフとデルベントを経て、1396年春にサマルカンドへ帰還しました。この大勝利によってジョチ・ウルスはティムールの同盟国となり、ティムールの覇権は中央アジアとイラン高原、アルメニア高原、キプチャク草原の大部分に及んだのです。時に彼は60歳、1370年にキュレゲンとなってから26年が経過していました。

 1397年にはモグーリスターンのヒズル・ホージャの子で人質となっていたシャムイ・ジャハーンを帰国させ、ヒズルと同盟を結びます。またヒズルの娘テュケルを新たな妃に迎え、孫のムハンマド・スルタンを統治者としてモグーリスターンに派遣します。これはモグーリスターンの東、カタイやモンゴルへの侵攻を計画していたものともいいますが、老ティムールの次なる遠征先は南方のインドでした。

◆いくつの街を◆

◆越えてゆくのだろう◆

【続く】

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