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【つの版】ユダヤの謎21・内戦勃発

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

預言者ムハンマドの死からたった12年で、カリフ(ムハンマドの代理人)を指導者とするアラブ・イスラムの軍勢は破竹の勢いで勝利を重ね、エジプトからシリア、イラク、西イランまで領土を拡大しました。644年11月に2代目カリフのウマルが暗殺され、ウスマーンが即位します。

◆Acid◆

◆Arab◆

大食遣使

ウスマーンは、クライシュ族の名家・ウマイヤ家の出身です。預言者ムハンマドの曾祖父ハーシムの兄弟にアブドゥルシャムスがおり、その子ウマイヤの曾孫がウスマーンですから、世代上はムハンマドよりひとつ下です。父アッファーンはマッカの豪商で、母のウルワはムハンマドの従姉妹でした。

彼は大金持ちの柔和な男で、ムハンマドやアブー・バクルの友人であり、最初期にイスラム教に帰依したひとりでした。ムハンマドの娘ルカイヤを娶り、615年には妻や信徒を連れてエチオピアへ亡命し、622年にはヤスリブへ移住しています。戦争よりも商売や交渉に長け、資金調達や外交能力でムハンマドを支えました。ただ家族には恵まれず、ルカイヤは男子を産んだものの早世し、彼女の妹ウンム・クルスームと再婚するも630年に死別しています。ルカイヤの遺児アブドゥッラーも626年に夭折しました。

アブー・バクルとウマルの治世中、ウスマーンは政治顧問としてマディーナに住んでいます。そして644年11月にウマルが暗殺されると、長老たちの推挙によって三代目カリフとなります。すでに70歳になっていました。

ウマルの訃報を聞いた諸部族は各地で反乱を起こします。東ローマ帝国では641年にヘラクレイオスが崩御したのち皇位継承争いが起き、孫のコンスタンス2世が擁立されました。東ローマは領土奪還を目指してシリアやエジプトへ艦隊を派遣し、アレクサンドリアを奪い返します。新カリフ・ウスマーンは、シリア総督で同じウマイヤ家のムアーウィヤに対処を委ねます。

ムアーウィヤはダマスカスを拠点として反撃し、東ローマの艦隊を撃退しました。646年にはエジプトから東ローマ軍が撤退し、647年にカルタゴをイスラム軍が攻撃、対立皇帝グレゴリオスを戦死させています。さらに649年にはムアーウィヤが艦隊を創設してキプロスを攻撃し、650年にはシリア沖合のアラドス島(アルワード島)を制圧しました。皇帝コンスタンスは自ら兵を率いてアルメニアへ遠征し、反乱を支援しますがうまくいかず、アルメニアとアゼルバイジャンはイスラムに征服されます。

イラン高原東部の制圧も進み、650年にはケルマーン、マクラーン、シースターン、ホラーサーンが平定されます。ペルシア皇帝ヤズデギルドは北方のメルブへ逃亡しますが、651年に現地の総督に殺害され、サーサーン朝ペルシア帝国は滅亡しました。皇子ペーローズらはパミール高原を抜けて唐へ亡命していますが、ウスマーンも使節を唐まで派遣しています。チャイナの文献では、イスラム帝国はなぜか「大食国」と記されました。

大食(アラブ)国はもと波斯(ペルシア)の西に在る。隋の大業年間(605-618)に、波斯の胡人がラクダを牧して摩地那(マディーナ)の山に入ったところ、にわかに獅子が現れて人間の言葉でこう告げた。「この山の西に3つの穴があり、多くの兵器(武器)がある。お前はこれを取れ。また黒い石に白い文字があり、読めば王位につくことができる」胡人はこの言葉に従って武器や石を手に入れ、亡命者を集めて反乱を起こした。彼らは恆曷水(中古音:ɦəŋ ɦɑt̚、アラビア語:al-Furāt、ユーフラテス川)を渡って商旅を劫奪し、勢力が段々盛んになり、波斯の西境に割拠し、自立して王となった。波斯・拂菻(東ローマ)は各々兵を遣わしてこれを討伐したが、皆敗れた。

唐の永徽2年(651年)、大食国は初めて使者を遣わし朝貢した。その王の姓は大食氏で、名を噉密莫末膩アミール・アル=ムウミニーン、「信徒たちの長」)という。自ら云うには、建国以来すでに(ヒジュラ暦で)34年が経過し、三主(ムハンマド、アブー・バクル、ウマル)を経たと。

その国の男児は色黒でヒゲが多く、鼻は大きく長くて婆羅門(インド人)に似ている。婦人は色白である。またその国には文字があり、ラクダや馬を産出する。諸国において大きく、兵刃は強く鋭利である。その俗は戦闘において勇ましく、好んで天神(アッラーフ)に仕える。土地は沙石が多くて農耕に向かず、ただラクダや馬の肉を食う。摩地那山は国の西南にあり、大海(紅海)に隣接していて、その王は穴の中の黒い石を移してそこに置いた(カアバ神殿の黒石に関する訛伝)。

多少誤伝もあるようですが、おおむね正確にイスラム帝国の様相を伝えています。この後もしばしばイスラム帝国は唐へ使者を派遣しました。高祖李淵が帝位についたのが618年ですから、両国はほぼ同時期に成立しています。アラブやペルシアやローマでは、東方の彼方にチャイナ(スィーン)という大国があることは古くから知られ、絹や鉄の産地として一目置かれました。

聖典編纂

征服事業が一息つくと、ウスマーンは内政に取り掛かります。まずムハンマド以来口伝であった聖典(啓典)『クルアーン』を文字化し、「正典」として編纂しました。それ以前にもいくつかクルアーンを書き留めたものは存在しましたが、地域や伝える者によって様々な差異があるのは問題で、後から都合の良いように変えられる場合もあります。これではユダヤ教徒やキリスト教徒に示しもつきませんし、ムハンマドの死から20年以上が経過して、当時のなまの啓示を覚えている者も少なくなりつつありました。

650年頃、ウスマーンはムハンマドの秘書であったザイド・イブン=サービトに命じ、クルアーンを一冊の書(ムスハフ)として編纂させ、それ以前・以外のクルアーンを書写したものを焼却させました。これを「ウスマーン版」といい、公定・標準のものとされ、書写に際して一字一句違えてはならないと定められます。クルアーンは本来「詠唱するもの・読誦するもの」ですから、文字によらず暗唱することが尊ばれますが、布教伝道や議論には文字化された聖典が存在した方がよいに決まっています。

クルアーンの他、預言者ムハンマドの言行録「ハディース」が第二聖典として尊重されます。こちらはあまりにも膨大なので誰も全容を把握できておらず、一応のハディース集が編纂されるのは遥か後になりました。ムハンマドが言及しなかった事柄については共同体が議論して臨機応変に決定します。

格差拡大

イスラム帝国の拡大により、多額の喜捨(ザカート、ムスリムが行うべき貧者への布施)や人頭税・地租・戦利品の一部が中央政府や地方総督に流れ込みました。ムハンマドとアブー・バクルが示した基本方針に従い、ウマルはこれらを公正に分配し、ペルシアや東ローマの行政官僚を採用して帝国を運営しました。金貨(ディナール)と銀貨(ディルハム)を発行し、聖遷(ヒジュラ)を紀元とする宗教暦(純粋太陰暦)を定めたのもウマルです。

ウスマーンはこの路線を引き継ぎますが、ペルシア帝国を征服しシリア・エジプトを領有した以上、多額の戦利品を得られそうな領域はほぼなくなりました。理論上は全人類を改宗させるまで聖戦(ジハード、努力)を続けることになりますが、現実問題としてこれ以上の征服戦争の継続は困難ですし、急激に拡大した帝国の無数の人民には内外平和を示して落ち着かせる必要があります。人口比からすればアラブは圧倒的少数で、大規模な反乱を起こされれば覇権を失いかねません。

なお、この頃にはゾロアスター教徒も「啓典の民」ということにされ、人頭税と地租を支払って服属すれば信仰の自由を保証されました。一応ザラスシュトラは唯一神っぽい神から天啓を受けた預言者ですし、広大なイラン高原を治めるには現実的な方法です。

彼は中央集権を推し進めるため、各地の総督にウマイヤ家の人物を任命します。シリア総督はウマル以来ムアーウィヤが勤め、東ローマ帝国と対峙していたからいいとして、エジプト総督には自らの乳兄弟イブン・アビー・サルフを任命しました。イラクを統治するクーファの総督には、645年にサアドに代えてウスマーンの異母兄弟アル=ワリード・イブン・ウクバを任命していましたが、彼は私腹を肥やし葡萄酒を好んだため嫌われ、650年に更迭されます。後任はサイード・イブン・アル=アースでしたが、彼もまたウマイヤ家の人物でした。ウマイヤ家による権力の独占は大きな反発を呼びます。

また、東ローマとの戦いで戦利品が見込めるシリアは税制上優遇されましたが、イラン高原の端まで征服し前線基地でなくなったイラク地方では不満が噴出します。兵士らは土地の配分を巡って部族間抗争を起こし、貧富の格差が急激に拡大しました。貧しい兵士らは戦利品も見込めず、僅かな俸給で生活せねばならなくなり、せっかく攻め取った土地を離れて前線基地エジプトへの移住をカリフから勧められます。しかもカリフは収入減少を理由にイラクの土地の税収入を中央政府へ回すよう指示したため、655年に暴動が起きてクーファ総督はまたも更迭されます。カリフ暗殺計画の噂も流れ、ムアーウィヤはシリアへの遷都を勧めますが、彼はマディーナにとどまります。

656年、バスラ・クーファ・エジプトの下級兵士らは連絡を取り合って武装蜂起し、マディーナへ攻め寄せました。ウスマーンは彼らの訴えを聞き入れて政務官や総督の更迭を約束し、兵士らは一旦引き上げますが、過激化した兵士ら数百人は戻ってきてウスマーンの退位を要求します。ウスマーンは各地の総督に救援を要請したものの、怒り狂った兵士らは彼の邸宅に突入し、80歳のウスマーンをめった切りにして殺害しました。イスラム史上初めて、カリフが同じイスラム教徒に殺害されたのです。

内戦勃発

最初に切りつけたのはアブー・バクルの息子だったともいいますから、これは貧富の格差だけが原因でなく、ウマイヤ家と他のクライシュ族(特にハーシム家)の権力闘争でもありました。主にウマイヤ家と対立していたのは、ウスマーンとカリフ位を争ったアリー、及びアブー・バクルの娘でムハンマドの妻であったアーイシャでしたが、この両者も対立関係にありました。

656年、マディーナで次のカリフを決める会議が行われ、いよいよアリーが推戴されます。年齢もすでに60歳近く、ムハンマドとの血縁も姻戚関係もあり(彼の妻ファーティマはムハンマドの実の娘で、632年に逝去していましたが2人の子がいました)、満場一致で決まるかと思われましたが、ズバイルやタルハらアブー・バクル派は忠誠の誓い(バイア)を拒みます。

アリーも一度は断りますが、ズバイルらは思い直して忠誠の誓いを行い、ようやくアリーが即位します。彼はウスマーンの暗殺に関与した全ての人間に恩赦を与え、多くのウマイヤ家出身の総督を更迭しました。前政権に恨みを持つ人間は大いに喜びますが、今度はウマイヤ家がアリーを憎むようになります。この頃アーイシャはマディーナではなくマッカに居住しており、反アリー派は彼女のもとに集まって来ました。

656年10月、アーイシャとズバイル、タルハらは反アリー派が多いバスラへ行き、「アリーはウスマーン暗殺の黒幕である」と喧伝して反旗を翻しました。イスラム史上始まって以来の、イスラム教徒同士による内戦が勃発したのです。アリーはやむなく反乱軍の討伐を呼びかけ、反ウスマーン派が多いクーファへ移動して兵を集めます。両軍はバスラ郊外で激突し、ズバイルとタルハは戦死、アーイシャは輿を載せたラクダを殺されて捕らえられます。アリーは彼女を叱責してマディーナへ送り、静かに余生を送らせました。

一方、シリア総督ムアーウィヤはアリーに従わず、「ウスマーン暗殺に対してアリーに報復すべし」とウマイヤ家・反アリー派に呼びかけます。交渉が決裂すると、アリーはイラクとヒジャーズの兵を率いて657年にクーファを立ち、ユーフラテス川沿いに北上してシリアへ攻め込みます。ムアーウィヤは東ローマと休戦条約を結ぶと、大軍を率いてダマスカスから北上し、アレッポ東方のユーフラテス川西岸、スィッフィーンの地に陣取りました。

両軍は激しく戦いましたが、次第にシリア軍が劣勢になり、ムアーウィヤは一計を案じて和平を呼びかけます。イラク軍は(ムアーウィヤによる根回しもあってか)これを受諾し、決着がつかないまま兵を引きました。この時、アリーの支持者の一部過激派は「敵と妥協するとは何事か!」と解釈違いを起こし、アリーにもムアーウィヤにも属さない独自の派閥を形成しました。これがハワーリジュ(離反)派です。

658年、クーファに戻ったアリーはハワーリジュ派と戦って打ち破りましたが、ムアーウィヤにとっては敵が分裂して内紛を起こしてくれたので大助かりです(彼の策略によるものでしょう)。660年、ムアーウィヤはエルサレムにおいてカリフ就任を宣言し、二人のカリフが並立する事態となります。661年、ハワーリジュ派は両方に刺客を送り込みますが、ムアーウィヤは辛くも暗殺を逃れ、アリーだけが暗殺されてしまいました。

ムアーウィヤはダマスカスをイスラム帝国の首都としますが、アリー派は当然従わず、アリーとファーティマの子でムハンマドの孫にあたるハサンをカリフに戴いて対立します。老練なムアーウィヤは根回しと軍事的圧力でアリー派を追い詰め、ハサンはやむなく彼に従い、マディーナに隠棲しました。

ハサンは669年に逝去し、弟フサインがアリー家の当主となりますが、ムアーウィヤはカリフ位を安定させるため世襲制を導入し、自らの息子ヤズィードを後継者に指名しました。内戦の火種はまだ消えていません。フサイン率いるアリー家はどう動くでしょうか。

◆Disposable◆

◆Heroes◆

【続く】

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