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【つの版】邪馬台国への旅21・狗奴國と張政

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

魏が高句麗や濊を討伐したり、馬韓で反乱が起きて帯方太守が戦死したり、数年間にいろいろ起きました。倭地はまあまあ平穏だったようですが、ついに事件が生じます。狗奴國が倭國連合と戦闘状態に入ったというのです。

◆闘◆

◆争◆

狗奴國

倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和。遣倭載斯烏越等詣郡、説相攻撃状。遣塞曹掾史張政等、因齎詔書・黄幢、拜假難升米、爲檄告諭之。
倭の女王卑彌呼と、狗奴國の男王卑彌弓呼(卑弓彌呼?)はもともと不和であった。倭は載斯烏越らを(帯方)郡に派遣して詣でさせ、(倭國と狗奴國が)相互に攻撃する状況を説明した。(帯方郡は)塞曹掾史の張政らを派遣して、因って詔書と黄幢をもたらし、難升米に授け、檄文を作って告諭させた。

これがいつのことかはっきりしませんが、「正始8年(247年)、帯方郡の太守に王頎が着任した」という記事の直後にありますから、この年にあったと考えてよいでしょう。邪馬臺國と狗奴國の位置や緊張関係の構造については以前説明したとおりです。一応おさらいしておきましょうか。

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邪馬臺(ヤマト)國から「遠絶旁國」20國(瀬戸内海沿岸や四国の諸国)を経て北部九州を覆う奴國に戻ると、「その南」に狗奴國があります。おそらくは日本書紀にいう「熊襲」です。……と以前はしましたが、しかし改めて考えてみるに、実は熊襲ではないかも知れません。

熊本県の由来は飽田郡の熊本城ですが、もとは本と書き、これも南北朝時代以前には見えないため古地名ではなく、熊襲とは無関係です。肥後国府は水前寺(詫間郡)や二本木(飽田郡)にあったようですから、少なくとも奈良時代以後には熊本市域が肥後国の中心地だったと思われますが。

クマソタケルがいたとされるのは熊県(くまのあがた)、のちの球磨郡ですが、人吉盆地からでは北部九州を脅かすには遠過ぎます。熊襲を球磨曽於として大隅半島の曽於郡とするとさらに遠過ぎます。そもそもクマソタケルの「ソ」は難升米の升のような「○○の」という意味だったかも知れず、それが転じて南九州の人々を漠然とクマソと呼んだ可能性もあります。第一、狗奴は「こな」「くぬ」などと読めても、「クマソ」とは読めません。

内藤湖南は狗古智卑狗を菊池彦に、狗奴國を菊池郡城野(きの)郷に比定しました。菊池市と山鹿市菊鹿町に木野という地名があり、菊池川の支流である木野川が南へ流れていて、すぐ近くに7世紀後半に建設された「鞠智(くくち)城」があります。この城はもちろん魏志倭人伝の頃にはありませんが、菊池川流域(菊鹿盆地)を抑えることが可能な要衝の地ではあったのでしょう。木野を「この」「くの」と読むことは一応可能です。ひょっとして城(き)ができたから城野というのでしょうか。

魏略逸文では狗智卑狗、太平御覧に引く魏志では狗智卑狗としますが、ただの誤記です。「河内彦」とする説もありますが、ヤマトと河内が対立していた形跡はなく、また帯方郡に支援を求めるのも遠すぎて無理です。

熊本県=肥後国を大きく分けると、西の熊本平野、東の阿蘇盆地、南の球磨地方、南西の八代海沿岸部に分けられます。このうち熊本平野は白川を境に南北に分けられ、南の宇土半島から八代平野あたりが4世紀後半以後の地方首長「火君(ひのきみ)/火国造(ひのくにのみやつこ)」の根拠地と思われます。有明海と八代海を繋ぐ位置にあり、実際中央部を為しています。

しかし弥生時代から古墳時代にかけて、熊本平野北部の菊池川流域(菊鹿盆地)にも強い勢力が存在しました。山鹿市の方保田東原遺跡は弥生時代後期から古墳時代前期に繁栄した県内最大級の集落遺跡で、推定範囲は約35ha。幅8mの大溝をはじめとする多数の溝や100を超える住居跡、土器や鉄器を製作したと考えられる遺構が見つかっています。また石包丁形鉄器や巴形銅器など数多くの青銅製品や鉄製品、山陰地方や近畿地方など西日本各地から持ち込まれた土器も出土しています。

また菊池郡大津町の西弥護免遺跡は二~四重の環濠を持つ3世紀の大環濠集落で、総数214軒にのぼる弥生終末期の住居跡があり、土壙墓群や住居跡群を囲む環濠の総延長は1km以上。さらに580点というこの時代として国内最多の鉄器出土数を誇ります。

ただし、これら県内最大級の遺跡ですら環濠内の住居跡は100や200で、面積も「1000戸のクニ」であった吉野ヶ里遺跡と同じ程度の規模でしかありません。考古学調査が進めばもっとでかい3世紀の遺跡が発掘されないとも限りませんが、中南九州を纏めるどころか熊本県内を纏めるほどの勢力でさえないのです。奴國の中枢であった那珂遺跡群(83ha)に比恵遺跡(65ha)、山王遺跡(15ha)を足して吉野ヶ里の4倍の164ha。纒向遺跡は300haです。

火君と思しき勢力が宇土・八代に現れるのは4世紀後半以後で、しかも古墳は畿内から広がった前方後円墳であり、出土品からも畿内のヤマト王権と強く繋がりがあります。やがて火国は現在の熊本県と長崎県、佐賀県を含む広大な領域となり、有明海を挟んで肥前国と肥後国になりますが、3世紀には松浦郡は末盧國で、卑彌呼を頂く倭國連合に参加しています。従って狗奴國は火国ではなく、また火国は邪馬臺國でもあり得ません。

日本書紀や『肥後国風土記』によると、ヤマト王権はのちの肥後国となる領域に三つの県(あがた)を置き、地元の豪族を県主(あがたぬし)に任命しました。南部には熊県、のちの球磨郡です。東部には閼宗(あそ)県、のちの阿蘇郡です。残る一つは八代県で、火君の領域にあたり、八代郡や宇土郡などを含むようです。また四つの国を置いて国造に治めさせましたが、各々阿蘇国、火国、葦北国(葦北郡)、天草国(天草郡)といいます。

では菊池川流域はというと、空白地であったか独立勢力がいたか、閼宗県や阿蘇国の一部であったか、ということになります。この地域に古墳群が出現するのは4世紀末から5世紀頃で、山鹿市の竜王山古墳、玉名市の山下古墳、岱明町の院塚古墳などは日置部君(ひおきべのきみ)一族の地とみなされます。日置(ひおき、へき)の地名は各地にあり、ヤマトが派遣した(あるいはヤマトに服属した)製鉄・土器生産集団だとも言われます。

"全国の装飾古墳の38.4%は熊本県、熊本県の65.6%は菊池川流域、つまり全国の装飾古墳の4分の1が菊池川流域にあり、その数は装飾古墳と装飾の横穴墓で122基になります。"

古墳時代にも結構繁栄した勢力が菊池川流域に存在したことは確かですが、ヤマト王権から完全に独立していたかというと微妙ですね。ともあれ、このあたりを3世紀の「狗奴國」と見なしてもよいでしょう。

中南九州を覆うほどの勢力でなくても、筑後川流域など各地の勢力と同盟したり、調略やゲリラ戦を挑んだりすれば、北の奴國を脅かすぐらいは可能です。奴國や伊都國が脅かされれば、緩い隣保同盟に毛が生えた程度でしかない「倭國」は、対外交易路が断ち切られ、倭國亂以前と同じく分裂・崩壊します。邪馬臺國にとっては存亡の危機に違いありません。

張政

倭國連合は相次ぐ狗奴國の攻勢に頭を悩ませ、帯方郡に支援を求めました。派遣された使者は難升米でも都市牛利でも伊聲耆掖邪狗でもなく、載斯烏越(上古音 *[m-ts]ˤəʔ-s *[s]e *[ʔ]ˤa *[ɢ]ʷat)という人物です。「さいしうえつ」と音読みはできますが、例によって載斯を「(伊)都つ」と解すれば「伊都の烏越」となります。烏越は個人名でしょうが何と読んだものでしょうか。

さて、帯方太守の王頎は困ったでしょう。ただでさえ太守死後の混乱した状況を引き継いだばかりでドタバタしているのに、係争中の馬韓や辰韓よりも彼方の、海の向こうの倭地にまで出兵できる余裕などありません。朝鮮半島を制圧した唐やモンゴルとはわけが違うのです。

しかし倭地の奥地で起きた紛争ならいざしらず、帯方郡との窓口である伊都國や奴國が南から脅かされていると言うではありませんか。また親魏倭王の金印紫綬を授けておいて、魏が危機に際して手を差し伸べなければ、反乱を鎮圧したばかりの近隣の韓や濊にも示しがつきません。長年辺境で異民族と接してきた軍人ですから、そうした現実的な状況はわかります。

となると、以前やったように詔書と黄幢を難升米へ授け、魏の威光を示しておいて自力で頑張ってくれるよう願うしかありません。では、詔書と黄幢は帯方郡にあるでしょうか。以前難升米に授けた黄幢は、馬韓との緊張状態が収まった時に返還させ、洛陽へ送ったはずです。魏の軍旗をずっと蛮夷に持たせておいたらどう悪用されるか知れません。詔書は期限切れです。中央政府の発行するものですから、洛陽へ借りに行かねばなりません

遣塞曹掾史張政等、因齎詔書・黄幢、拜假難升米、爲檄告諭之。

王頎は、部下である張政をどこからどこへ派遣したのでしょう。「帯方郡から倭國へ」ではなく、まず「帯方郡から洛陽へ」派遣し、事情を説明して詔書と黄幢を借りて来させるのです。証人として載斯烏越も同行して貰わないと困ります。さっそく張政と載斯烏越は役人や護衛を率い、急いで黄海を渡って山東半島に行き、急いで洛陽へ向かいます。

張政の役職名である塞曹掾史(さいそうえんし)とは何でしょう。(えん)は秦漢代に中央朝廷と地方官署内に設けられた事務処理機構「(そう)」の長官で、府主(本府の長官)自らが任命します。三公府の掾、刺史府の掾の秩禄は四百石あるいは三百石に達し得、この類の高級掾の任命は一つ上級の官署に報告し記録を保存する必要がありますが、それ以下は上申し記録を保存する必要もなく、すぐに任命できる下級の掾もおり、その秩禄は百石です。県の諸々の掾の秩禄は全て百石以下です。つまり「塞曹掾史」は「(砦、異民族と接する)」の「(事務処理機関)」の「(長官)」である「(役人)」をいい、辺境の下っ端中間管理職に過ぎません。

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例によって東莱郡(威海市)まで水行・海路450kmを8日とし、洛陽まで1日30kmで飛ばしても片道36日。火急のこととして駅伝を利用し早馬を送っても、直接洛陽へ行かずに役人が文書を伝達したとしても、片道半月はどうしてもかかります。魏からすれば魏の国境が脅かされているのではなく、海外で蛮夷同士が小競り合いしている程度ですから、「そっちでなんとかしろ」ぐらいは言えそうです。それでもどうにか借り受けて帯方郡に戻った頃には2ヶ月か3ヶ月は経っていたでしょう。自動車も飛行機もインターネットもない古代世界の速度の遅さをナメてはいけません。これでも速い方です。

倭國もぼやぼや救援を待っていたわけではなく、帯方郡の使者から喚び出しを受けた難升米(かその使者)が渡海して、帯方郡までやって来ます。載斯烏越と合流し、その場で張政から、もとい帯方太守の王頎から、うやうやしく詔書と黄幢を受け取ります。また「親魏倭王卑彌呼と率善中郎将難升米の側には、偉大なる魏の帯方郡が味方している。反乱をやめて服従せよ」といった告諭の檄文が作成され、これも難升米に授けられます。

倭國から救援要請の使者が帯方郡に送られたのが、南風を利用できる夏頃とします。それから洛陽へ行って戻って来るまで、どう急いでも数ヶ月。秋か冬の北風を利用して倭國へ戻り、詔書と黄幢と檄文が着くまで半年。張政は倭地へ渡ったかどうか記されませんが、一応監視や視察のために責任上伊都國ぐらいまでは行ったかも知れません。下っ端役人は大変です。

狗奴國の起こした騒動は奴國や伊都國を滅ぼすほどではなく(そんな力はありません)、騒動はなんとか鎮まったでしょう。考古学的にもこの時代に北部九州諸国が攻撃されて征服された形跡は見当たりません。狗奴國にしろ、対外交易で流れ込む鉄器や銅鏡などの威信財がなければ、国王の権威を示し難いのはまだ他の国々と同じです。交易品を調整して融通するから、とか折衝が進められ、まあまあ納得のいく形で収まったと思います。

とはいえ、邪馬臺國の卑彌呼ではなく魏の天子と帯方郡の権威を頼ったこの外交は、倭地に動揺を及ぼさないではいられません。北部九州ばかりか倭國連合に属する多くの国々にこの情報が伝われば、倭地の紛争を海外の大国に頼らざるを得ない状況、頼ってしまった現実に驚くでしょう。卑彌呼や一大率、伊都國王や奴國の株価も下がります。勢い、魏との強いパイプを持つ難升米ら海外帰りの連中が人望を集めても不思議はありません。邪馬臺國との連合・同盟を継続するかどうかでも議論があったでしょう。連合からの独立論者も、連合存続を主張する論者もいたはずです。EUめいていますね。

しかし、張政の仕事はこれで終わりではありませんでした。邪馬臺國で親魏倭王卑彌呼が死んだというのです。

◆彼女は◆

◆死んだ◆

【続く】

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