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【つの版】日本建国01・天武天皇

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。第三部「倭国から日本へ」は壬申の乱で一区切りとし、今回から第四部「日本建国」とします。

新たにインデックスを作りました。

672年6月末から7月末にかけて、倭国は近江京の大友皇子と不破宮・倭京の大海人皇子の両派に分かれて争いましたが、大海人皇子が勝利を収めて皇位につきました。天武天皇です。

◆天◆

◆皇◆

浄御原宮

天武元年壬申(672年)9月12日、倭京(飛鳥)の嶋宮に入った天武天皇は、15日に父母が宮居した岡本宮に遷り、その南に新たな宮を造営し、飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)と名付けて冬に遷ります。あるいはこの時はまだ名付けられず、晩年の686年に初めて名付けたともいいます。

浄御原とは地名ではなく雅称で、斉明天皇の板蓋宮とほぼ同じ場所に営まれたことが考古学調査で判明しています。要するに倭京と呼ばれた飛鳥の一帯であり、近江や難波ではなく推古天皇以来倭国の首都圏であった飛鳥に都を置いた(戻した)わけです。歴代朝廷が宮殿や寺院、防衛施設、街道や運河などのインフラを整備しているため、新たに作る必要もありません。

11月24日、新羅の使者・金押実を筑紫で饗応させました。新羅はまだ唐に反乱しており、高句麗王を称する安勝(安舜)を勝手に匿っていますが、天武天皇は唐から距離を置くため親新羅外交に転じたようで、12月15日には船1艘を与えて帰国させています。

天武2年(673年)2月、天武天皇は飛鳥浄御原宮で即位式を挙げ、天智天皇の娘である菟野皇女を皇后としました。6月、耽羅と新羅はそれぞれ使者を遣わして即位を祝賀しましたが、8月に新羅は先皇(大友皇子)を弔う使者と、高句麗(安勝政権)の使者を連れてきました。天皇は耽羅の使者と王に冠位を与えて筑紫から帰国させ、新羅の使者のうち祝賀使の金承元ら27名のみを都へ召します。彼らは9月に難波で饗応され、11月に帰国しました。残った使者たちは筑紫で饗応されます。これは「大友皇子の弔問は不要」というメッセージであり、耽羅・高句麗・新羅の間に序列をつけたものです。

唐帝天皇

この頃、唐は新羅との戦いに明け暮れています。『旧唐書』『新唐書』『三国史記』などによると、咸亨3年(672年)冬に唐の安東都護の高侃が新羅軍を大敗させました。4年(673年)閏5月には李謹行が高句麗の反乱軍を撃破し、平壌を奪還します。5年(674年)には新羅王から鶏林道大総管の官位を剥奪して劉仁軌に与え、彼に命じて新羅を討伐させ、また唐にいた王弟の金仁問を新羅王としました。

この年の8月、高宗は先祖を追尊して諡号を奉り、また皇帝を「天皇」、皇后を「天后」と呼び替えることにしました。当時の皇后は例の武則天ですから、これは皇后の権威を皇帝と並ぶほど高めようという武則天の企みです。

『史記』秦始皇本紀によると、秦王政は六国を併合して天下にただひとりの王となり、特別な称号が欲しくなりました。群臣に協議させると、「上古に天下を治めたのは五帝ですが、陛下の大業は五帝も及びません。また古には天皇・地皇・泰皇があり、泰皇が最も貴いといいます。王の号を『泰皇』とされてはどうでしょうか」と上奏しました。秦王は「泰皇から泰を除き、上古の帝位の号を採って『皇帝』としよう」と決めたといいます。

商の甲骨文や周の金文では、各地の都市国家(國邑)の統治者は主・尹・君・后・司・侯・伯・公などと呼ばれました。「王」はそのひとつで、儀礼用の大型の斧鉞(まさかり)の頭を指す象形文字です。小さな儀礼用斧鉞は士、実用の手斧は斤、斤を持つ指導者が父(ふ)、父が持つ斤が斧です。「皇」は王(斧鉞)の上に玉飾りを載せて煌々と輝かせる様をいい、もとは王を尊んで呼ぶに過ぎません。周や秦の金文にも「皇天尹大保」「丕顕朕皇祖(おおいにあきらかなる、わがかがやかしきみおや)」などとあります。

一方「帝」は本来は君主号ではなく、供物を捧げるための机(祭壇)である「示」を並べて帯で締め付け、大きくしたものを言います。これで祭る強大な神祇を「帝」といい、神々の長である上帝(天帝)、四方を司る四帝、王室の祖霊である帝などがいました。後期の殷の君主は「帝」と称することもあったようですが、周は天帝は祀ったものの君主号は「王」とし、諸王の王として大王・天王とも称しました。天は本来「大」の意で、天子は太子(嫡男)のことであり、天が上天を指すようになったのは後のことです。

春秋・戦国時代には次第に上古の帝王が諸氏族の始祖として加上され、神話上の始祖である五帝(五行説による)や三皇(三才説による)が創られました。メンバーには諸説ありますが、三皇は原始人めいた有巣(初めて巣を造った)や燧人(火を造り出して料理を始めた)を除けば、人首蛇身の伏羲や女媧、牛頭人身の神農など明らかに人間ではなく、神々に他なりません。黄帝は三皇の最後とも五帝の最初ともいい、多くの氏族や蛮夷は彼か炎帝神農氏に遡るとされました。また伏羲より何十代も遡った架空の帝王系譜が存在したことが戦国時代の竹簡史料に記されており、天皇・地皇・人皇(泰皇)は「上三皇」としてその最初に位置づけられました。

さらに天地開闢の神として盤古が加わったり、道教で天皇を天皇大帝・昊天上帝として天帝としたり、太上老君や元始天尊が加わったりブッダや弥勒を組み込んだりいろいろありましたが、ここでは要するに唐の天子が「皇帝」を「天皇」と呼び替えただけです。五胡十六国時代に石勒などが「天王」と号することもありましたが、君主号としての「天皇」はこれが初出です。のちに高宗が崩御すると「天皇大聖大弘孝皇帝」の諡号が奉られました。

話を戻すと、高宗は咸亨5年(674年)を改めて上元元年とします。上元は道教で言う三元(天地水)の第一で、これも天皇号に結び付けられます。さらに百官の服飾を変更しますが、こうした政策は建国以来の重臣を排除して実権を握る「天后」武則天とその取り巻きによるものでした。12月に天后は意見12条を奏上し、王侯百官に『老子』を習わせ、『孝経』『論語』を科挙の試験に出題させたといいます。

新羅統韓

上元2年(675年)2月、劉仁軌は新羅の兵を七重城で撃破し、新羅王金法敏は使者を遣わして朝貢し、謝罪しました。唐朝は法敏の罪を赦して官爵を戻し、新羅の反乱は一応鎮まります。新羅は安勝(安舜)を高句麗王から改めて報徳国王とし、高句麗の遺民を治めさせました。百済・高句麗を亡ぼし新羅を服属させたことで、天后はますます増長し、天皇(高宗)が病気で政務を取れないとして政治全般を牛耳りました。

上元3年(676年)2月、唐は熊津都督府を泗沘から引き上げ、建安故城(遼寧省営口市)に移転します。また安東都護府も平壌から遼東城(遼陽市)に移転され(翌年には新城=撫順へ移転)、熊津都督府は安東都護府管轄下の安州都督府と統合されます。かくして新羅は漢城・平壌を含む朝鮮半島の大部分を統一しました。同年11月に唐は儀鳳と改元しています。

儀鳳2年(677年)、唐は元高句麗王高藏(宝蔵王)を「朝鮮王」に冊立し、開府儀同三司・遼東都督に任じて安東都護府へ行かせ、唐側の高句麗遺民を治めさせることにしました。唐は新羅王を冊立する一方で征討を計画していましたが、儀鳳3年(678年)に吐蕃を攻撃して大敗を喫し、新羅征討を諦めざるを得ませんでした。これに乗じた高藏は、高句麗遺民を集めるにとどまらず、密かに靺鞨と通じて反乱を計画します。

開耀元年(681年)にこの計画が発覚し、高藏は召還されて邛州(四川省成都市)へ流刑となりました。高句麗の遺民のうち貧しい者は安東城の傍らへ遷され、一部は河南・隴右(甘粛)の諸州へ遷されました。同年には新羅王金法敏(文武王)が薨去し、子の政明(神文王)が跡を継いでいます。彼は684年に報徳国を取り潰し、高句麗は名実ともに滅びました。

この間、天武天皇は内政を固め、新羅を支援して使者を往来させています。新羅の敵対国である唐へ使者を派遣した様子もありません。超大国である唐は先進文明国ですが、半島にいつまでも居座られると面倒な相手で、筑紫に2000人で駐留した郭務悰のようにいつ脅しをかけて来るかわかりません。

その点、新羅は少なくとも唐よりは弱く、倭国を敵に回せば唐と手を組んで挟み撃ちにされかねませんから、機嫌をとって「朝貢」してくるはずです。皇位を武力で簒奪した天武にとっては、政権安定・権威確立が一番で、海外のゴタゴタに巻き込まれる気もありません。新羅は唐から倭国を守る障壁(外藩)となってくれる、というわけです。耽羅も同じですがもっと格下の属国扱いで、王に倭国の冠位を授け、王や王子を来朝させています。

吉野盟約

天武8年(679年)5月、天皇は皇后及び皇子ら(草壁大津高市河嶋忍壁芝基)を連れて吉野宮へ行幸します。そして「お前たちと盟約し、千年の後まで皇位継承の争いを起こさないように誓おう」と告げました。皇子らは承諾し、まず皇后の産んだ長子である草壁が進み出て「天神地祇と天皇よ。我らは母が同じでも異なっても、天皇のお言葉に従って助け合い、決して争いは致しません」と誓います。他の5皇子も各々誓いを立てます。天皇と皇后も誓いを立て、誓いを破れば我が身が滅びるようにと言いました。

まことに美談のようですが、天武らは吉野宮から東国へ向かって壬申の乱を起こし、皇后の異母兄たる大友皇子を亡ぼして皇位を簒奪したのですから、後継者らに同じ轍を踏ませたくなかったのでしょう。また6人の皇子のうち皇后の子は17歳の草壁だけで、長男の高市は側室の子ながら25歳と最年長ですし、次男の河嶋は22歳、三男の大津は天智天皇の娘・大田皇女の遺児で16歳です。子沢山なのはいいとしても、どう見ても皇位継承争いが起きるフラグが立ち過ぎています。天武天皇は大臣を置かず、皇子らを政権の中枢に据える「皇親政治」を行ったといいますが、それも一枚岩ではありません。

不安を覆い隠すように、諸国から瑞兆を示す動植物が次々と贈られますが、地震や災異も頻発しています。また壬申の乱の時の功臣たちも相次いで逝去して行きました。

律令と国史

天武10年(681年)2月、天皇と皇后は皇族・群臣を集め「律令を定め、法式を改める。各々で分担して行え」と勅命を降します。いわゆる「飛鳥浄御原令」ですが、発布は天武の崩御後で、それも律は未完成でした。最終的に律令が完成するのは701年の大宝律令です。また草壁皇子を皇太子に立て、一切の政務に預からせました。3月には河嶋皇子らに命じて帝紀及び上古の諸事を記して校訂させました。国史編纂の開始です。これも天武天皇の在世時には完成せず、720年の『日本書紀』完成まで40年間かかりました。

律令制定も国史編纂も、重大な国家事業です。特に国史は現政権の正統性や権威を内外に喧伝し、諸氏族を統合してナショナル・アイデンティティを与えるイマジネーションの源です。呉の太伯の子孫だとか、漢魏晋に朝貢したとか金印紫綬を下賜されたとか、劉宋に朝貢して冊立されたとか、チャイナに権威の起源を求めるわけには行きません。蛮夷の属国扱いしている新羅や百済、高句麗などとも無関係でなければなりません。となると「天から君主の始祖が降臨した」という形が一番です。この「天」は地上のどこかではなくて、大空の彼方、雲の上の神々の世界でなければ意味がありません。

君主は天から降臨した神の子、すなわち「天子」となります。チャイナだけでなく高句麗や匈奴、吐蕃などにも同様の天子降臨神話やその変形があります。地上の女性が天からのなんか(光や卵など)で処女懐胎するというパターンも、ジーザスばかりでなく世界中に枚挙に暇がありません。しかし『隋書』では倭王を「天を兄とし日を弟とする」としており、天や日を皇祖神とみなしていません。そのような始祖神話がまだなかったのです。

国史編纂事業は、おそらく雄略天皇の頃には始められたでしょう。推古天皇の頃には『天皇記』『国記』などが編纂されたといいます。それ以前にも口伝や断片的な史書はあったはずですし、チャイナやコリアの史書も参考にされます。唐の太宗・高宗の頃には史書編纂が盛んに行われ、『晋書』や『梁書』『陳書』『北斉書』『周書』『隋書』が次々と完成し、さらに北魏から隋末に至る『北史』、劉宋から陳末に至る『南史』が作られました。当然、唐と太宗に都合が良いように先行史料を取捨選択し、多大な文飾を施してあります。新羅や倭国の史書もそのようにして編纂されたはずです。

なお『古事記』序文によると、天武天皇の舎人である稗田阿礼が28歳の時、勅命を受けて「帝皇日継及び先代旧辞」を誦習しました。阿礼はその後に太安万侶にこれを伝え、元明天皇の和銅5年(712年)に『古事記』が編纂されたとします。誦習とは暗誦ではなく文字資料の読み方に習熟することです。当時は漢字しか文字がないため、倭語は多様な当て字によって綴られ、それをどう発音するかを稗田阿礼が習ったことをいうのでしょう。しかし太安万侶はともかく稗田阿礼は実在が疑わしく、『古事記』も『日本書紀』よりは成立が古いかも知れませんが、江戸時代まであまり読まれて来なかったマイナーな史書でした。正統な正史としては『日本書紀』が最初なのです。

そして「日本」という国号も「天皇」という君主号も、おそらくは天武の時代に公的に採用されました。これらについては次回考えるとしましょう。

◆天◆

◆皇◆

【続く】

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