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【つの版】ウマと人類史:中世後期編10・韃靼瓦剌

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 1402年、明朝の燕王・朱棣は、甥である建文帝を倒して帝位を簒奪し、改元して永楽としました。これが永楽帝です。彼は帝都を応天府(南京)から自らの拠点である北平(北京)へ遷し、大都に都を置いたクビライを真似るように帝国を拡大していきます。

◆瓦◆

◆剌◆

四部瓦剌

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 この頃、モンゴル高原はどうなっていたのでしょうか。1388年にクビライ家のカアン/ハーンであるトグス・テムルがアリクブケ家のイェスデルに殺され、イェスデルはモンゴル帝国のカアンに即位します。

 とはいえ、かつての世界帝国もすっかり没落していました。高原東方の三王家や多くのモンゴル人は明朝に降り、ウリャンカイ部を盟主とする新たな部族集団に再編成されています。そこでイェスデルらアリクブケ家は、西方の有力部族連合であったオイラトを頼りました。

 オイラトはチンギス・カン以前からモンゴル高原北西部、バイカル湖の西からアンガラ川・エニセイ川上流域に割拠していたテュルク系の部族集団です。1208年、その族長クドカ・ベキがチンギス・カンに降伏すると、チンギスは自らの娘チチェゲンをクドカ・ベキの息子トレルチに娶らせて娘婿(キュレゲン)としました。これによりオイラトはコンギラトと並ぶチンギス家の姻族となり、代々チンギス家の妃や娘婿を出しています。

 トレルチの兄イナルチはジョチの娘コルイを娶り、トレルチの妹オグルトトミシュはトゥルイの息子モンケに嫁ぎました。フレグやバトゥ、アリクブケ、チャガタイの嫡孫カラ・フレグの妃はトレルチの娘たちです。トレルチの息子らはフレグの西征に従い、その子孫はフレグ・ウルスで栄えました。しかしクビライ家は東方のコンギラト部を姻族とし、アリクブケ家を弾圧したため、姻族のオイラト部はともどもに衰退していきました。アリクブケ家のイェスデルがカアンになると、オイラトはこれを支援したわけです。

 この頃のオイラトは四つの部族から成る連合体で、もとのオイラト部に加えてバイカル湖周辺のバルグト部(ブリヤート)、アルタイ山脈付近のオーロト部(旧ナイマン部)、ヘンティー山脈付近のケレヌート部(旧ケレイト部)から構成されていました。モンゴル帝国に服属した後もこれらの有力部族は解体せず、新たな部族連合を形成したのです。この部族連合を「ドルベン・オイラト(四オイラト)」と呼びます。

蒙古混乱

 オイラトの傀儡となったイェスデルは1391年頃に在位4年で崩御します。息子エンケが即位しますが、これも4年で崩御し、弟のエルベクが跡を継いで6年間在位しました。1399年にはクン・テムルが擁立され、1402年に彼が亡くなるとオルク・テムルが擁立されました。オイラトも全体を統一する首長がおらず、各地の有力者がしのぎを削る乱世だったようです。

『明史』太祖本紀22年(1389年)条に「是年、元の也速迭兒イェスデルが其主の脱古思帖木兒トグス・テムルを弑し、而して坤帖木兒クン・テムルが立った」とあります。また韃靼列伝には「脱古思帖木兒の死後、部帥は紛乱し、五伝(イェスデル、エンケ、エルベクで三人ですが)して坤帖木兒に至る。みな弑され、また帝号を知らず。鬼力赤オルク・テムルが簒立すると可汗を称し、国号を去る。遂に称して韃靼タタルと云う」とあります。実際は国号を捨ててなどおらず、モンゴル帝国が滅亡したわけでもありません。明朝の公式見解はそうなっているだけです。

 エンケとエルベクは漢文史料になく、モンゴル語やペルシア語の史料にのみ名が見えます。1425年にティムール朝で編纂された『ザファル・ナーマ』に彼らの名があり、17世紀前半に編纂された著者不明の『黄金史綱(アルタン・トプチ)』には「ウスハル・ハーン(トグス・テムル)は龍の年(1388年戊辰)、ジョリクト・ハーン(イェスデル)は羊の年(1391年辛未)、エンケ・ハーンは犬の年(1394年甲戌)に亡くなった」とあります。
 しかし1662年に編纂された『蒙古源流』では「ウスハル・ハーンが龍の年に亡くなった後、『その息子』エンケ・ジョリクト・ハーンが蛇の年(1389年己巳)に即位した。彼は豚の年(1359年己亥)に生まれ、猿の年(1392年壬申)に亡くなり、エルベク・ニグレスクイ・ハーンが即位した」とあり、イェスデルとエンケが混同されています。さらに1725年に編纂された『恒河の流れ』ではエンケ・エルベクという一人物になっています。

 また『黄金史綱アルタン・トプチ』や『蒙古源流』によると、エルベクはオイラトのゴーハイ太尉に唆され、弟ハルグチュクを殺してその妻オルジェイトを娶りました。これを恨んだオルジェイトは「ゴーハイに乱暴された」と偽ってエルベクを怒らせ、ゴーハイを殺させます。バトラは怒ってオイラトの有力者オゲチ・ハシハと手を結び、反乱を起こしてエルベクを殺したといいます。またバトラとオゲチ・ハシハは兄弟で、バトラはエルベクの娘サムルを娶っており、オゲチ・ハシハに(あるいは彼の子エセクに)殺されたとか、オルジェイトはハルグチュクの子を産んだとか、定かならぬ話が多数伝わっています。これらの事情を整理し、推察するとこうなります。

 オイラト部族連合のうち、東のケレヌート部はオゲチ・ハシハが、西のオーロト部はゴーハイが率いていました。昔のケレイトとナイマンです。エルベクを担いでいたのはゴーハイでしたが、エルベクは彼と対立して殺してしまいます。ゴーハイの子バトラはオゲチ・ハシハと手を結んでエルベクを殺し、オゲチ・ハシハはクン・テムルを擁立したのです。モンゴルの年代記では、エルベク・ハーンは兎の年(1399年乙卯)に、クン・テムルは馬の年(1402年壬午)に死んだとあります。ちょうど明朝で靖難の変が起きていた頃です。モンゴルやオイラトも分裂抗争していたため、明朝や燕王は背後を突かれずに済んだわけで、これも天命です。なおエルベクが殺された時、その子ブンヤシリは父と対立してティムール朝に亡命しており無事でした。

『明太宗実録』によると、1400年に燕王は「韃靼可汗の坤帖木児クン・テムル」と「瓦剌オイラト王の猛哥帖木児モンケ・テムル」に使者を派遣しています。状況的に猛哥帖木児とはオイラト部族連合の覇者となったオゲチ・ハシハの王号と思われます。しかし靖難の変が終わった1402年、クン・テムルは死に、オゲチ・ハシハも記録から消えます。ゴーハイの子バトラに殺されたようですが、次に立ったオルク・テムルはバトラが擁立したわけではなく、アリクブケ家でもクビライ家でもありませんでした。

韃靼可汗

 永楽元年/1403年、永楽帝は「韃靼可汗の鬼力赤」に使者を派遣し、友好関係を結びました。これがオルク・テムル・カアンで、鬼力赤というのは即位前の名でしょう。この時に永楽帝から下賜品を授かった者は、他に太師右丞相の馬児哈咱マルハザ、太傅左丞相の也孫台イェスンテイ、太保枢密知院の阿魯台アルクタイです。

 各種史料から推察するに、彼らは反オイラト派です。オイラトの覇者オゲチ・ハシハと傀儡カアンのクン・テムルが殺された時、彼らはオゴデイ家の男子と思われるオルク・テムルを擁立して新たなカアンとし、モンゴル高原東方に反オイラト派の連合政権を建てました。これがモンゴルの年代記にいう「ドチン(四十)モンゴル」ですが、クビライ家でもアリクブケ家でもないため正統性に疑問が持たれ(オゴデイはカアンでしたが)、明朝は元朝の後継者ではなく韃靼だとしたのでしょう。

 このうちアルクタイはモンゴル人でもオイラトでもなく、元朝に仕えていたアスト(オセット)人です。クビライはキプチャクとアストを親衛隊としましたから、クビライ家のトグス・テムルに仕えていたようです。マルハザもクビライ家派でしたが、イェスンテイはオゴデイ家派でした。四オイラトも派閥争いがあったものの、四十モンゴルは反オイラトで集まっただけの寄り合い所帯で、内部分裂の危険性はより大きかったでしょう。

 同年4月、永楽帝はオイラトにも使者を派遣し友好関係を結んでいます。この時オイラトには馬哈木・太平・把禿孛羅という三人の有力者がいたと『明太宗実録』に記されていますが、このうち馬哈木はゴーハイの子バトラのことらしく、イスラム教に帰依したのかマフムードの名で呼ばれました。すなわちオーロト部の長です。太平とはモンゴルの記録にある「オゲチ・ハシハの子エセク」のことで、モンゴル語エセクを漢訳すると「太平」となるので漢名です。すなわちケレヌート部の長で、当然マフムードとは敵です。把禿孛羅とはモンゴルの記録にいうオイラト部/ホイト部の長バト・ボラドのことです。このうちマフムードが最も有力でしたが、自らがカアンとはならず、カアンを擁立することもまだしていませんでした。他の族長と勢力が拮抗しており、にらみ合いが続いていたのでしょう。

 明朝による国際的承認を得たオルク・テムルは、モンゴル高原を統一すべく勢いに乗ってオイラトを攻撃します。しかしマフムードはこれを撃破して撤退させ、翌年の侵攻も跳ね返します。相次ぐ敗戦によりオルク・テムルらの権威は失墜し、ジリ貧になって内ゲバを始める始末で、明朝に助けを求めようにも永楽帝は国内を統一したばかりで余裕がありません。1404年にティムールのもとへ「キタイ皇帝」から使者があったというのは、永楽帝ではなくオルク・テムルからの使者であったとも言われます。

 周囲を見回せば、東方のモンゴル諸族は明朝に服属していますし、西方のティムールやモグーリスターン、ジョチ・ウルスも「モンゴル皇帝」に従おうとしません。オルク・テムルは活路を開くべく明朝に服属していた西域のハミ国を攻め、君主を毒殺します。これで明朝もモグーリスターンも敵に回してしまい、モンゴルからは内紛の末に明朝へ降る者も出る始末でした。

 1405年にティムールが逝去し、後継者争いが始まると、彼のもとにいたブンヤシリ(エルベクの子)はビシュバリクに走ってオルジェイ・テムル・カアンを称します。1408年、アルクタイは主君オルク・テムルを弑殺し、オルジェイ・テムルをモンゴル高原に迎え入れました。

 彼はアリクブケ家の皇帝ですがオイラトとは対立し、1409年には明朝の使者をも殺害します。永楽帝はオイラトの首領らに王位を授けてオルジェイ・テムルを討伐させ、将軍の丘福に10万の大軍を授けて遠征させます。オルジェイ・テムルとアルクタイは両軍に攻撃されて敗北しますが、丘福は深追いしたため反撃に遭って戦死します。メンツを潰された永楽帝は、ついに自ら50万と称する大軍を率い、「韃靼」討伐を開始しました。

◆向◆

◆前◆

【続く】

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