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【つの版】倭国から日本へ10・用明と崇峻

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

577年には北周が北斉を滅ぼし、華北と蜀を統一しています。しかし北周は581年にに禅譲して滅亡します。また新羅では576年に真興王が薨去し、真智王、ついで真平王が即位しました。倭国では585年から蘇我氏と物部氏の争いが激しくなり、天皇(大王)を巻き込んだ闘争へと発展していきます。

◆CORONA◆

◆FUCK◆

日本書紀巻第廿 渟中倉太珠敷天皇 敏達天皇
http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_20.html

ブッダの祟り

敏達13年(584年)9月、百済から弥勒菩薩の石像などの仏像2体がもたらされ、蘇我馬子が自宅の東に仏殿を設けて祀りました。馬子は鞍作村主司馬達等、池辺直水田らを四方に遣わして僧侶を求めさせ、還俗した高句麗人の恵便を仏法の師として三人の女性を出家させ尼としました。尼たちが仏像にお斎を差し上げて祀ると、その上に仏舎利が出現して奇瑞を現したので、馬子らは深く仏法を崇めました。仏教と鬼道が混ざっている感じですね。

敏達14年(585年)2月、馬子は大野丘に仏塔を立てて仏舎利を納め、法会を催しましたが、まもなく病気になりました。亀卜を司る卜部に占わせると「父の時に祀った(棄てた)ブッダの祟りである」と言われたので、馬子は必死に仏像を礼拝し寿命を伸ばして下さいと祈願しました。しかし、国内に疫病が流行し、多くの民が死亡しました。

3月、物部守屋と中臣勝海(鎌子の子)らは上奏して「これは蘇我氏が仏法を広めたせいです」といい、天皇も恐れて「今すぐ仏法をやめよ」と勅命を下します。守屋は自ら蘇我氏の寺へ赴き、仏塔を破壊して火をつけ、仏殿も仏像も焼き払い、焼け残った仏像を難波の堀江へ棄てました。さらに馬子や尼たちを叱責侮辱し、尼たちを鞭打ちの刑に処します。

ところが疫病の流行はやまず、天皇も守屋も痘瘡(天然痘)に罹り、国中に高熱で苦しみながら死ぬ者が満ち溢れます。人々は「これは仏像を焼いた罰だ」と言い合いました。結局「馬子だけで拝んで布教しなければよい」ということになり、三人の尼も返されたので、馬子は新たに寺を作り、仏像を回収して再び祀ったといいます。ブッダは恐ろしい祟り神です。

天然痘は高い感染力と致死率(20-50%)を持つウイルス性の疫病で、飛沫や接触で感染し、高熱と激痛、全身の膿疱による呼吸困難をもたらします。18世紀末にジェンナーが種痘法を発明するまで数千年に渡り人類を苦しめました。この頃にはチャイナや朝鮮半島でも流行していたため、まさに異国から持ち込まれた災厄です。馬子は運良く生き残りましたが、病死していた可能性は高く、そうなれば歴史はだいぶ変わっていたことでしょう。

8月、ついに敏達天皇は病が篤くなり、崩御してしまいました。享年は48歳と言います。馬子と守屋は葬儀の席で罵り合い、欽明天皇の子・穴穂部皇子は皇位を狙う有様で、倭国は大変なことになりました。

用明天皇

跡を継いだのは敏達天皇と蘇我堅塩媛の子・橘豊日皇子(用明天皇)です。彼は蘇我氏の血を引く最初の天皇で、皇后は欽明天皇と蘇我小姉君の娘・穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇女、嬪(側室)は叔母(母の妹)である蘇我石寸名と蘇我氏尽くしです。物部守屋と蘇我馬子が輔佐する体制は引き継がれましたが、外戚である蘇我氏に大きくパワーバランスが傾きます。

宮は磐余の池辺双槻宮(いけのへのなみつきのみや)で、橿原市東池尻町にそれらしき遺跡が存在します。年齢不詳ですが父が48歳で崩御したとすると20代か30代でしょう。次男が14歳なので30歳過ぎくらいでしょうか。

用明元年丙午(586年)5月、欽明天皇の皇子(母は蘇我小姉君)である穴穂部皇子は皇位簒奪を図り、敏達の皇后であった異母妹の炊屋姫を犯そうとして殯宮に押し入ります。しかし敏達の寵臣三輪君逆(みわのきみ・さかう)が門を閉じて入れなかったので、皇子は物部守屋と手を組み、兵を率いて逆を攻めました。炊屋姫は無事でしたが、逆は守屋に殺されます。

用明2年(587年)丁未4月2日、天皇は新嘗祭を執り行いましたが、同日病気(痘瘡)になって宮中に帰り、群臣に「(仏法僧の)三宝に帰依したい」と相談しました。物部守屋と中臣勝海らは反対し、馬子は賛成して論争となります。この時、皇位を狙う穴穂部皇子は馬子に味方して豊国法師(僧侶)らを宮中に連れてきたので、裏切られた守屋は群臣に退路を断たれる前に脱出し、河内の自領・渋河に戻って兵を集めました。

中臣勝海は守屋に呼応して自宅で兵を集め、穴穂部皇子の代わりに非蘇我氏系の皇子である押坂彦人大兄皇子(敏達天皇の子)のもとへ向かいますが、彦人皇子ないし厩戸皇子(用明天皇の子、当時14歳)の部下である迹見赤檮(とみのいちい)が勝海を待ち構え、斬り殺しました。守屋は自領に立てこもり、馬子は群臣と結んで対峙する緊張状態の中、用明天皇は4月9日に崩御します。在位わずか2年、天皇が2代続けて痘瘡で崩御する異常事態です。

丁未の乱

用明天皇には6人の皇子と1人の皇女(斎宮)がいましたが、まだ年若く、第3皇子と皇女以外は蘇我氏の母を持っていました。用明天皇の異母兄である敏達天皇の子には押坂彦人大兄皇子らがいますが、母は息長氏で、蘇我氏の血を引いていません。欽明天皇の皇子らのうち有力で年長者なのは蘇我氏の母を持つ穴穂部皇子ですが、守屋と手を組んでもいます。そのため次の皇位継承者が決定せず、皇位は一時的に空位となります。清寧や武烈の時に皇統が断絶しかかったため、継体以後は子沢山にしたのが仇となりました。

6月、馬子は敏達の皇后にして蘇我氏の血を引く炊屋姫尊を天皇の代理として奉じ、佐伯連丹経手らを遣わして穴穂部皇子らを殺させました(彼の墳墓は生駒郡斑鳩町の藤ノ木古墳だとする説があります)。穴穂部皇子と仲が良かった宅部皇子(宣化天皇の子)も共に殺されました。7月には群臣や皇族と共に守屋討伐の軍を興し、渋河の守屋邸を攻め囲みます。この内乱を当時の干支から「丁未の乱」といいます。

守屋は懸命に抗戦し、木の上から雨のように矢を射掛けて三度も軍勢を追い払いましたが、厩戸皇子は四天王の像を刻んで頭髪の上に乗せ、「勝利を得させて下されば必ず四天王のために寺塔を建てましょう」と誓います。蘇我馬子も同じように誓い、四度攻めかけると、迹見赤檮が守屋を射落として勝利を収めました。そして戦後は誓い通り摂津国に四天王寺を、飛鳥に法興寺(飛鳥寺)を建立したといいます。これは寺院の縁起譚ですが、蘇我氏と仏法の勝利を祝ってそのようなことが行われたのでしょう。もっとも四天王寺が建立され始めるのは593年からで、もとは法興寺の縁起譚と思われます。

守屋の一味は逆臣として滅ぼされましたが、物部氏のうち守屋系が滅んだだけで、別系が宗家を継ぎ存続しています。全国各地の物部氏も逆臣扱いされたわけではありませんし、馬子の妻も物部氏出身です。しかし物部氏から中央の重臣が出ることは少なくなり、蘇我馬子が倭国の実権を掌握することになりました。チャイナならそろそろ蘇我氏へ禅譲、という状況です。

曹操や司馬懿、劉裕や蕭衍のように軍事力で倭国を建て直したわけではありませんが、軍事力によらず外戚が天子になった例は王莽があります。王莽が符命(神託)や瑞祥や讖記(儒教の予言書)を喧伝して帝位を禅譲させたように、蘇我氏も神託や瑞祥や予言を喧伝すれば天皇もとい倭王になれたかも知れません。のちに武則天(則天武后)がそうやって女帝になっています。

ただし、皇族(王族)が大勢いて実力を持っていた倭国ではそうしたことは起きず、馬子らは8月2日に欽明天皇と蘇我小姉君の子・泊瀬部皇子を擁立して天皇(倭国の大王)としました。これが崇峻天皇です。

崇峻天皇

彼は敏達・用明・炊屋姫の異母弟で、穴穂部皇子及び穴穂部間人皇女(用明の皇后)の同母弟にあたり、やはり蘇我氏の血を引いています。宮は倉梯(桜井市大字倉橋)に置かれ、即位前に娶っていた小手子(こてこ、大伴金村の孫娘)を皇后としましたが、即位後には女御(側室)として馬子の娘・河上娘(かわかみのいらつめ)があてがわれています。大伴氏は金村失脚以後衰退していましたから、大王・蘇我氏・群臣のバランスをとった形です。

崇峻元年戊申(588年)、百済から倭国へ使者が遣わされ、朝貢を納めると共に仏教の僧侶、仏舎利、及び寺院建築の専門家集団がワンセットで贈られて来ました。これは前年に蘇我馬子が頼んでおいたもので、入れ替わりに15歳の善信尼らが仏教を学ぶため百済へ留学します。そして飛鳥衣縫造の樹葉(このは)の家を壊して更地にし、誓い通り法興寺を建立しました。

崇峻2年(589年)7月、東山道・東海道・北陸道に使者を派遣し、諸国を視察させました。この年、チャイナでは隋が陳を征服し、西晋滅亡以来273年ぶりにチャイナの南北を統一しました。新時代の到来です。高句麗・百済・新羅は争って祝賀の使者を派遣しますが、倭国の使者は送られていません。

崇峻3年(590年)3月、善信尼らが百済から帰国し、桜井寺(向原寺)に居住しました。群臣の子女らは次々に出家して(させられて)尼となり、善信尼の弟・鞍部多須奈も出家して僧となり、徳斉法師と呼ばれました。法興寺の建立・拡張のため山の木が伐採され、倭国には国家公認の宗教として仏教が根付いていきます。痘瘡の流行も沈静化したのでしょうか。

崇峻4年(591年)には、585年に崩御した敏達天皇の遺体を殯宮から遷し、先に崩御していた石姫皇太后(敏達の母)と共に河内磯長中尾陵に葬りました。大阪府太子町の前方後円墳である太子西山古墳に治定されていますが、同じ太子町の葉室塚古墳(長方形墳)とする説もあります。6年間も殯宮に置かれていたのは、痘瘡による死のケガレが恐れられたためでしょうか。用明天皇は磐余池上陵に葬られた後、やはり6年後の593年に河内磯長原陵(春日向山古墳か)へ改葬されています。

崇峻弑殺

崇仏論争の決着により国内の騒乱は治まったものの、政治の実権は蘇我馬子に握られ、崇峻天皇はお飾りのままです。これを不満に思った天皇は、8月に群臣に尋ねて「新羅に滅ぼされた任那を再建したい」と言い出します。

群臣は了承し、11月には紀男麻呂・巨勢猿・大伴噛・葛城烏奈良らを大将軍とし、各氏族の有力者を副将・隊長とし、2万余の軍を調えて筑紫へ遣わします。また新羅と任那に使者を遣わし「任那を復興せよ」と詰問しますが、圧力をかけるだけで新羅へ出兵はしませんでした。

崇峻5年壬子(592年)10月、猪を献上する者があり、天皇は指差して「猪の首を斬るように、朕が憎いと思うやつを斬りたい」と不穏な発言をします。また宮中に多くの武器を集めました。蘇我馬子は「自分を殺そうとしているのではないか」と警戒し、11月3日に「東国から朝貢があった」と偽って式典を開催し、その席で東漢直駒を遣わして天皇を弑殺しました。

遺体は同日に倉梯岡陵に葬られ、駒も「天皇の側室(河上娘)を奪った」として口封じに殺されます。伝説的な安康天皇の弑殺事件を除けば、判明しているうち唯一、天皇が臣下に弑殺された例となりました。筑紫の諸将へは「動揺するな」と早馬を遣わします。群臣や皇族は動揺したでしょうが、天皇の仇討ちと称して馬子を誅殺しようとする者は誰もおらず、馬子と群臣が共謀して演出したクーデターであった可能性もあります。

推古擁立

翌月に群臣の推挙として、炊屋姫を皇位につけました。これが推古天皇で、卑彌呼や臺與、伝説的な神功皇后や飯豊皇女を除けば、歴史上最初の女性天皇(倭国の女王)となります。欽明天皇の皇女で敏達天皇の皇后ですから、男系血統上も権威としても問題はありませんが、長く続いた「大王は男性」という流れは断ち切られます。当時はチャイナでもコリアでも女帝・女王は存在せず、新羅で632年に善徳女王が即位するまで例がありません。チャイナでは684年に唐から禅譲された武則天(則天武后)が唯一となります。

推古天皇は即位すると、甥の厩戸皇子(聖徳太子)を摂政・皇太子に指名します。他にも多くの男性皇族がいますから、男系断絶の恐れはありません。では、なぜわざわざ彼女が擁立されたのでしょうか。

欽明ー敏達ー押坂
   用明ー厩戸
   推古ー竹田
   崇峻ー蜂子

欽明天皇や敏達天皇には多くの子がいましたが、疫病や内紛によって次々と崩御・薨去しており、残った皇子のうち最も年長で勢力と権威を持っていたのは、敏達天皇の嫡男である押坂彦人大兄皇子でした。しかし蘇我氏の血を引いていないため反蘇我氏派の旗印とみなされており、彼を即位させれば馬子は失脚します。馬子が弑殺した崇峻の子・蜂子皇子を即位させるわけにも行きません。推古が敏達との間に産んだ竹田皇子は、あいにく既に薨去していたらしく、後継者候補に名が上がっていません。

とすれば、残る蘇我氏系皇子の有力者は厩戸皇子だけです。まだ18歳ほどですが幼少というわけでもなく、即位しても年齢に不足はないものの、年功や正統性という面では押坂にやや劣ります。そこで「中継ぎ」として推古を即位させ、彼女に厩戸を「跡継ぎ」として生前指名させることで押坂を抑え、蘇我氏系の天皇を続かせようとしたのでしょう。

推古や厩戸が押坂より先に崩御・薨去すればおしまいですが、そこは押坂を先に始末するか、運を天に任せるしかありません。結果的に押坂が先に薨去したものの、推古が長生きしたため厩戸が先に薨去してしまい、推古の後は押坂の子・田村皇子(舒明天皇)が継ぐことになります。

◆女◆

◆王◆

こうして有名な推古天皇と聖徳太子、蘇我馬子が揃い、仏教が倭国の支配層に受容されました。この新体制のもと、倭国はどのように発展していくのでしょうか。Buddha Save the Queen.

【続く】

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