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【つの版】倭国から日本へ06・安閑と宣化

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

534年甲寅、継体天皇こと倭国の大王ヲホドが崩御しました。近江生まれで越前から招かれた遠縁の王族でしたが、重臣たちの輔佐もあって国内をまとめ、親百済外交によって梁から先進文化をもたらして、王権を強めました。しかし百済に肩入れし過ぎて任那を弱体化させ、新羅や大加羅の台頭を招き磐井の乱が勃発するなど、晩年は多難でした。後継者たちは大変です。

◆混沌◆

◆創世◆

安閑天皇

継体が崩御すると、長子で皇太子の勾大兄(まがりのおほえ)皇子が即位しました。和風諡号は勾大兄広国押武金日(まがりのおほえ・ひろくにおしたけかなひ)天皇、漢風諡号は安閑天皇です。母は尾張の豪族草香の娘で目子媛(めのこひめ)といい、継体が即位する前に越前で結婚し、安閑天皇と宣化天皇を産みました。尾張は海運で栄える東方の大国です。

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継体には他に多くの妃と子がおり、三尾角折君の妹、坂田大跨王の娘、息長真手王の娘、和珥臣河内の娘、根王の娘など、生まれ故郷である近江とその周辺から妃を娶っています。三尾君堅楲の娘・倭媛が産んだ椀子皇子(丸高王)が郷里の三国の領地を継ぎました。他の子は皇女が多いようです。

安閑は長子ではありますが皇后の子ではなく、母方は尾張の地方豪族で、仁徳系倭王の血を引いていません。そのためか継体は生前に後継者として彼を指名し、臨終の日に譲位してから崩御しています。倭王の位は履中・反正・允恭が兄弟相続したようにまだ父から長子へ相続されるとは限らず、有力な年長の王族が選ばれて擁立されることもよくあったので、傍系出身の継体は特に気を配ったようです。輔佐には大伴金村、物部麁鹿火という継体擁立時からのツートップを据えます(許勢男人は既に薨去)。特に大伴金村は武烈即位にも関わっていますから、その権力と権威は相当なものです。

安閑は宮を磐余(桜井市)から勾金橋(まがりのかなはし、橿原市曲川)に遷しました。少し西に動いただけです。皇子の頃から勾にいたため勾大兄と呼ばれたのでしょう。広国押武も称号とすれば、残った金日(かなひ)が諱でしょうか。

また仁賢天皇の娘の春日山田皇女を皇后とし、許勢男人の娘2人と物部氏の娘を妃としました。継体が武烈の妹を娶ったように、天皇(倭王)の娘を娶って箔をつけたのです(春日山田皇女の母春日大娘皇女は雄略天皇の娘で、継体の皇后手白香皇女、武烈天皇の母でもあります)。継体7年(514年)条に勾大兄と春日山田皇女が結婚したとあり、結婚から20年経っていましたが子はいませんでした。継体8年には皇太子妃が子がないことを嘆くくだりがあり、名を残すため匝布(佐保)に屯倉(みやけ)を設けたとあります。

4月、上総の伊甚国造(千葉県南部の勝浦市付近)に真珠を貢納せよと命じましたが、命令に従わなかったので捕縛し、屯倉(倭王直轄地)を召し出させました。これが伊甚屯倉で、のちの夷隅郡です。7月には皇后のために河内に屯倉を設けようとしますが、大河内直の味張に拒まれました。10月には大伴金村と相談して3人の妃のために小治田・桜井・難波に屯倉を設けることとし、閏12月には河内の三島に行幸して県主から40町の土地を献上されました。恐れた味張も土地と農奴を差し出し許しを請います。

さらに廬城部枳莒喩には安芸国から、物部尾輿には大和・伊勢・筑紫などから屯倉を献上させ、武蔵国造の継承を巡る争いを裁定して武蔵から屯倉を献上させました。安閑2年(535年)5月には筑紫・豊国・火国・播磨・吉備・阿波・紀伊・丹波・近江・尾張・上野・駿河など全国各地に屯倉を置いたことが語られます。これは天皇(倭王)の収入を増やし、拠点地域に代官を派遣して地方豪族を監視する(あるいは地方豪族を代官に任命する)中央集権的な政策です。この間、安閑元年5月には百済から使者が訪れています。

安閑2年8月には諸国に犬養部(いぬかいべ)を置き、9月には「牛を難波に放って名を後世に残そう」と言います(名代)。ジーンが遺せないのでミームを遺そうとした、という人物として描かれていますね。同年12月、安閑天皇は70歳で崩御し、河内古市高屋丘陵に葬られました。跡を継ぐ子がなく、皇位は同母弟の檜隈高田皇子(宣化天皇)が継ぎます。

535年に70歳ということは、逆算して466年頃の生まれです。継体天皇は531年に82歳で崩御したことになっていますから450年の生まれで、継体が17歳頃に儲けた子です。当時は早婚ですから不思議はありませんが、つのは継体の年齢を30年削り誕生を480年頃、崩年を534年としますので、継体は55歳頃に崩じたと考えます。同様に安閑の年齢も30年削れば、496年頃に生まれて40歳頃に崩御したわけです。まだ若いですが、曹丕やティトゥスも40歳頃に崩御しましたし病気でしょうか。

年齢に不足はないですが、子はいません。不妊症だったのか、流産してしまったのかも知れず、年長者である弟が継いだのでしょう。山田皇后はその後も欽明天皇の時代まで生きており、皇太后として尊ばれ、のち夫と同じ陵墓に埋葬されています。僕ヤバの山田とは何の関係もありません。

宣化天皇

和風諡号は武小広国押盾(たけおひろくにおしたて)天皇、諱は檜隈高田(ひのくまのたかだ)皇子です。和風諡号の大部分が兄と被っており、小は若いことを意味し、檜隈は宮名ですから残りは高田です。安閑2年(535年)12月に兄の跡を継いで即位し、翌年(536年)正月に檜隈廬入野宮(奈良県高市郡明日香村檜前)に遷りました。大伴金村、物部麁鹿火を引き続き輔佐役とした他、蘇我稲目を大臣、阿部大麻呂を大夫としました。

稲目の子が馬子、孫が蝦夷、曾孫が入鹿です。稲目の父は高麗(こま)、祖父は韓子(からこ)と半島と縁が深い名です(母が高句麗人や韓人なのでしょう)。曽祖父は履中天皇に仕えた満智、高祖父は百済の辰斯王の死(392年)に関わった石川で、石川の父は武内宿禰とされますが、武内宿禰は景行から仁徳まで5代に仕えて300年近く生きたとされ、実在の人物とは思えません。4世紀末に葛城地方に勃興した新興豪族の共通祖先として後世に作り出された存在と思われます。蘇我氏は石川以前に遡れませんが、弁韓系の帰化氏族が系譜を造作して倭人化したのか、倭人豪族が成り上がったので系譜を後付したのか定かではありません。石川が392年時に30歳とし同年に満智を儲けたとすれば、韓子は422年、高麗は452年、稲目は482年の生まれで継体天皇と同年代(50歳過ぎ)です。大臣として年齢に不足はありません。
蘇我石川―満智―韓子―高麗―稲目
追記:と思いましたが、享年や子らの年齢を考慮すると韓子と高麗の間に1世代抜けているようですから、稲目の生年に30年足して512年生まれ。536年には25歳の若者です。

宣化天皇は仁賢天皇の娘の橘仲皇女を皇后に立て、石姫皇女(欽明天皇の皇后)ら1男3女を儲けました。橘仲皇女は安閑天皇の皇后の同母妹であり、雄略天皇の血も引いています。しかし彼女が産んだ子は即位しませんでした。

即位元年丙辰(536年)5月、詔して各地の屯倉に穀物輸送を命令します。天皇は阿蘇君を河内国茨田郡の屯倉へ派遣し、蘇我稲目は尾張連を遣わして尾張の屯倉の、物部麁鹿火は新家連を遣わして新家屯倉の、阿倍大麻呂は伊賀臣を遣わして伊賀国の屯倉の籾を運ばせます。また那津(博多)に宮家(代官所)を設置し、筑紫・火国・豊国の屯倉からの穀物を集積させました。重臣それぞれの担当地域が理解りますね。同年7月には物部麁鹿火が薨去し、継体を擁立した三人の重臣のうち、残るは大伴金村だけとなります。

宣化2年(537年)10月、新羅が任那に害を加えるので、大伴金村に命じて任那を救援させます。金村は子の磐と狭手彦を遣わし、磐は筑紫に留まって三韓に備え、狭手彦は任那へ行って救い、また百済も救いました。

538年春、百済の聖明王は都を熊津(忠清南道公州市)から南東の泗沘(忠清南道扶餘郡)に遷しました。また国号を百済から「南扶餘」と改めたと『三国史記』にありますが、この後も「百済」と呼ばれます。泗沘はチャイナの山東省を流れる泗水・沘水(淮水の支流)からとった雅名で、一名を所夫里といい、これはソウルと同じく韓語で「都」を指すといいます。熊津と同じく錦江流域にあり、やや下流で、全羅北道と境を接しています。

仏教伝来

そして『上宮聖徳法王帝説』及び『元興寺伽藍縁起幷流記資財帳』によれば戊午年(538年)、百済から仏像・経典・僧侶が贈られたといいます。

志癸島天皇御世戊午年十月十二日、百齋國主明王、始奉度佛像経教并僧等。勅授蘇我稲目宿禰大臣、令興隆也。(上宮聖徳法王帝説)
大倭國佛法、創自斯歸嶋宮治天下天國案春岐廣庭天皇御世、蘇我大臣稻目宿禰仕奉時、治天下七年歳次戊午十二月度來、百濟國聖明王時、太子像并灌佛之器一具、及説佛起書卷一筐度。(元興寺伽藍縁起幷流記資財帳)

この年代や欽明天皇の即位年に関しては、前回見ました。これらの史料が意図的にか誤ってか、戊午年を欽明天皇の時代にしたのでしょう。欽明元年を539年とすれば欽明7年は546年ですが、戊午年と欽明7年のどちらが正しいのか、どちらも正しいのかどちらも間違いなのかは不明です。『日本書紀』では欽明13年壬申(552年)としていますが、これにも異論があります。

どの年にせよ、百済には聖明王が在位しており、仏教という共通の宗教によって百済と倭国の同盟関係を強固ならしめんという意図は明白です。一度では終わらず、何度も繰り返し贈ってきたのでしょう。仏教にいう「三宝」は仏(ブッダ)・法(教え)・僧(僧伽、教団)の三種ですが、通俗的には仏像・経典・僧侶と理解されており、百済はそれをもたらしたのです。

『三国史記』によれば、最初に仏教が伝わった(国王に公認され仏寺が建立された)のは高句麗が372年、百済が384年、新羅が528年といいますから、倭国は新羅より10年遅く伝わったことになります。ただし新羅には5世紀初め頃高句麗から既に伝来しており、倭国にも多くの渡来人・帰化人が仏教を持ち込んで仏像を拝んでいますから、伝来というよりは「公伝」です。チャイナでは西暦1世紀頃に既に伝わっており、光武帝の子・楚王劉英が「浮屠(仏教)の仁祠」を祀っていたと『後漢書』にあります。

肝心の宣化3年(538年)は日本書紀の記述がなく、空白です。仏教の伝来・公伝についてはあとでやりましょう。

宣化4年(539年)2月、宣化天皇は崩御しました。年齢は73歳とされますが安閑天皇と同じく30年削れば43歳です。陵は身狭桃花鳥坂上陵で、皇后と孺子(幼子)も合葬されたといいますが、いつ亡くなったかは記録がありません。73歳の老人が幼子を儲けたというのもなくはないにせよ不自然ですし、幼くして亡くなった子がいたのでしょう。兄と同じく若くして、妻子共々亡くなったというのなら、殺されたのでなければ疫病の可能性があります。

同年に異母弟の欽明天皇が即位しますが、その前に世界情勢を少し見てみましょう。この頃、世界各地で不穏な動きがありました。

火山噴火

『梁書』武帝紀の中大通6年(534-535年)条に、こうあります。

閏十二月丙午、西南有雷聲二。

梁の首都・建康(南京)の西南で雷の音が2回鳴り響いたというのですが、これは西暦535年に起きたインドネシアのクラカタウ火山の大噴火を指すという説があります。

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南京から南西に4500km、ジャワ島とスマトラ島の間のスンダ海峡にクラカトア(クラカタウ)という火山島があります。19世紀の伝説では「大洪水が起きてジャワ島とスマトラ島が分かれた」とされますが、それはさておき地質学上でも535年に大噴火があったのは確かです。噴火音は数千km彼方まで届くことが確かめられており、建康まで届いて不思議はありません。

噴火によって大量の火山灰と水蒸気が噴煙となって立ち上り、空を覆って、世界中に長期間の異常気象をもたらしました。大雨や大雪、黄色い塵が降り積もり、寒冷化と日照不足が飢饉と疫病と戦乱を呼びます。北魏は東西に分裂し、柔然は滅んで突厥が興り、梁も北インドのグプタ朝も滅び、イエメンのヒムヤル王国のダムが豪雨で破壊され、東ローマ帝国をペストが襲い、スラヴ人やゴート人が欧州を荒らし、カムランの戦いでアーサー王はアヴァロンへ旅立ち、テオティワカン文明やマヤ文明古代ローマカラテ文明も滅びました。『梁書』『三国史記』『日本書紀』にも、この時の異常気象と疫病の様子が記されているのです。仏教やキリスト教が各地で受容され、アラビアでイスラム教が勃興したのも、すべて535年の大噴火が……!

というのは眉唾ものですが、まあなんかの影響はあったでしょう。いちいち検証する暇もありませんが、北魏はとっくに内乱で死に体ですし、テオティワカン文明やマヤ文明は普通に存続しています。グプタ朝やヒムヤル王国は既に崩壊していました。その他のなんやかんやも火山噴火以外の要素も絡んでのことです。だいたい、こういうセンセーショナルな話は本を売るための宣伝文句に決まっています。

とはいえ、確かにこの頃の倭国では疫病が流行していたようではあります。チャイナや半島の戦乱を逃れて結構な数の渡来人・帰化人も来ていたでしょうし、彼らが家畜ともども病原体を持ち込む可能性は十分あります。慣れない土地で密集して住み、低湿地で豚や牛を飼い、奇妙な神を拝み異国の言葉で話す人が増えれば、先住民が不信の目を向けても不思議ではありません。

◆Mappo-calypse◆

◆Now◆

このような混沌末法の時代に欽明天皇は即位しました。その在位は30年以上に及び、仏教が公認され、任那が滅び、蘇我氏が外戚として台頭します。

【続く】

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