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【つの版】ウマと人類史:近世編12・西域韃靼

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 16世紀後半、オスマン帝国とモスクワ・ロシア帝国がヨーロッパ諸国を脅かしていた頃、イランにはサファヴィー朝、北インドにはムガル帝国、中央アジアにはシャイバーニー朝やヤルカンド・ハン国が栄えていました。これらの国々の様子をざっと見ていきましょう。

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伊蘭動乱

 サファヴィー朝の君主タフマースブは、1555年のアマスィヤ条約以後はオスマン帝国と平和を保ち、欧州諸国から同盟を持ちかけられても拒絶しました。北東のシャイバーニー朝、南東のムガル帝国とも平和を保ちます。しかし50歳を過ぎると宗教に凝り始め、正統派の十二イマーム派に傾倒するあまり異端弾圧を繰り返しました。1568-73年には暴動が相次ぎ、後継者を巡る派閥争いも始まって国内が混乱します。

 タフマースブの晩年に台頭したのは、彼の次女パーリー・ハーン・ハーヌムでした。彼女は従兄のバディ・アル・ザマンと婚姻していましたが、タフマースブは娘を手元に置いて様々な特権を与えています。1576年、タフマースブが在位52年、62歳で亡くなると次男イスマーイール、三男ハイダルが王位を争いますが、ハーヌムはハイダルを処刑してイスマーイールを擁立します。しかしイスマーイールは反対派を次々と粛清した末に1577年に急死し、長男ながら盲目のため王位継承者とみなされていなかったムハンマドがハーヌムらに擁立されて王位につきます。

 ハーヌムは騎馬軍団クズルバシュの支持を得て実権を掌握しますが、ムハンマドの妃ウリヤによって1578年に暗殺され、クズルバシュによる反乱が起きます。さらにこの混乱に乗じてオスマン帝国が侵攻して来ました。

 スレイマンの子セリムは1574年に崩御し、子のムラトが即位していましたが、実権は引き続き大宰相ソコルル・メフメト・パシャが掌握しています。彼は1568-70年のアストラハン遠征には失敗したものの、1570年にはキプロスをヴェネツィアから奪いました。また1571年にはレパントの海戦で大敗を喫しますが、すぐに艦隊を再建し、1574年にはチュニスを攻略しています。

 しかし相次ぐ遠征で財政的に厳しくなっており、対ペルシア戦争には反対します。主戦派に押し切られてやむなく開戦し、たちまちジョージアを征服しますが、1579年10月にペルシアの刺客によりソコルルは暗殺されました。皇帝ムラトは戦争を続行し、シェムシ・パシャ、ララ・ムスタファ・パシャらを大宰相に任命しますが老齢のため相次いで亡くなり、コジャ・シナン・パシャを任命します。次第に戦線は膠着状態となり、コジャも1582年に失脚し、以後大宰相が長期在位することは少なくなります。

 オスマン帝国はクリミア・ハン国とともにカフカースやアゼルバイジャン地方に攻め寄せ、反撃を受けながらもこれを征服します。1587年には混乱に乗じてシャイバーニー朝がサファヴィー朝に攻め込み、ホラーサーンを征服します。1588年にはムハンマド・ホダーバンデがクズルバシュのクーデターによって退位させられ、息子アッバースに王位を譲ります。

 アッバースは17歳の若さで王位を継ぐと、クズルバシュを弾圧して政治から遠ざけ、奴隷出身の側近を用いて中央集権化を進めます。1590年には財政難に苦しむオスマン帝国と和平を結び、ダゲスタンとアゼルバイジャンを割譲しました。領土は縮んだものの平和を獲得したサファヴィー朝はアッバースのもとで建て直され、1598年にはカズウィーンから南のエスファハーンに遷都して最盛期を迎えることになります。

印度平定

 北インドでは、タフマースブの支援を受けたムガル朝のフマーユーンが1555年にデリーを奪還しますが、翌年階段から転げ落ちて頭部を強く打ち、事故死します。息子アクバルが跡を継ぎますがまだ13歳で、重臣バイラム・ハーンが摂政として輔佐にあたります。しかし各地で反乱が相次ぎます。

 これに乗じてヒンドゥー教徒の武将へームーがベンガルから進軍し、デリーを占領してヴィクラムジートを号しました。アクバルとバイラム・ハーンはパンジャーブ遠征中でしたが、これを聞いて引き返し、デリー郊外のパーニーパットで激戦の末にへームーを打ち破ります。アクバルはデリーに帰還し、1558年にはデリーから南のアーグラへ遷りました。

 1561年にバイラム・ハーンを、翌年アドハム・ハーンとその母マーハム・アナガを排除し実権を握ったアクバルは、宰相の権限を分割して名目的なものとし、皇帝に権威と権力を集中させます。また北インドの土着勢力ラージプートと同盟して勢力を広げ、1605年に崩御するまでに北インドを統一し、東はベンガルやオリッサ、南はデカン高原やグジャラート、北はカシミールやカーブル、西はカンダハールまでを版図としました。

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 アクバルは権力基盤強化のため多種多様な社会階層から人材を抜擢し、宗教的にも寛容でした。1564年には非ムスリムに対する人頭税(ジズヤ)すら廃止しています。皇族はティムール朝ゆえテュルク・モンゴル系で、文化的にはペルシア化しており、スンニ派ムスリムでペルシア語を公用語としています。サファヴィー朝などからはシーア派のペルシア人もやってきますし、仇敵であるウズベク人も従えば使います。アラビア人もインド出身のムスリムも、ヒンドゥー教徒のラージプートやバラモンたちも、ジャイナ教徒もゾロアスター教徒も、ゴアに拠点を置いて活動していたポルトガルのイエズス会士も彼の宮廷を訪れます。アクバルは文化の交流を大いに好み、彼らを議論させて楽しみました。叙事詩『ラーマーヤナ』や『マハーバーラタ』のペルシア語訳も彼の時代に作られています。

 11世紀のガズナ朝の北インド侵入以来続いていた文化の混淆により、北インドではペルシア語・テュルク語・アラビア語・サンスクリットなどの大言語同士が混ざり合い、ヒンディー(北インド)語とかウルドゥー(オルド、宮廷)語と呼ばれる言語となります。18世紀末、英国のベンガル総督マクファーソンがこれらを「ヒンドゥスターニー語」と総称し、のち英領インドの官公庁で用いる公用語となりました。現在のインドの公用語のひとつであるヒンディー語、パキスタンの国語であるウルドゥー語は、このヒンドゥスターニー語をそれぞれ「言語純化」して作り出されたものです。

 1584年にはパンジャーブ地方のラホールに遷りましたが、1598年にはアーグラに戻っています。ムガル帝国はアクバルの息子ジャハーンギール、孫シャー・ジャハーン、曾孫アウラングゼーブの代まで栄えました。インド史も騎馬遊牧民の活動範囲ですが、後でまとめてやりたいとは思っています。

西域韃靼

 シャイバーニー朝はブハラを首都として中央アジアに覇を唱え、1583年に即位したアブドゥッラー2世はバダフシャーン、ヘラート、ホラーサーン、ホラズムに侵攻して最盛期を築き上げました。彼はムガル帝国やモスクワ・ロシアと同盟していましたが、ロシアがシビル・ハン国を襲撃し始めると関係を悪化させています。アブドゥッラーが1598年に逝去するまで、シャイバーニー朝は強国として栄えました。

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 ムガル帝国の北、シャイバーニー朝の東には、チャガタイ・ウルス/モグーリスターンの後継国家カシュガル/ヤルカンド・ハン国があります。カザフやウズベク、オイラトとの争いはありましたが、1570年には東の分家トルファン(ウイグリスタン・ハン国)を征服してハミまで至り、東は明朝と境を接し、北は天山、南は崑崙、西はパミール高原に及ぶ大国となりました。

 これらの諸国は、サファヴィー朝を除けばモンゴル帝国の後継国家です。サファヴィー朝もトゥルクマーンの騎馬戦力によって成り立った国でした。そしてこの頃、モンゴル高原ではアルタン・ハンが活躍しています。次回は彼の活動について見ていきましょう。

◆馬◆

◆城◆

【続く】

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