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【つの版】ユダヤの謎04・大闢王朝

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

紀元前1200年頃、イスラエル人と総称されることになる諸部族は、海の民の襲来でエジプトの支配が弱まったカナアン(パレスチナ)各地に割拠していました。周辺諸部族と離合集散しながら、彼らは勢力を広げていきます。

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◆Megiddo◆

◆Solomon◆

天啓聴聞

ヨシュアはエフライム族の地シロに契約の箱と幕屋を安置しており、彼の死後は祭司エリが祀っていました。エリの系譜は明らかでありませんが、年代や他の系譜を鑑みるに、アロンの曾孫世代にあたると推測されます。前1208年にアロンが43歳(前1250年生まれ)とすると、代々30歳で子を儲けたとして子エレアザルは前1220年、孫ピネハスは前1190年、曾孫エリは前1160年の生まれです。エリの子ホフニとピネハスはならず者で、供物をピンハネしたり女性に手を出したりしており、エリは彼らを止められませんでした。

一方、エリのもとにはサムエル(聞く-神)という少年がいました。彼は母が神に願って授かったことから神に捧げられ、シロの聖所に仕える聖職者となっていたのです。ある夜、彼は神の言葉を聞いて預言者となり、エリの子らが天罰を受けて死ぬと予言(預言)しました。果たしてペリシテ人との戦いで彼らは戦死し、戦場に持って行かれていた契約の箱も奪われます。老齢のエリはこの報告を聞いてショックで倒れ、首の骨を折って即死しました。

契約の箱は神の祟りで戻されたものの、指導者を失ったイスラエル人は混乱し、サムエルが士師となってペリシテ人と戦います。彼はペリシテ人から多くの土地を奪還し、長年イスラエルを治め裁きました。しかし彼の子らも父に似ぬろくでなしばかりだったので、長老たちは年老いたサムエルに「他の国のようにを立てるべきだ」と提案しました。

サムエルは気乗りがしませんでしたが、神は「やりたいようにさせてやれ。民は神であるわたしを蔑ろにする気だ」と拗ねた啓示を下し、ベニヤミン族の若者サウルを指名します。彼は軍事に才能を発揮し、アンモン人・アマレク人・ペリシテ人など周辺部族を撃破して大いに人望を集めました。しかし戦利品の配分を巡ってサムエルと対立し、サムエルは彼のもとを去ります。

大闢王朝

サムエルは神の啓示に従い、ユダ族のエッサイの子ダビデを見出すと、彼の頭に(オリーブオイル)を注ぎました。これは祭司や祭具、王を聖別する時の風習で、彼を王とするというしるしです。この儀式を受けた者をマーシアハ(mashiach、油を注がれた者、受膏者)、すなわちメシア(Messiah)と呼びます。祭司や王も本来はメシアで、救世主の意味は後付です。やがてサムエルは息を引き取り、ダビデが次の主人公となります。

ダビデは神の加護を受けてペリシテの巨人ゴリアテを殺し、手柄を立ててサウルに気に入られ、彼の娘ミカルを娶ります。しかしあまりにダビデの名声が高まったので、サウルは彼を殺そうとし、ダビデは出奔してペリシテ人の傭兵となりました。ダビデは自分に従う剽悍な戦士を率いて各地を転戦し、ユダ族とは戦わずして戦功をあげますが、ペリシテ人に疑われてまたも出奔し、荒野の岩山を拠点とする山賊となりました。

そうこうするうち、サウルはペリシテ人との戦いで敗れ、自害します。将軍アブネルはサウルの子エシュバアル(イシュボセテ)を擁立して新たなイスラエル王としますが、ダビデはヘブロンでユダ族の長老たちに推戴され、30歳にしてユダの王として即位します。イスラエルとユダは小競り合いを繰り返し、アブネルはダビデに寝返ろうとしますが殺され、イシュボセテも部下に殺されてサウル王朝は断絶します(ダビデの根回しでしょう)。ダビデはイスラエルの諸部族から王に擁立され、ユダ及びイスラエルの王として改めて即位しました。これは紀元前1000年頃のこととされています。

さらにダビデは、先住民エブス人の町であったエルサレムを攻め落とし、ヘブロンから遷って首都と定めます。契約の箱もエルサレムに遷され、王権と神権の中心となりました。シオンという丘の上にある要害で、自らの故郷ベツレヘムからも近く、ユダ族ではなくベニヤミン族の領域にありつつ、先住民の町なのでどの部族に対しても中立的です。なおサウル家に王位を奪われないよう、サウルの娘ミカルとの間には子を儲けていません。

ダビデはその後も外敵と戦いますが、晩年は息子アブサロムに反乱されたりと多難でした。また将軍ウリヤの妻バテシバ寝盗り、彼女が孕むと何も知らぬウリヤを死地に追いやって死なせるなど腐れ外道な行いもしています。流石に神の怒りを買い、子は罰として死にましたが、次に彼女が産んだのがソロモンでした。彼は父に愛され、王位継承争いを制し次の王となります。ダビデの在位年数はユダ王の時を含めて40年、とされます。

ソロモンは神に知恵を授かった賢者として有名ですが、同時代の聖書外史料に記録がなく、ダビデやサウルともども実在したかも定かでありません。彼はエジプトの王女など多くの異国の女性を妻とし、エルサレムにヤハウェの大神殿や宮殿を建立し、ユーフラテスのほとりまで勢力を広げ、フェニキアやアラビアとの交易によって王国は富み栄えたとされます。

当時のエジプトは第3中間期という分裂時代にあり、ソロモンの妃の父は第21王朝シアメン(在位:前978-前959)と思われます。彼はリビア出身で下エジプトのタニスに都を置き、ペリシテ人の都市ゲゼル、アシュドド、シャルヘンを攻略しています。このうちゲゼルを持参金として、ソロモンに娘を嫁がせた、と聖書にあります。王を娘婿として属国化したわけです。

ソロモンと女性と言えば、シバの女王がいます。彼女はアラビア半島南部のイエメンに存在したサバア王国の君主とされ、香料や黄金の貿易によって富み栄えていたといいます。彼女はソロモンと問答を交わし、その子がエチオピア王家の祖先になったと言われますが定かでありません。

ソロモンの栄華とは、これら外国との交流で多少国際的になった時代を「黄金時代」として理想化したものに過ぎず、フェニキアやエジプトの方がよほど栄えていたでしょう。またヤハウェの祭司や預言者に言わせれば、異国の女たちは偶像崇拝を故郷から持ち込み、ソロモンやイスラエル人を堕落させたということになります。そのためか後世にはソロモンは「魔神を使役して神殿や宮殿を建設させた」魔術師・悪魔使いとされ、様々な伝説によって彩られることになりました。

エジプトでは前959年にシアメンが崩御し、別系のプスセンネス2世が即位しますが、シアメンの従弟シェションクが大将軍・娘婿として実権を握り、ついには王位について第22王朝を開きます。彼は上下エジプトを再統一し、ソロモンに背いたエフライム族のヤロブアムの亡命を受け入れるなど、カナアン(イスラエル)も虎視眈々と狙っていました。

王国分裂

紀元前931年頃にソロモンが崩御すると、王位は子のレハベアムが継ぎました。しかしヤロブアムはシェションクの支援を受けて帰還し、ユダ族とベニヤミン族、シメオン族を除く北部諸部族を率いてシケムで王位につきます。これが北王国(イスラエル王国)で、エルサレム周辺と南部の領域だけが南王国=ユダ王国として残存しました。

もともとユダ族は北の諸部族とは文化的・言語的にやや異なり、肥沃な平地の多い北王国は南より豊かで栄えていました。彼らはエルサレム神殿のヤハウェを崇めることをやめ、独自の神として金の子牛像を造ったといいます。ユダ王国は再統一を目指して北王国と戦いますが、シェションクはこれを好機として遠征を行い、両国を服属させて多数の戦利品を獲得しました。敵の内紛を煽って弱体化させ、自らの権威を高める巧妙な作戦です。

これにより王国分裂は固定化され、周辺諸国は彼らに服属することをやめて自立します。両国は諸国と合従連衡しながら生き残りをかけて戦いますが、狭い山国ながらもユダ族・ダビデ家の王を戴き団結していた南王国に対し、北王国では王位が全く安定しませんでした。

ヤロブアムの子ナダブは在位2年でイッサカル族のバシャに殺され、バシャはヤロブアムの一族を皆殺しにしてテルザに遷都します。彼の子エラも在位2年で将軍ジムリに殺され、ジムリは7日間王位にあっただけで部下のオムリに殺されます。オムリは王位を簒奪し、対立王ティブニも4年後に死んだので、対外的にもイスラエル王として承認されました。

彼はショメルという地主から丘を購入し、新都を建設してショムロン(ギリシア語形でサマリア)と名付けました。これより北王国の都は長らくサマリアに置かれ、北王国は「サマリア王国」とも呼ばれます。また彼の家系は数代継続して王位にあり、アッシリアの記録では北王国を「フムリ(Humuri)の家」「フムリの地」と呼んでいます。

北朝興亡

王国分裂から半世紀後、紀元前869年頃にオムリは逝去し、子のアハブが跡を継ぎます。彼は国力増強のため、隣国フェニキアのシドン王国の王女イゼベルを王妃に迎え、王子アハズヤとヨラム、王女アタルヤを儲けました。

彼はフェニキアの主神バアル(バアル・ハダド、雷神)を祀り、ヤハウェの崇拝を蔑ろにしました。嫉妬深いヤハウェは預言者エリヤを遣わし、アハブとイゼベルの悪行を暴露しますが、エリヤは殺されそうになり逃亡します。彼は反バアルのプロパガンダ活動を続け、弟子エリシャが跡を継ぎました。

この頃、東方ではアッシリアが勢力を伸ばし、ユーフラテス川の西側にまで進出して来ました。これに対しダマスカス、ハマー、イスラエル、キズワトナ(キリキア)、エジプト(ムスリ)など12の西側諸国が軍事同盟を結び、連合軍を結集してアッシリア軍に対抗します。前853年、両軍はオロンテス川のほとりで激突し、アッシリア軍は勝利を得られず撤退しました。これは聖書に書かれていませんが、アッシリア側の記録にあり、イスラエル王アハブの名も敵軍の中に見えます。ユダ王の名は見えません。

当時のイスラエルはかなりの軍事力を持っていたようですが、当面の脅威が去ると連合軍は分裂し、アハブは翌年ダマスカス王との戦いで戦死します。跡を継いだアハズヤは在位2年で死に、前849年頃に弟のヨラムが継ぎます。同年、南のユダ王国でも同名のヨラム(ヨシャファトの子)が即位し、アハブとイゼベルの娘アタルヤを妃に迎えます。ここに南北両朝は和平を結びましたが、共にバアルら偶像神を崇拝し、ヤハウェを蔑ろにしたといいます。

しかしアハブの死により両王国は混乱し、モアブやエドムが離反します。またダマスカス王ベンハダドはイスラエルを攻め、サマリアを包囲しました。この時、預言者エリシャがダマスカスに現れ、将軍ハザエルを唆して王位を簒奪させます。またハザエルがサマリアを攻めてヨラムを負傷させると、エリシャはイスラエルの将軍イエフ(エヒウ)を唆して反乱を起こさせ、ヨラムとイゼベル、さらにアタルヤの子アハズヤを殺させました。こうしてオムリ王朝は断絶し、ヤハウェの復讐は成就されたのです。

しかし、イエフはこれでイゼベルの故郷フェニキアを敵に回しました。アッシリアは混乱に乗じて前841年に再び西方遠征を行い、ダマスカスを包囲して屈服させ、イスラエル王イエフも服属させました。これはアッシリア側の記録にあり、イエフはアッシリアを後ろ盾としてどうにか王位を保ちます。

ユダ王国では王母アタルヤが女王に即位し反対派を粛清しますが、ヤハウェ神殿の祭司エホヤダはアハズヤの子ヨアシを擁立してクーデターを起こし、アタルヤを処刑しました。しかしヨアシはアタルヤの孫、アハブとイゼベルの曾孫にあたるため、祖母を殺して実権を握ったエホヤダらに反感を抱いていました。エホヤダの死後、ヨアシとその後継者らはバアルやアシェラトを再び崇めるようになり、ヤハウェの預言者らに非難されました。

北王国でもイエフの子ヨアハズ、孫ヨアシ、曾孫ヤロブアム2世と偶像崇拝を続けましたが、ヤロブアム2世の時代にはダマスカスやハマーのアラム人王国を服属させ、大いに国力を強めたといいます。前753年に彼が逝去すると子のゼカリヤが即位しますが、在位半年でシャルムに殺され、イエフ王朝は突如断絶しました。シャルムも在位1ヶ月で暗殺され、メナヘムが王位を簒奪します。彼はアッシリアに服属し、子のペカフヤもそうします。

しかし将軍ペカは前741年にペカフヤを殺して王位につき、ダマスカス王レジンやテュロス(フェニキア)王ヒラムと反アッシリアの同盟を組みます。ペカらはユダ王アハズも同盟に参加するよう呼びかけますが、拒否されたので連合軍を結成し、反アッシリア派の王を立てようとユダに攻め込みます

アラム(シリア)とサマリア(エフライム)の連合軍はたちまちエルサレムを包囲し、ユダ王国は存亡の危機に陥ります。しかし預言者イザヤは「案じるな、動揺するな。やつらはすぐ滅びる」と告げ、エジプトにも頼るべきでないと預言します。アハズは「アッシリアに頼れということか」と察し、さっそく服属して救援を要請したので、アッシリアはすぐさま兵を発してダマスカスとサマリヤを攻め、ペカとレジンを殺しました。

ダマスカス王国は取り潰されてアッシリアの属領とされ、イスラエル王国は存続したもののガリラヤとヨルダン川東岸をアッシリアに奪われ、前731年にエラの子ホセアが王位につけられます。彼はアッシリアに臣従し、多額の貢納を支払う有様で、ユダ王国は言うに及びません。王や民はヤハウェよりアッシリアの王や神々を頼りにし、偶像崇拝に明け暮れていました。嗚呼、ヤハウェは次にどんな災いをイスラエルとユダに下すのでしょうか。

◆預◆

◆言◆

【続く】

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