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【つの版】ウマと人類史:近世編17・大清建国

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 1626年8月、アイシン(後金)国のハン・ヌルハチは志半ばにして68歳で崩御しました。彼の跡を継いだホンタイジは、モンゴル諸部族と同盟を結び明朝や朝鮮を脅かすことになります。

◆大◆

◆清◆

後継紛糾

 ヌルハチには正室が三人、側室が四人、側女が五人おり、十六人の息子と八人の娘がいました。このうち最初の正室(元妃)はトゥンギャ氏のハハナ・ジャチンで、1577年に18歳のヌルハチと結婚し、1578年に長女ヌンジェ、1580年に長男チュイェン、1583年に次男ダイシャンを産みましたが、1592年に亡くなっています。

 1585年、ヌルハチの族兄の寡婦でフチャ氏のグンダイがヌルハチに嫁ぎます。同年に側室のジョーギャ氏が三男アバイを、ニウフル氏が四男タングダイを産み、1587年にグンダイが五男マングルタイを、側室のイルゲンギョロ氏が次女ヌンジェゴゴを、1589年にニウフル氏が六男タバイを、イルゲンギョロ氏が七男アバタイを、グンダイが三女モンゴジェを産みました。

 1588年、ヌルハチはフルン国(海西女直)イェヘ部の長ナリンブルの妹モンゴジェジェと結婚します。彼女は1592年にヌルハチの八男を産みますが、これがホンタイジです。ホンタイジ(皇太極)とは漢語の「皇太子」をもととする称号・君主号で、おそらく彼の本名ではありません。明朝の『山海紀聞』では喝竿、朝鮮の『仁祖実録』では黒還勃列の名で現れることから、本名はへカン(ヘカン・ベイレ)ではないかとする説があります。またイェヘ部の長イェヘ=ナラ氏はモンゴル系とされますから、ホンタイジはモンゴル系の血を母方から継いでいることになります。モンゴジェジェは1610年に亡くなり、ホンタイジは正室のグンダイに養育されました。

 同じ1592年には側室ギャムフギョロ氏が九男バブタイを、グンダイが十男デゲレイを産み、1595年にはギャムフギョロ氏が四女ムクシを、1596年には十一男バブハイを、1597年には五女を、1600年には六女を産んでいます。1604年には側女のイルゲンギョロ氏が七女を産みました。彼女らはそれぞれ有力者に嫁いでいますが、名は伝わっていません。

 1601年、フルン国ウラ部の長マンタイは、娘アバハイをヌルハチに嫁がせました。彼女は1605年に十二男アジゲを産みます。1612年には側女のシリンギョロ氏が十三男ライムブを、アバハイが十四男ドルゴンを産みます。またモンゴジェジェの妹で側女のイェヘ=ナラ氏は八女ソンゴトゥを産みます。

 1614年にアバハイは十五男ドドを産み、1620年10月に母親不明の十六男フィヤングが産まれました。グンダイは同年2月に亡くなっています。1626年にヌルハチが崩御すると、アバハイは遺言により殉死しました。

 順当にいけば長男のチュイェンが跡継ぎとなるはずですが、彼は1615年8月に「父を侮り呪詛した」などの讒言により35歳で処刑されています。となると次男のダイシャンですが、彼も尊大だとか言われて跡継ぎには定められなかったといいます。68歳の老君主が跡継ぎを定めないまま亡くなるのも不自然ですから、何かいろいろあったのでしょう。

 ヌルハチが崩御した時、八旗は次男ダイシャン(44歳)、五男マングルタイ(40歳)、八男ヘカン/ホンタイジ(35歳)、十二男アジゲ(21歳)、十四男ドルゴン(15歳)、十五男ドド(12歳)の六人と、ヌルハチの弟シュルハチの子アミンおよびジルガランによって率いられています。年齢的にアジゲ以下は不適格ですし、シュルハチの子らもあまり有力とは言えません。必然的にダイシャン、マングルタイ、ホンタイジの争いとなります。

 マングルタイは正室グンダイの子で、年齢もホンタイジより上ですが、ホンタイジの母方はモンゴル系です。かつ、ホンタイジは最初の妻ニウフル氏と1612年に死別したのち側室のウラナラ氏を正妻としていましたが、1623年に離縁し、モンゴル・ホルチン部出身の側室ジェルジェルを正妻としています。後金が明朝に対抗するには、モンゴルを味方につける必要があり、それには彼の血統・姻戚関係は有利です。ホンタイジは各方面へ根回しを行い、ダイシャンを中傷したうえ、ダイシャンの子らを抱き込んで「彼こそヌルハチの後継者にふさわしい」と言わせました。豪族たちの会議の結果、ホンタイジがハンに即位し、スレ・ハン(聡明なハン)と名乗ります。また即位の翌年に天聡/スレ・ハンと改元しました。

胡乱盗反

 この頃、南の朝鮮では国王の李倧(仁祖)親明反金政策をとり、明朝の武将・毛文龍を引き入れて後金と戦わせていました。朝鮮にとって明朝は宗主国ですし、秀吉の侵攻の時は援軍を送って助けて貰ったのですから、夷狄に服属して明朝に背く大義名分はありません。朝鮮国内でも派閥争いが激しく、反体制派は後金に亡命して朝鮮を攻めるよう唆しました。

 1627年丁卯1月、ホンタイジは仇敵の袁崇煥と和議の交渉を行います。これは頓挫したものの、明朝に朝鮮を援助する力がないとみたホンタイジは、従兄弟のアミンとジルガラン、弟のアジゲ、甥(ダイシャンの子)のヨトおよびショトに兵3万を授けて朝鮮へ出兵しました。彼らは毛文龍や朝鮮軍を撃破して漢城(ソウル)に迫り、仁祖は例によって江華島へ逃亡します。

 後金軍は朝鮮に和議を呼びかけ、仁祖はやむなくこれに応じます。これにより朝鮮は、後金を兄として敬うこと、明朝の元号を用いぬこと、王族を人質として差し出すことを約束させられ、見返りに互いの領土を侵害しないことが取り決められます。また両国の国境には市場が設けられ、後金の毛皮や人参などは高値で朝鮮に売りつけられて資金稼ぎに用いられました。後金は明朝と交易できないため、朝鮮を抜け道として交易を行っていたのです。

 この頃、モンゴルではチャハル部の長リンダン(リグデン)がハーンの位にあり、勢力を伸ばしていました。彼は分裂抗争するモンゴル諸部族を再統一すべく、1627年にハルハ部、1628年にハラチン部を攻撃しました。モンゴル高原東部から大興安嶺にかけてのモンゴル諸部族は、これを受けてホンタイジに救援を求めます。ホンタイジは彼らと同盟してチャハル部を圧迫し、リンダンは西へ移動してトゥメト部・オルドス部を征服、フフホトを占領して大きく勢力を広げました。外ハルハや明朝もリンダンと手を結び、ホンタイジはしばらく西へは動けなくなります。

 この頃、明朝では天啓帝が崩御し、弟の由検(崇禎帝)が跡を継ぎます。彼は権勢を振るった宦官の魏忠賢を誅殺し、徐光啓らを登用して国政改革に取り組み、衰えた明朝を再建しようとしました。徐光啓はキリスト教徒で、西洋のイエズス会士から教えを受け、暦や天文学に精通していました。ヌルハチを倒したのもポルトガルの大砲ですから、この頃の明朝は西洋諸国と結構友好関係にあったのです。

 しかし1627-28年に陝西地方で旱魃が発生し、1630年に王嘉胤らが飢民を集めて武装蜂起します。彼らは兵士や群盗を糾合して各地を荒らし回り、山西・河南を制圧しました。1631年に王嘉胤が死んだ後も王自用高迎祥羅汝才張献忠李自成らが各々武装集団を率いて戦い、明朝を内側から揺るがします。明朝は官軍を派遣して鎮圧にかかりますが、この間に後金は着々と勢力を蓄えていきました。

 1629年、袁崇煥は独断で毛文龍を逮捕し処刑しますが、翌1630年に彼も讒言に遭って処刑されます。これはホンタイジの陰謀によるもので、翌年8月には明朝に侵攻、錦州の前線基地の大凌河城を包囲します。守将の祖大寿は袁崇煥の部下でしたが、偽って後金に降り、錦州城を説得すると称して明側に戻ると守りを固めました。一方、毛文龍の部下だった孔有徳・耿仲明・尚可喜らは後金に内通し、一部は山東半島で反乱を起こします。

大清建国

 1634年、リンダン・ハーンがチベット遠征途上に甘粛で病死すると、僅か12歳の息子エジェイ・ホンゴルが跡を継ぎます。ホンタイジは混乱に乗じてフフホトを襲撃し、エジェイは逃亡した末に追い詰められ、1635年6月に母とともに降伏しました。彼は「制誥之宝」と刻まれた大元の玉璽を献上し、ここに大元・モンゴル帝国の天命は後金に遷った、と喧伝されます。1206年のモンゴル帝国建国から430年、1271年にクビライが国号を大元大蒙古国と改めてから364年が経過していました。

 この玉璽の出どころは実際怪しく、伝説によればアルタン・ハンの時に土中から掘り出されたもので、リンダンが滅ぼしたトゥメト部に伝わっていたといいます。またエジェイは「クビライの帝師パクパが作った」とされるマハーカーラ(大黒天)の像を献上してもいますが、パクパはサキャ派、トゥメト部が奉じるダライ・ラマはゲルク派です。まあ権威付けにはなりますし持っておいて損はありません。なおリンダンの妃ナムジョンバトマゾーはホンタイジに娶られ、箔付けに利用されています。一応ハルハ部などもホンタイジに使者を送りましたが、友好国程度の扱いです。

 またホンタイジは北東の野人女直/ウディゲ三部(ワルカ/オランカイ・クルカ/フルハ・ウェジ/ウディゲの三部族)を服属させ、先述のように「我々(女直族)はブクリ・ヨンションの末裔である」との族祖神話を捕虜に語らせています。民族統合のために同祖を作るのは常套手段です。

 1635年11月、ホンタイジはジュルチェン(女真/女直)という民族名を改めてマンジュとし、漢字表記を「満洲」としました。女真/女直は「服属する民」のニュアンスがあるからといいますが、マンジュの号はヌルハチの時から使われており、遡ればおそらくは釈迦奴の子の李満住、おそらくは文殊菩薩(マンジュシュリー)を語源とします。これに先立つ1632年にはモンゴル文字を応用して満洲文字を作らせ(ヌルハチの時に作られたものを改良)、漢字・モンゴル文字とともに通用させました。

 1636年(天聡10年/明の崇禎9年丙子)4月、ホンタイジは首都の瀋陽(ムクデン)において満洲人・モンゴル人・漢人の三民族に推戴されてハーン/皇帝に即位し、国号をアイシン/後金から改めてダイチン/大清とし、改元して崇徳(wesihun erdemungge)としました。ここに大清国(ダイチン・グルン)、すなわち清朝/大清帝国が建国されたのです。

 満洲といい清といい、さんずいがつきます。これは諸説ありますが、五行思想によるものともいいます。明朝は南方に興って北元蒙古を駆逐した火徳(朱姓・明国)の王朝ですから、金では火剋金で熔かされて勝てません。そこでさんずいをつけて水徳とすれば、水剋火で勝てるというわけです。水は北方、青は東方木徳の色ですから、チャイナの北東に興った王朝にはふさわしいですし、五行相生によれば金は水を生むので、金朝を継ぐというニュアンスも持たせられます。さらに金は西方に配されますから、西のモンゴルやアルタン・ハン、チンギスの末裔たる「黄金の家系(アルタン・ウルク)」を継ぐというニュアンスも含めることができます。漢人が俗説を吹き込んだのでしょうが、案外良くできていますね。洲は「川の中洲」を表す文字で、海に囲まれた島々や大陸も洲と呼ばれますが、マンジュはあくまで民族の名であり、土地を表す名ではまだありません。

 同年5月末、大清皇帝ホンタイジはアジゲとアバタイに命じて明朝を攻撃させます。8月にはドドとドルゴンに山海関方面を襲わせ、明軍を東に引き付けておいて北京北方の居庸関などをアジゲらに襲わせます。しかし北京の守りが堅いと見て深入りはせず、朝鮮に標的を変更します。

 1636年末から翌年にかけて、ホンタイジは自ら呼号12万の大軍を率いて朝鮮を攻めます。朝鮮はホンタイジの即位式に使節を派遣したものの、明朝への義理から拝礼を拒み、帝位を認めなかったことによります。朝鮮軍は為すすべもなく、1637年1月末に降伏し、国王仁祖はホンタイジの前で皇帝に対する三跪九叩頭の礼を行います。朝鮮は明朝と絶交させられて清朝の臣下となり、人質や兵や物資を差し出すこと、正月や慶弔時は大臣が礼を献じに来ることなどが定められ、のち漢城に石碑を建ててその条文が刻まれました。

 朝鮮を服属させると、ホンタイジは改めて明朝を攻撃します。1638年から翌年にかけて、清軍は居庸関方面から長城を越えて北京郊外まで攻め込み、山東省にまで到達します。李自成・張献忠ら反乱軍は洪承疇に討伐されますが、陝西・河南から長江流域に移動して明朝を南から脅かします。

 1639年、洪承疇は薊遼総督に任命されて北方防衛にあたります。1641年に清軍が祖大寿の籠もる錦州城を包囲すると、洪承疇は拠点陣地を構築しながら徐々に前進し、持久戦に持ち込みながらも有利に戦を進めました。しかし軍費が足りず、朝廷から決戦を命じられ、やむなく錦州の南に布陣します。清軍は明軍の南側に布陣して包囲し、退路と補給路を遮断したため、明軍は浮足立って撤退し、総崩れとなってしまいました。1642年、洪承疇・祖大寿らはやむなく清朝に降伏し、ホンタイジに歓迎されます。

 この間、李自成は河南を制圧し、1641年には洛陽を陥落させ、万暦帝の子で福王に封じられていた朱常洵を処刑しています。福王は贅沢三昧で甚だ肥満しており、李自成は「福禄宴」と称して彼の肉をペットの鹿の肉と共に鍋で煮込み、人々に食らわせて復讐としたといいます。

 1642年、ホンタイジは庶兄アバタイに命じて雁門関から長城を越えさせ、大いに暴れ回らせます。しかし彼の凱旋から3ヶ月後、1643年8月にホンタイジは突然倒れ、51歳で崩御しました。脳出血等によるものと推測されます。跡を継いだのは6歳の皇子フリン(福臨/順治帝)で、彼を担いだ摂政ドルゴンらによって、清朝はチャイナを征服することになります。

◆泡◆

◆虜◆

【続く】

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