【つの版】ウマと人類史:中世後期編20・陸海平定
ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。
1512年、オスマン帝国皇帝バヤジット2世は退位させられ、息子セリムが跡を継ぎました。彼は8年という短い治世の間に領土を大きく広げ、オスマン帝国は黄金時代を迎えるのです。
◆野望◆
◆世界◆
波斯撃破
セリムが即位した頃、オスマン帝国の最大の敵は東方のサファヴィー朝でした。彼らはアナトリア半島に割拠する多数のトゥルクマーン(イスラム化したテュルク系騎馬遊牧民)を煽動して味方に引き入れ、東方を不安定化させていました。かつてバヤジット1世がティムールに敗れたのも、これら東方の諸侯が煽動されて背いたためにほかなりません。
オスマン帝国は君主の家系がテュルク系の出自を持ち、ペルシア語やアラビア語、ギリシア語などが混在したテュルク系の言葉(オスマン語)を話していたため、東ローマからはトゥルキア(Tourkia)、すなわち「テュルク人の国」と呼ばれていました。これが欧州諸国に入り、イタリア語でトゥルチア(Turcia)、スペイン語でトゥルキア(Turquía)、フランス語でトゥルキィ(Turquie)、英語でターキー(Turkey)となりました。その民はトゥルコス、トゥルクス、トゥルクなどといい、日本語の「トルコ」はポルトガル語を通じて伝わったものです。
しかし、当のオスマン帝国は自らをそう呼ばず、「オスマン家の崇高なる国家(Devlet-i Alîye-i Osmânîye)」などと呼びました。欧州ではオスマンのもとの名であるオットマンで呼びます。オスマン語において「テュルク」とは「田舎者」ぐらいの呼び方で、住民はルーミー(ルームの地に住む者、ローマ人)と名乗っていました。また三代目の君主ムラト1世の母はアナトリアの(元)キリスト教徒ですし、バヤジット1世やメフメト2世の母はルメリア出身の女奴隷で、外戚が力を持つのを避けるため、皇帝の母は非テュルク系の女奴隷ばかりです。同様にアッバース朝カリフの母も奴隷がほとんどです。母方の血統も重視するモンゴル帝国とは異なっていますね。
セリムは東方へ集中するためハンガリーと和睦し、アナトリアの反オスマン派を次々と粛清して、サファヴィー朝との決戦に乗り出します。またイスラム法学者から「サファヴィー教団はシーア派で異端である」との法解釈を引き出し、彼らとの戦いはスンニ派の正統教義を守る聖戦と宣言しました。アッバース朝のカリフを擁するマムルーク朝を敵に回しておいてスンニ派の正統もないものですが、プロパガンダとはそんなものです。
1514年夏、セリムは自ら大軍(6-20万)を率いて東方へ親征します。サファヴィー朝はスキタイ以来の騎馬遊牧民の得意技「焦土作戦」を行い、アナトリア東部からアルメニア高原にかけての山岳地帯を荒らし回ります。オスマン軍は各地で兵站を切られて危機に陥り、不満を抱いたイェニチェリがセリムの天幕に発砲することさえあったといいます。
セリムは根気強く前進し、ヴァン湖の北の古戦場マラズギルトを越え、ヴァン湖北東のチャルディラーン平原に進軍します。ここは現トルコ・イラン国境の近くで、北にアララト山を望み、南東へ進めばサファヴィー朝の首都タブリーズまで300kmあまりです。サファヴィー朝の帝王イスマーイールはここに騎兵数万を集結させ、オスマン軍を迎え撃ちました。
勇猛果敢な騎馬軍団クズルバシュに対し、オスマン軍のアナトリア騎兵軍団は劣勢でしたが、オスマン軍には多数の銃と大砲が装備されており、これによって騎馬軍団を撃破します。もとの兵数に差があったこともあり、サファヴィー軍は総崩れとなり、イスマーイールは多くの家臣を失ったうえ妻を捕虜にされ、かろうじて逃走しました。オスマン軍は追撃して9月にはタブリーズを陥落させますが、冬が近づくと追走を諦め撤退します。
埃及平定
タブリーズは奪還されたものの、イスマーイールのカリスマは失墜し、セリムは1515年にはクルディスタンやキリキアも制圧、翌年にはマムルーク朝が支配するシリアへ侵攻を開始します。マムルーク朝のスルタン・ガウリーは自ら兵を率いてアレッポへ向かい、その北のダービク平原でオスマン軍と対峙しました。セリムは左翼の将軍でアレッポ太守のハーイル・ベイを寝返らせておき、先んじて攻撃をかけます。マムルーク騎兵は突撃をかけてオスマン軍を蹂躙しますが、ハーイル・ベイの寝返りとフェイクニュースによって総崩れとなり、ガウリーはショックのあまり脳溢血を起こして死にます。
勢いに乗ったオスマン軍は追撃をかけて莫大な戦利品を獲得し、シリアを平定します。さらにパレスチナを駆け抜けて同年末にはエジプトに迫りました。1517年1月、セリムはマムルーク朝を攻め滅ぼし、その傀儡であったアッバース朝のカリフを恭しく帝都コスタンティニエ(イスタンブール)へ遷します(1543年に逝去し断絶)。またマムルーク朝の支配下にあったマッカとマディーナ、エルサレムの三大聖地もオスマン帝国の統治下に入り、スンニ派イスラム教徒の盟主の地位を獲得しました。
1516年には、バルバリア海賊のオルチ(ウルージ)とハイレッディンの兄弟がアルジェをスペインから奪っています(1520年にスペインが奪還)。彼らはチュニジアのハフス朝、アルジェリアのザイヤーン朝を保護国とし、オスマン帝国の覇権はアジア・ヨーロッパ・アフリカの三大陸にまたがることとなり、黒海と地中海の大部分、紅海までもが支配下に入りました。
セリムはエジプトから凱旋するとロドス島を征服せんとしますが、1520年9月に病のため崩御しました。皇子スレイマンが大帝国の跡を継ぎ、彼のもとでオスマン帝国は最盛期を迎えることになります。これ以後は近世史として語ることにしましょう。
建国伝説
オスマン帝国は建国から200年あまりで大帝国となったわけですが、その君主の血筋は男系で継承されたものの、始祖オスマン(オットマン)以前はどこで何をしていたのか定かでありません。クリミア・ハンやティムール朝のようなチンギス・カンの末裔でもなく、サファヴィー朝のイスマーイールのように預言者ムハンマドの娘婿アリーの子孫と称してもおらず、アッバース朝カリフのような長い系譜もありません。これでは不都合なので、オスマン以前の系譜が次第に整えられ、権威付けされていきます。
オスマンの父はエルトゥールル(Ertuğrul)といい、これはオスマンの子オルハンが祖父の名としてあげていることから、実在性が定からしくはあります。トゥールル/トゥグリル/トオリルはテュルク諸語でタカやハヤブサなどの猛禽類を指し、ハンガリーでは建国の祖を導いた霊鳥トゥルルが知られています。セルジューク朝の初代君主はトゥグリル・ベクといいますし、チンギス・カンが仕えたケレイト王はトオリルといいました。
エルトゥールルの父に関しては諸説あります。メフメト2世の父ムラト2世の時代には『セルジュークの書』が記され、ギョク・アルプ(Gök-alp)の子孫がエルトゥールルとデュンダール・ベイとされますが、後の史書ではエルトゥールルの父をスレイマン・シャーと呼んでいます。またティムールによって破壊された国を立て直しトゥルクマーンを味方につけるためもあり、彼らはトゥルクマーンの帝国セルジューク朝を先祖に位置づけました。
前に述べた通り、セルジューク朝はオグズというテュルク系の部族連合がもととなって勢力を広げ、モンゴル帝国以前に中央アジアから中東一帯を支配下に置いた騎馬遊牧民の大帝国です。彼らはスンニ派ムスリムで、アッバース朝カリフを名目的な君主に戴いてスルタンやパーディシャーと名乗りました。またトゥグリル・ベクの従兄弟クタルミシュの子をスライマーンといい、本家と分かれてルーム・セルジューク朝を建国しています。
この国はアナトリア中部・東部を支配して栄えましたが、1243年にモンゴル帝国に敗れて服属します。その後はフレグ・ウルスやマムルーク朝の間で動揺し、トゥルクマーンたちは分裂して相争い、1308年に最後のスルタンが逝去して断絶しました。オスマン帝国はその後継国家と称したのです。
オスマン帝国の史書が述べる伝説によれば、スレイマン・シャーはオグズ族のカヤ・アルプの子であり、イラン東部の領主でした。しかしモンゴルの侵入によって故郷を離れ、1236年頃にユーフラテス川を渡ろうとして溺死しました。遺された一族のうち一部はエルトゥールルに率いられてさらに西へ向かい、ルーム・セルジューク朝のスルタンを助けてモンゴルと戦い、キリスト教徒に対する聖戦に従事することになった、といいます。
1236年というと、モンゴル皇帝オゴデイが南宋とキプチャク草原への大遠征を発令した年で、イラン高原とマーワラーアンナフルを支配していたホラズム・シャー朝はすでにモンゴル帝国に征服されています。モンゴルと戦ったルーム・セルジューク朝のスルタンはカイホスロー2世で、1243年にキョセ・ダーの戦いで敗れ服属しています。
この戦いにエルトゥールルが参戦したとして、子のオスマンは13世紀なかばに生まれ1326年まで長生きしたといいますから、オスマンが生まれたのはこれより後です。オスマンによる建国年はヒジュラ暦699年、西暦1299年とされますが、これもイスラムの改革者が現れるという「世紀の変わり目」に合わせたフシがあり信用なりません。
烏古可汗
では、それ以前はどうでしょうか。すでにセルジューク朝やその後継国家は自分たちを権威付けするために様々な神話伝説を作り出していますから、これを借用すれば済みます。11世紀のカラハン朝王族の学者カーシュガリーは、「テュルクは20の大きな集団に分かれ、西方にはペチェネグ、キプチャク、オグズがいる。オグズは22の氏族に分かれており、そのうちのクヌク氏族からセルジューク家が出た」と記しています。
14世紀初め頃、フレグ・ウルスで編纂された『集史』では、これを再編して「オグズには24の氏族があった」としています。また「オグズ族の始祖はオグズ・ハンといい、ヌーフ(ノア)の第三子ヤーフィス(ヤフェト、ヤペテ)の子孫である。彼にはキュン(日)、アイ(月)、イルディズ(星)、キョク(空)、ダグ(山)、デニズ(海)の六人の子がいた。各々が四人の子を儲け、これが24氏族の祖である」としました。
ムスリム化したオグズ族はトゥルクマーン(テュルクに似た者)と呼ばれるようになり、それぞれ24氏族の子孫を称しました。セルジューク朝はデニズの子クヌクの子孫、12世紀中頃にファールス地方で自立したサルグル朝はダグの子サルグルの子孫、14世紀後半にアゼルバイジャン地方に興った黒羊朝はデニズの子イウェの子孫、白羊朝はキョクの子バユンドゥルの子孫を称したのです。ムラト2世の頃、オスマン朝の先祖を「ギョク・アルプ」としたのは、白羊朝と同じくキョク/ギョクの末裔だとする伝承が早くから存在したのでしょう。しかし白羊朝と対立すると別系統の始祖が必要となります。
そこでムラト2世は、オグズ・ハンの長子キュン/ギュンの長子であるカイ(カヤ、カユ)の氏族をオスマン家の始祖とします。彼とその氏族こそはオグズ族の長であり、オスマン家はオグズ族の末裔たるトゥルクマーンの盟主であると定義したわけです。カヤはテュルク語で「岩」を意味し、王朝の長久を予感させますし、ペルシア文化圏での王号カイにも通じます。こうしてエルトゥールルの祖父はカヤ・アルプと呼ばれ、ギョク・アルプも系譜の中に架上されて、オグズ・ハンやヤーフィス、ヌーフ、アーダムに至る系譜が完成します。どうせ神話伝説ですが、それらしい箔付けにはなりました。
バヤジット2世の頃には、帝国の祖をイスハークの子アイス/イスー、すなわちユダヤ教の聖書『創世記』に登場するイサクの子エサウであるとする史書も現れます。これはユダヤ人によりローマ帝国が「エサウ(エドム)の子孫」とみなされていたことに由来するらしく、「ローマを征服するのはイサクの子孫である」という伝承も存在したため、系譜のほうを捻じ曲げたのです。これにより「カユはエサウのことである」と再定義されました。
エサウはヤコブ(イスラエル)の兄であり、ヨルダン付近のエドム人の祖とされます。彼の祖父アブラハム(イブラーヒーム)はイスラム教においても預言者、アラブの祖イシュマエル(イスマーイール)の父として崇敬されます。しかし彼らはノアの長子セムの子孫であって、ヤペテの子孫ではありません。テュルクの祖はヤペテだとする伝承はイスラム以前から存在したため、どうにもちぐはぐなことになりました。
セリムはこうした歴史書を再編する前に崩御しますが、スレイマンの時代にはカユ=エサウ説は抹消され、ヤペテの子孫に戻されます。またセルジューク朝との繋がりが薄れ、仇敵であったはずのモンゴル帝国との繋がりが強調されるようになっていきます。オスマン帝国は世界帝国たるモンゴル、その「原型」たるオグズ・ハンの子孫として、世界帝国を標榜したのです。
24の氏族を率い、世界を征服したとされるオグズ・ハンは、19世紀初頭にロシアの東方学者イアキンフによって匈奴の冒頓単于と結び付けられます。匈奴にはまさに24の「万騎」と呼ばれる諸侯王がおり、彼らが連合して大帝国を築いていたからです。またイラン神話におけるトゥーラーンの帝王アフラースィヤーブの影響も感じられます。おそらくそうした伝承にチンギス・カンなど実在の遊牧帝国の君主らが重ね合わされ、オグズ・ハン伝説が生まれたのでしょう。実際のオグズ(呼掲)は冒頓単于ら匈奴に従う辺境の部族に過ぎなかったようですが。
◆ウマ◆
◆娘◆
きりもいいので中世後期編はここまでです。次回からは近世編として、16世紀前半から19世紀なかばまでを見ていきましょう。
【続く】
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