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2023年11月の記事一覧

【つの版】度量衡比較・貨幣116

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。  17世紀、欧州諸国は引き続き戦乱に明け暮れていました。世界各地の入植者や商人・海賊も国際情勢に呼応して相争っています。北米とカリブ海は前回見ましたから、次は南米・アフリカ・インド洋・東アジア方面です。 ◆Rivers of◆ ◆Babylon◆ 奴隷貿易 南アメリカ大陸は、1494年のトルデシリャス条約により、現ブラジル東部を除く大部分がスペイン領とされていました。1580年にポルトガルがスペインに併合(同君連合として

【つの版】ウマと人類史EX41:奥州合戦

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  平家追討の総大将であった源義経は、兄頼朝と仲違いして都を去り、吉野山に潜伏したのち、文治3年(1187年)に奥州藤原氏のもとへ落ち延びました。頼朝は義経追討のため、奥州への遠征を開始します。 ◆炎◆ ◆立◆ 平泉三代 まずは奥州藤原氏について振り返ってみましょう。寛治元年(1087年)に後三年の役が終わり、源義家の支援を受けて清原氏を滅ぼした藤原清衡が陸奥国(奥州)と出羽国(羽州)の覇者となります。彼は摂関家に貢納して地位を

【つの版】度量衡比較・貨幣115

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。  17世紀の欧州は、三十年戦争・清教徒革命・仏西戦争・英蘭戦争・仏蘭戦争と戦乱に明け暮れていました。フランスは富国強兵を推し進めて領土拡大に邁進し、オランダは英国やハプスブルク家とともにフランスに対抗することになります。ひとまず欧州から離れ、17世紀の世界を見てみましょう。 ◆海◆ ◆賊◆ 北米争奪 まずは北アメリカ大陸から見ていきましょう。フランスは17世紀にセントローレンス川流域に植民地「ヌーベルフランス」を建設し、

【つの版】ウマと人類史EX40:文治勅許

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  元暦2年(1185年)2月、源範頼率いる鎌倉軍は北部九州を制圧し、平家を瀬戸内海に封じ込めます。京都にいた源義経は寡兵を率いて摂津から阿波・讃岐へ向かい、平家の本拠地・屋島を奇襲して西へ撤退させます。平家は制海権を失って海上に漂流し、長門国の壇ノ浦で最後の時を迎えるのです。 ◆平◆ ◆家◆ 平家滅亡 讃岐を追われた平家軍は、安芸国厳島を経て長門国の赤間関(関門海峡)に浮かぶ彦島に逃亡しました。義経は朝廷や頼朝・範頼に報告した

【つの版】度量衡比較・貨幣114

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。  1672年3月末、英国王チャールズ2世は議会の反対を押し切ってオランダに宣戦布告します(第三次英蘭戦争)。4月にはフランスがオランダに宣戦布告し、仏蘭戦争が始まりました。オランダは国家存亡の危機に陥ります。 ◆Wilhelmus◆ ◆van Nassouwe◆ 対仏包囲 1672年7月、フランス軍が南部諸州を制圧する中、オランダの市民は弱腰の共和国政府に反旗を翻し、22歳のオラニエ公ウィレム3世をオランダ総督に担ぎ上げ

【つの版】ウマと人類史EX39:屋島合戦

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  寿永3年(1184年)正月、木曽義仲は源頼朝が派遣した義経・範頼および甲斐源氏の連合軍に敗れて戦死します。後白河院は頼朝と手を結び、義経らに改めて平家追討を命じました。ついに源平合戦は最終段階へ入ります。 ◆鵯◆ ◆越◆ 鵯越逆落 この頃、義仲と頼朝の争いに乗じて平家は勢力を盛り返し、瀬戸内海を制圧して摂津国福原(現兵庫県神戸市兵庫区・中央区)まで戻っていました。同時代史料である九条兼実の日記『玉葉』には「官軍(源氏連合軍)

【つの版】度量衡比較・貨幣113

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。  フランスの宰相マザランが1661年に没した後、国王ルイ14世はコルベールを財務総監に任命します。彼は重商主義を掲げて20年に渡り財政改革を推し進め、フランスを強国へと導くことになります。 ◆仏◆ ◆蘭◆ 重商主義 コルベールは1619年にランスの裕福な商人の家に生まれ、叔父が戦争国務長官ミシェル・ル・テリエの姉妹と結婚したことから、20歳頃には軍の査察官を経てル・テリエの個人秘書となっています。1647年には叔父の財産

【つの版】ウマと人類史EX38:寿永宣旨

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  寿永2年(1183年)6月、北陸道から攻め上った木曽義仲は平家軍を打ち破って京都に迫り、平宗盛らは安徳天皇と三種の神器を携えて摂津福原へ逃走しました。義仲は後白河院を奉じて上洛し、平家追討を命じられます。 ◆東海◆ ◆道中◆ 新主践祚 平家を駆逐して上洛した義仲でしたが、ここで後白河院との対立が生じます。平宗盛らは福原をも捨てて瀬戸内海を西へ逃げ、九州・大宰府へ向かっていましたが、天子と神器を擁する彼らが官軍を称すれば問題で