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数学を解く

祝日。

今日はシフトを入れても良かったのだが、習熟度に応じて土曜や祝日対応してもらうことはありますが今はまだいいですよと言われたので、一応お休みをもらっている。偶然大学の卒業式が毎年3月20日なので、10分歩けば1年受け持った学生におめでとうと言いに行くこともできるのだが、辛い思い出が多すぎて出向くことができない。なんというかあの場所は情報量が多い。

こんなに僕の人生においてインパクトの大きかった環境はない。今後も出てこないのではないかとさえ言いたくなる。4年経った今でも僕の人生に大きな光だか影だかを落としている。とにかく振り返ると気持ちが落ちる。あの場でやった経験のうち何割が心の準備もないまま投入されただろう。どれだけ自信のあるふりをして心に噓をついて周りに合わせたかわからない。僕は僕の夢の為にあの場所にいたはずだったのに、こうも後の人生に影響するものか。ちょっと得たものもダメージも大きすぎやしないか。なんとでも言えるのだが、勇気を出して起きようとすると身体が布団から離れなくて、やっぱり今日もだめかもしれない。もうみんなに会えないのか。会えなくてもいいかな。憧れなんだけど、憧れてるようじゃだめなんだけど…。ある程度はもう、だめでもいいかなって思わなくちゃいけない気もする。あそこにいた人たちは僕の手の届かない存在でしたと、憧れでしたと言って、前を向くのが僕にはいいのかもしれないと今は思う。

自分の身の丈にあった環境で、自分にとって最もちょうどいい難易度の課題をもって、思考時間をもって人生をやりたい。僕が取り組みたい研究は僕にとって難しすぎる課題ばかりだった。なんとか形にはしたが、その中身はほんとうにすっからかんで、果肉のない内容に終わってしまった。モノができるようになるためには、まず前提としてこれが解らなきゃならないですよというレールのようなものが何でもあるのだろうが、僕はそのレール通りに課題をこなすことも、そこで考えて出せた結果を用いて次の段階の課題に挑むという動き自体も、あまりちゃんとできてないような気がした。そしてそれはこれまでの人生の詰めの甘さを証明させられる時間のような気がして、僕は僕なりに頑張って生きてきたんだけどなというその心の声さえも一瞬で潰されてしまうような気がして、ひたすら苦しかった。

なんか、このへんの漠然とした困難がうまく乗り越えられるようになるだけで僕の人生は相当いい方向に行く気がする。なんかよくわかんないけど、ものの感じ方を変えたらすごく得する気がする。あまりむやみに影響されずに自分のなすことを着実にやるだけで満足できる日々を切実に送りたい。ほんとうなら今までやってきたことが「ちゃんとできる」だけで僕の人生は相当いいものになるはずで、しかし僕が至らないが故にそうなれない。今足りないものはなんなのか、あの時あの場であれができなかったのはなぜだったのか、ずっと今までもこれからも埋まらないパズルを解き続けるのだろう。

ネットから拾ってきた中学数学を解きながら、ああものができるようになる過程ってそもそもこういうことだったんだ、ここで感動できるのが筋のいい奴なんだと、人生をやり直すかのようにふとペンを動かす。何をやるにしてもどういう状態まで行けば僕はこれができますと公言していいのだろう。どこまでやっても自分に自信がないという結論になってしまうのは、あんまり健康的な主観の持ち方ではないような気がするのだが。

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