誰も僕を殺してくれなかった話

僕は正直大人になるまで生きてられないと思った。自分の大人の姿なんて想像できなかった。それが今は見てくれだけは大人になってしまった。かわヲいJKって認識してくれてもいいんだよ♡

それはまぁひとえに誰かが僕を殺さなかったし、僕もまた死ななかったからだね。

「生殺与奪の権を他人に握らせるな!!!」

なんて半々羽織の鬼狩りが言ってたが、冷たい雪に額をつけるほど僕は「それ」を欲していたのかもしれないし、いなかったかもしれない。欲するもくそも普通それは酸素や水と同じで生活していたら自然と消費しているものだ。いる、いらない関係なくこの権利は、行使されている。(こんな駄文書いてる間に1秒、また1秒と僕の命は消費されていく。)

僕とお母さんと弟は仲良いが、割とみんな狂ってる?時期もあったと思う。(あっ、母のことは大好きです!!)

元父親は、とりあえずお酒☆暴力☆って書いとけば何となく想像が着くだろう。色々あったけど、弟が庭の木を傷つけたら、弟に馬乗りになって包丁向けてたのは印象深かったですね。(小並)小学生並みの感想だけど、お姉ちゃんは怖くて止めることとかできなくてごめんね。まぁ僕も殴られてたし、暴言吐かれてたね!お互い様だね!意外と自分ことはなんでか覚えてないけど、よく片付けろ、電気つけっぱなしと怒られてました。怒られるってレベルじゃねーぞ!!こんな怒られ方したから、逆に習得できなかったんじゃないかと思う時期もありましたが、このポンコツさは生まれ持ってのものかもしれません。

母も母で大好きでしたが、ヒステリックな怒り方をする人でした。お野菜食べないからって、無理矢理抱っこして三角コーナー見せて来たのが小さい頃のトラウマです。普通に殴られもしましたし、あざ作った時なんかは、幼稚園では、転んだって言っておくんだよと言われたんで、ちゃん守りました。(アザで思い出しましたが、弟の七五三の写真は父に殴られた時のアザを隠して撮りました!炭治郎もびっくり!)こう書くと父も母もやべぇじゃんと思うかもしれないが、母は普段は優しかったし、母親としての子育てをしていたので、子供ながらに大好きでした。一方、父親はただのやべぇヤツと子供ながらに早々に認識してしまい、懐かなかったため余計に軋轢を産んだのかも知れません。

母に中学の時にはT女(地元の1番頭いい女子高)落ちたら、めっちゃお酒飲んだ勢いで殺すと母に言われてたし(1回や2回言われただけじゃないです)、父に色々言われて泣いてる私を見て首を絞めてきたし、どれぐらい閉めたかは、分かりませんが結構苦しかったです。歯がガクガクしました。弟はよく産まなきゃ良かったと言われてましたね。僕も言われたかもしれませんが、圧倒的に弟の方が言われてたと思います。僕はとても酷いお姉ちゃんで、お母さんひどいなぁ、弟可哀想と思いながらも、私と弟だったら、私の方を好いてくれる母であることが嬉しいと心のどこかで感じていました。(これ打ってて思ったけど…なんで今仲良いんだろ。)ただ母は時々3人で飛び降りて死のうと提案してきましたが(2階から)私は毎回いいよと言ってたのですが、弟が嫌がったためになしになりました。弟を置いていったり、無理矢理巻き込む面目はなかったようです。

母は結局夜逃げ同然で私が中3の時に衝動的に家を出たため、私の前の家には私のランドセルやらなんやら残ったままです。仲良くなった教育実習生の先生から貰ったパズルのピースを置いてきてしまったことと、2005年放送のドラえもんのビデオを置いてきてしまったのが心残りです。時々思い出して苦しくなります。物に執着しがちな原因はこれかもです。

出ていった先も祖母宅は歓迎はしてくれなかったんでそれはそれで、大変だったのですが、まぁ前より環境は安定したので、他者からの生き死にの話題は出てこなくなりましたとさ。

(補足)結果としてT女には、落ちたのですがその事についてほかの回でもうちょっと詳しく触れられたらなと思いますが、まぁこんな環境だったら、受かるわけないよね!しゃーない!と自分を慰めておきます!!!(偏差値的にはギリ生ける!あなたよりも低い子も受かってるよ!って感じでしたね。)でも殺されなかったし、母の中でT女は、嫌な人たちの集団という認識に置き換わりましたとさ。

今、僕は21歳卍。チャリを捨てた子供に拳で戦わなければならないとだ。戦われば生き残れない!戦え!戦え!



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