江戸の噺家は客に媚びない
今週もひきつづき『文字の知画』から一コマを切り出す。今度の人物は、「はなし」。さしずめ今日の落語家と変わらず、いっぱしの「噺家」なのだ。
まずその人物像を眺めてみよう。扇子を片手に握り、素っ気ない着物を着こなして、口を大きく開いて立て板に水よろしくと言葉を止まりなく発し続ける。わたしたちが想像する噺家のイメージそのものだ。
いうまでなく文字で遊ぶというのがここのテーマなので、「はなし」という三文字がりっぱに入り、人物を描き出している。仮名の「は」は「者」を字母とするもので、今日はすでに使われていないが、あとの二つの仮名は今日のと同じなのだ。
そして、この絵につく文章は、とにかく楽しい。
まずは、噺家にもっともらしい歌を一首。
精進(せうじん)迄おちのくるこそ道理(だうり)なれ
尾鰭(をひれ)をつけしはなし上手(じやうず)は
落ちを付けて聞く人を喜ばせるのが普段の精進努力の賜物だ。そこへきて、噺家の腕前は、なによりも「尾鰭をつけて」もともと根も葉もないことをこれでもかと畳みかけることなのだ。考えてみればその通りだろう。そしてさっそくこの噺家の口上として短い一席が紙上に展開されてくる。
まずは、文章を現代の仮名に書き直そう。
さあさあ、これからしんみりとおもしろいはなしをいたそふ。みなしんびょうにしておききなさい。えへんえへん、これ、そこのあねさん、その子をなかしてはわるい。そとへつれて出なさい。これこれ、おぢいさん、おまへそこへすいがらをはたきはあやまる。むせてくるしい。そしてむせうにうしろでせきをせしはだれだ。やかましくてならない。もしもしとなりのおばあさん、はなしをきくにねんぶつはいらない。だまってゐてくんなさい。ゑゑ、またこの子どもしゆはそうぞうしい。それそれ、あんどんがあぶない。いや、このなかでだれがいびきをかいている。これはまたさけくさい。このやうにやかましくては、はなしはできぬ。まずこんばんはやめにいたしませう。
句読点をつけただけで、すでに一読して意味が読み取れるかと思われるが、もうすこし付け加えて、漢字まじりの文章にしよう。
さあさあ、これからしんみりと面白い噺をいたそふ。みな神妙にしてお聞きなさい。えへんえへん、これ、そこの姉さん、その子を泣かしては悪い。外へ連れて出なさい。これこれ、お爺さん、おまへそこへ吸い殻を叩きは誤まる。噎せて苦しい。そして無性に後ろで咳をせしは誰だ。喧しくてならない。もしもし隣のお婆さん、噺を聞くに念仏はいらない。黙ってゐてくんなさい。ゑゑ、またこの子ども衆は騒々しい。それそれ、行燈が危ない。いや、この中で誰が鼾を掻いている。これはまた酒臭い。このやうに喧しくては、噺はできぬ。まず今晩はやめにいたしませう。
原文は数えて284文字、普通に読み上げると一分間の長さだ。しかし、妙に魅力があって、何回も読み返したくなる。まずはそのリズムがいい。賑わいが満ち溢れた江戸の名も知れぬ群集の空間、その鈍よりしていてどこか明るい空気、煙管の匂いまで伝わってきて身を包んでくれそうだ。
それにしても、江戸の噺家は、客に媚びない。それどころか、まるでわざと客を敵に廻しようとしている態度で、客を弄る。その場にいた老若男女は、はたしてこれを受けて笑っていたかどうか確かではないが、これを読んでいる今日の読者は、たしかに微笑ましくこれに接した。数日まえ、最近話題の映画「浅草キッド」を見たばかり。客に横柄に喧嘩を売ったあの師匠は、なんとこのような江戸の伝統を身をもって実践していたのだと気づいてはっとさせられた。
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