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エッセイ第一回目なので、エッセイにまつわるエピソードを。

年の功より亀の甲

 それはまだ、私がエッセイの何たるかを知らなかったときの話です。恥ずかしながら、こうやって実際に筆を執っている現在ですら、ちゃんと理解しているかは疑わしい限りですが……。


 それはさておき、あるとき私は、不意に「エッセイを書こう!」と思い立ち、新聞社が運営するカルチャーセンターへ、エッセイ講座の受講を申し込みに行ったのでした。いま思えば、あのとき「一度見学してみてはいかがですか?」という受付のお姉さんの言葉に素直に従っていればと悔やまれます。まさに「後悔先に立たず」です。


 そのときの私は、ちょうど都合のいい時間帯の講座が、そこしかなかったという事情もあって、その場で入会金と受講料の支払いを済ませ、申し込みを完了させたのでした。今だったらリモートがあるので、選択の幅がだいぶ拡がりましたが、地方在住だと選択肢が限られるので、こういうときは本当に不便です。


 いざ受講初日。新参者の私は、以前から受講している方々の所定席を奪ってはいけないという思いから、意図して開始直前に、講座が開かれる部屋へと入っていきました。そこに居並ぶ方々は、男女共にお年を召した方でした。それに加えて、指導してくださる先生までもが、お年を召した方でした。なんでもその先生は、カルチャーセンターを運営している新聞社の編集者をなさっていて、そちらを退職後に、こちらでエッセイの講座を受け持つことになったとか。


 一緒に机を並べる方たちも、そして先生も、お年を召しているからといって、それにどんな支障があるというのでしょう! ……と、私も思っていました、実際の受講内容を目の当たりにするまでは……。


 残念ながら、講座の内容は、私が思っていたものとは、まるで違うものだったのです。私が思い描いていたエッセイ講座というものは、生徒の提出した作品を、先生がエッセイの技法に基づいて添削し、品評し、それを受けて生徒たちが「この部分はこうしたほうがいいんじゃないか」とかいった意見を述べ合うような場所でした。ところがそこは、主にかつての出来事を文章に書き、発表し、思い出話に花を咲かせる場所だったのです。

 先生の指導というものも、一応文章としておかしいところは直すけれど、技法的な部分には一切触れず、やっぱりご自身も体験談や思い出話に流れていってしまいました。素人目にも、エッセイ講座として成立しているとは思えませんでした。なぜなら、生徒さんたちの書く作品が、全部作文だったからです。こういうことがあった、ああいうことがあったという文章がずっと続くだけ。それだと結局最後に受け手は「それで?」となって終わってしまいます。自分が思ったこと、感じたことが書かれていなければ随筆とは呼べません。エッセイはそれに加えて思索的な要素が含まれるもの。それらがなければ、読んでいて共感とかはできませんからね。


 そんなこんなで、鬱屈した思いを抱えていた私は、あるとき『夢』というお題が出たのをきっかけに、ひとつの作品を書き上げました。その内容は、願望のほうの夢を一方的に語られても対応に困る。対話ができる状況なら「それで?」って質問したりして、話を膨らませたりすることができるけど、文章だとそれができない。だから文章を書く際には、相手が興味を持つような要素を盛り込まないとダメですよね。といったものでした。ちょっとした皮肉を込めて、みなさんがどんな反応をするのか見てみたい。そういう意地の悪い悪戯心からのことでした。


 ですが、その思惑は、まったく思いもよらない形で裏切られました。
ひとりのご婦人が神妙な面持ちで、こう言い放ったのです。
「東日本大震災で、家族を失った人が、今が夢だったらどれだけ良いかって言ってるのを私は見知っている」
 その言葉を聞いたとき、私は「何の話をしてるんだろう?」と思ってポカンとしてしまいました。するとさらに別のご婦人が言ったのです。
「あなたにも夢があるでしょう?」と。
 その言葉で私はなんとなく推測することができました。おそらくこの人たちは、私が文章の導入部分で、夢を語られても困ると書いたので、私が夢というものを全否定していると思っているんじゃないかと。
 文章の本旨を完全に外れているその意見に、私は思わず「この文章の主旨とそのことにどんな関係があるんですか?」と言いそうになりました。年配の方だからという遠慮から、それを何とか我慢して黙っていると、なんと最年長の老紳士が、見事に私の文章の主旨を説明してみせてくれるではありませんか! それを契機に「読む人のことを考えて文章書いたことなんてなかった」という感想を言ってくれる人も出てきたりしました。それでもやっぱり、最初のご婦人ふたりだけは、なおも納得いかないという様子のままでした。


 一般に人は皆、歳を重ねれば思慮分別を身に付けると思われがちですが、そんなことは決してないということですね。逆に若い人はみんなダメという論もまた、本質を捉えていないということができると思います。十派一絡げにして物事を捉える人に、まともな判断は期待できないということでしょう。かく言う私もまた、あのエッセイ講座に所属している人はみんな文章能力が低いと勝手に思い込んでいました。だからこそ、私は私の作品の主旨を見抜いた老紳士の発言に驚かされたのだと思います。その方がどこまで見抜いていたかというと、その日講座が終わった後に、私のところにわざわざいらして「ここはあなたが求めているものを提供するところじゃないですよね」と、フォローしてくれるほどでした。その言葉で踏ん切りがつき、私はその講座をやめたのです。


 残念ながら、私はあの講座から、エッセイの技術面に関しては何も学ぶことはありませんでした。しかし、人の心に響く文章が書きたいなら、漠然とした、ひとまとまりの人を想定するのではなく、個別の人を意識しなければいけないということを学んだ気がします。エッセイを書くうえでは、技術よりそちらのほうが重要なので、それはそれでよかったと今では思うようになりました。これこそまさに「怪我の功名」というものですね。


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