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【歳時記と落語】小暑

020年7月7日は七夕ですが、基本的に行事も旧暦で紹介していますので、秋のところで触れることにいたします。

ここでは二十四節気の「小暑」の方でお付き合い願います。

「小暑」というのは、いよいよ暑さが強うなってくるということなんですが、大体梅雨の終わり頃にもあたっていますんで、まだまだ雨にも注意がいる時季です。
暑中見舞いも正式には大暑からですが、このあたりから出してもまあええことになってます。

この頃合の花というと、蓮です。涼しげで、この時期にはちょうどええんやないかと思いますが、午後には花がしぼんでしまいますんで、ご覧になる場合はお早い時間に。

今でも大阪は川や堀が結構ありますが、昔はもっと多かったんです。運輸の中心が船やったんで、当たり前ですな。それが自動車に取って代わられて、堀や川も埋め立てられました。
夏場、涼むというたら、川辺へでも出んと仕方なかった。橋の上やら浜やとかね。ここの「浜」いうんは海岸やのうて川岸のことです。昔は「住友の浜」てなことを言いました。こんな涼み方はまあ、我々同様という方ですな。
金のある方になると、屋形船やとか船を仕立てて遊びます。「遊山船」というやつです。

さて、ここにおりました喜六、清八という若いもん二人、夕涼みがてら、橋の上から川面を行く屋形船を眺めております。
「わあ、綺麗な船やなぁ。またぎょうさん別嬪さん乗ってるなぁ。清やん、あの別嬪さん、あれ何もんや?」
「何もんて、あらお前《出てる妓(こ)》やないかい」
「船の中に入ったはるで」
「せやあれへんがな。玄人やいうねん」
「色白ぉいがな」
「わからんやっちゃな。芸衆やがな」
「あぁ、あれ広島の女ごかいな」
「そんなこというてるさかいに、おまえはあけへんねん。あれは「芸者」やないかい」
そんなあほなこといいながら、また船の客を冷やかして声を掛けたりいたしております。わあわあ言うておりますと、出てまいりました一艘の船。どこぞの稽古屋の船と見えまして、揃いのイカリ模様の浴衣。
「ほら、賑やかな船が出て来よったなあ。こういうのんは誉めたらなあかんで。よッ、本日の秀逸。さても綺麗なイカリの模様」
「風が吹いても、流れんように」

さすがに粋なことと言うもんですな。

清八に、「お前とこの嬶はあんなことよういわんやろ」と言われた喜六、家に帰りますと、嫁さんに押入れから引っ張り出したボロボロのイカリ模様の浴衣を着せますと、タライを船に見立ててその上に立たせます。自分はと申しますと、屋根へ上がって欄干に見立てた天窓からそれを見下ろします。

「さても……、うわあ、汚いなおい。冗談でも綺麗とは言われんな。もう思たとおり言うたろ。あ、さても汚いイカリの模様!」

嫁さんもなかなかどうして粋なもんで、

「質に置いても、流れんように」

大坂の夏というと、この遊山船での夕涼みというのは、当時一般的だったようで、こういう見物人も多かったようですが、庶民でも、まあちょっと頑張ったらできんことはない、というくらいの贅沢やったようです。

幕末の浪士・清川八郎も、安政2(1855)年の夏、母とともに京阪を訪れたさいに何度か舟遊びをしております。旅日記『西遊草』6月29日には、母親を連れて夕刻に蜆川で舟を楽しんでおり、

 川のうちは遊舟いろいろありて、鐘鼓の声かまびすしく、酔を倍する事さらなり。坂都はさらに見物の地もあらで、夏のうちは船遊にまさるはあらず。川のはた一面の娼楼にして、翠燈をかがやかし、流れは溽々としてわづか当身の深さなれば、転溺のうれひあらず。船遊びは誠に大坂の至楽、遊覧者必らずいたるべし。

と記しております。翌日には、

船遊びはすべて坂都第一の遊びなれども、中に網舟は尤とも佳興多く、一入のたのしみあり。

とも記しています(以上の引用は、清河八郎/小山松勝一郎校注『西遊草』岩波文庫による)。

喜六や清八でも自前で遊山船で遊びに出かけた噺もあります。

喜六は清八に三分の割り前を立て替えてもろうて、遊山船に乗り込みます。いつもは人のお供で連れて行ってもろうてるんで、「弁慶」やと馬鹿にされています。しかし、今度は立て替えてもろうたとはいえ、自前ですから、「弁慶」やと言われたら、言い返して、芸妓を見返してやろうと、いらんところで張り切っております。

さて、一方、喜六の女房・お松、友達と大川端まで夕涼みに出かけてきまして、ふと舟をみると、亭主が遊んでいる。
頭にきたお松は、喜六の乗っている遊山船に乗り込んで、掴みかかるやらひっかくやら。
酒の勢いもあって、喜六はお松を川へ突き落としてしまいます。幸いに川は浅いて足が立ったんですが、お松の様子がどうもおかしい。

「そもそもこれは桓武天皇九代の後胤平知盛幽霊なり」
「わあ、うちのカカ、気が違うた。清やん、そのシゴキ貸して」

扱き帯を手にしますと、喜六、

「そのとき喜六は少しも騒がず、数珠さらさら押し揉んで。東方降三世夜叉明王 南方軍茶利夜叉明王……」

と、「船弁慶」の知盛と弁慶の趣向です。

それを見た川端の見物客、大した趣向やと関心しまして、

「ようよう、本日の秀逸。川の中の知盛はんもええけど、船の上の弁慶はん、弁慶はん」

それを聞いた喜六、

「何ぬかすねん。今日は三分の割り前じゃい」

見物客が、「本日の秀逸」というて、ようできた趣向のもんやら、粋なもんを褒めるというのが、昔は一般的やったようですな。

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