ジョージ・オーウェル『1984』第一章

ニュースか何かを読んでいて、まさにジョージ・オーウェルが『1984』で書いた世界のままである、なんて書いてあったもんだから、原文をネットで探してみたらあった。

はじめこそ横書きで読もうかどうしようか迷ったが、意外と読めるもんだ。
Twitterを見ていると今日もまた何かに怒ってる人がいる。やれ国の行っていることはおかしいだの、誰々の発言が差別だの。みんな正義の味方になったつもりなのだろうか。Twitterでつぶやくと何か変わるのだろうか。

まあ、変わるだろう。今でこそ公的な発言とプライベートな発言は密接に結びついてしまっている。この点は昔より強まっていると主張して間違いないだろう。だからSNS上の発言が、現代の価値観で問題にあたるのならば、それをみんなで凶弾すればそれは公と結びつき、現実の問題になるのだ。

怖い怖い。私は正直現実の個々の問題にはそれほど興味がない。何に惹かれるかといえば、その問題が起こってしまう背景だ。面白いのが、特に国に関わる問題の場合、それは個人の場合と比べて極めて非合理に見えてしまうところである。なぜ、そんな分かり切った嘘を通そうとするのか、なぜ歴史がダメだと示していることを繰り返してしまうのか。それは個人が同じ過ちを繰り返してしまうのとは別のものとして考える必要があるのではないかと、最近考え始めている。

個人の場合は自分もそうなのであるが、大概の場合怠惰が原因だ。変えないといけないと分かっていても、楽な方に流れてしまう。そして悪いことにその楽な方に流れてしまった結果、別になんとかなってしまうことが多いのだ。なおさら堕落する。

しかしこれが国家レベルの大きな枠組みで考えたらどうだろう。そうそれを考えるひとつの材料が『1984』なのである。

この物語の中の世界では日常の生活が常に国家から監視され、その監視は思想にまで及んでいる。主人公は自分が国家に反対する考えを持ってはいけないことが自然になっているようである。

”自分が立てる全ての物音は傍受され、暗闇を除いては全ての動きが監視されていると思って生活するべきだったし、そうした生活はいまや本能的な習慣となっていた。”

さてこの世界観、完全な空想で生まれたものなわけは当然なく、実際にあるような話なのである。物語はその背景、すなわちなぜこのような形ができてしまったかなんてところは書いてないのであるが、そこを想像してみたい。

国家と個人で大きく違うところはどこだろう。それは、なにか行動を起こす(あるいは起こさない)という決定の結果がなんとかなってしまう可能性が極めて低いことである。個人の場合は規範から逸れた時、身の回りが良い復元力となってくれるのだが、国家レベルになると、それが逸れた時、国全体が横にシフトしてしまう。どこにももとに戻してくれる力なんて存在しない。
そういう状況で国が行う最善策は一見非合理に感じることが多くなってしまうのではないだろうか。

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