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もう一つのお好み焼一家、古田家の歴史

広島市におけるお好み焼一家では、井畝家が有名だ。
繁華街である新天地・流川に隣接した新天地公園に、1950年(昭和25年)、井畝井三男(いせいさお)さんがお好み焼の屋台を始めた。
その息子や娘たちがそれぞれ店を構え「みっちゃん」という屋号で現在も営業を続けている。

しかし、あまり知られていないもう一つのお好み焼一家がある。
それが古田家だ。

最初にお好み焼を始めたのは古田正三郎さん。
この記事の見出し写真にあるように、お好み村の1階に胸像が立っている、初代村長だ。

古田正三郎さんは1914年(大正3年)、愛媛県東予市生まれ(現在は西条市)。
実家の手漉き和紙を手伝っていたが、太平洋戦争中の1938年(昭和13年)、24歳で香川県庁に入り、香川県海軍兵器統率工業呉出張所駐在になる。
これが縁となり、戦後の1948年(昭和23年)広島市に移り住み、お好み焼屋台「ちいちゃん」を始めることになった。
創業は1951年(昭和26年)なので、広島市内に現存するお好み焼店の中では最古参の一つだ。

営業していたのは井畝井三男さんの屋台「美笠屋(のちに「みっちゃん」へ屋号変更)」と場所と同じで、井畝さんと尾木さん(熱狂のお好み焼トリビア参照)に誘われて始めた可能性が高い。

当時のお好み焼屋台は、公共施設である公園に出店していた上、「仁義なき戦い」がリアルに進行している場所でもあったので、役所やヤクザとの交渉や調整が多く、役所の内情を知り、親分肌で面倒見の良かった古田正三郎さんが矢面に立つことが多かったようだ。
その後、彼が村長に推挙されたのはそのような経緯がある。

繁華街に面したお好み焼屋台は上記のとおり面倒事が多かったが、儲かる商売でもあったので、自分だけでなく親族にも勧めたようだ。
古田正三郎さんの奥様、美鶴さんの妹が「紀乃国屋」を、長女の千鶴恵さんが「たけのこ」を、長男の隆則さんが「八昌」を営むようになる。
現在ではさらに千鶴恵さんの息子、貴彦さんが「村長の店」を、隆則さんの次女百合子さんが「ゆりちゃん」を営んでいる。
古田家の系列だけで合計6店を経営している上「八昌」の名を継いだ小川弘喜さんが大勢の弟子を育てたことにより、八昌系は広島お好み焼界における最大勢力になっている。

文章だけではわかりにくいと思うので関係図を作った。

古田一家のお好み焼関係図
  • 濃い緑・・・ちいちゃん

  • 薄い紫・・・紀乃国屋(現在の紀乃国屋ぶんちゃんBAR惑星216)

  • 緑・・・たけのこ

  • オレンジ・・・八昌(現在は元祖八昌)

  • 薄い青・・・八昌(古田一家ではないが重要なので)

  • 薄い緑・・・村長の店

  • 薄いオレンジ・・・ゆりちゃん

お好み焼の焼き方は広島スタンダードスタイルであることは共通しているが、細かな部分は各店によって異なり、使っているソースも同様。
現在では多くの店が採用している玉子の半熟仕上げは、昭和40年代に古田賢司さんが始めた可能性が高いと僕は考えている。
また、水を氷入りのジョッキで提供するのも「ちいちゃん」が発祥だろう。

広島お好み焼の歴史に興味があるならば「ちいちゃん」を訪れた際、ぜひ麺入りのネギ焼を頼んでほしい。
広島市のお好み焼にキャベツが使われるようになるのは昭和30年頃からで、それ以前はネギが主体だった。
太平洋戦争前は一銭洋食と呼ばれていた料理だ。
このことについて田中小実昌さんが興味深い文章を残しておられる。

広島のお好み焼は「一銭洋食が原点ですよ」と古田村長さんはおっしゃる。
戦争で姿をけした一銭洋食は、戦後の昭和25年ごろ(1950)復活し、でも、ただ量の大きさを競うだけだったが、昭和32年ごろ(1957)から、つくりかたと味で勝負するようになったとか。
そして、一銭洋食は子供の食べ物だったのが、オトナの食べ物になった。

田中小実昌「ふらふら日記」1987年刊

文中にある古田村長さんは古田正三郎さんのことで、昭和32年ごろというのが、広島スタンダードスタイルの成立時期、それを生み出したのが井畝満夫さんだと僕は考えている。
では、その前はどのように焼いていたのか。
それが広島オールドスタイルとカテゴライズした焼き方で、現在では一部の老舗にしか残っていない。

そして「ちいちゃん」で麺入りのネギ焼を頼むと、広島オールドスタイルで焼いてくれるのだ。
ネギ焼は一銭洋食の直系だから、改良型の広島スタンダードスタイルではなく、一銭洋食の焼き方で焼いている。
これを発見した時は衝撃を受けた。
一つの店で新旧、2つの焼き方があり、ネギ焼はネギが主体だった一銭洋食時代の焼き方で焼いてくれるからだ。
なお、広島市に中華麺が流通するようになったのは昭和30年頃(1955年)なので、より正確に一銭洋食を感じたければ、餅入りのネギ焼を頼むのがベスト。
一銭洋食は麺を入れないのが基本だが、オプション的に餅入りが食べられていたと僕は考えている。
餅を麺に置き換えたのが広島オールドスタイルということだ。
お好み焼に餅?と思われるかもしれないが、お好み焼が生まれた明治期から使われていた伝統的な素材だ。
大きな街には餅屋という専門店があり(広島市内にも現存する)、今よりずっと身近な食べ物だった。
お好み焼店で餅のオプションが残っているのは老舗に限られるが「ちいちゃん」ではもちろん用意されている。
なお古田賢司さん達に、なぜネギ焼だけこのような焼き方をするのか?と訊いてみたが「初代からネギ焼はこう焼けと言われてきたので理由はわからない」と言われた。

その初代、古田正三郎さんが一銭洋食について答えている記事がある。

【大正10年(1921年)頃は】
① メリケン粉の水溶きをお玉ですくって、鉄板の上にたらたらと流し、径四寸~四寸五分(12-14cm)の円形に広げる。
② きざんだ青ねぎを地がかくれるほど一面に散らす。
③ ねぎの上にも水溶きメリケン粉を少し流して、ねぎが飛び散らないようにしておいて、ひっくり返して焼く。
④ もう一度表に返して二つ折りにし、皮に醤油を塗る。鉄板で焼けているところへ醤油を塗るから、醤油の香ばしい香りがあたりに漂う。
このあつあつを新聞紙に包んでもらう。
昭和10年(1935年)、中学校でお昼に十銭弁当を売っていたころも、やっぱり一銭洋食は一銭、しかし屋台のほかに専門の店もでき、中身も少し変わった。
店によってさまざまであるが、かつおの粉や薄く切ったかまぼこ1,2枚、薄切りのれんこん、ねぎ、とろろこんぶなどを2,3種類組み合わせて入れ、最後にウスターソースを刷毛で塗るようになっている。

日本の食生活全集広島編集委員会著「聞き書広島の食事」

古田正三郎さんの歴史を考えると、この記事の状況は広島市ではなく、愛媛県西条市ということになる。
しかし、広島市においてもほぼ同じ状況だったことが四國五郎さんの絵などから伺い知ることができる。

「ちいちゃん」がお好み焼だけでなく、ネギ焼を提供している理由は、古田正三郎さんが子供の頃に食べていた料理だから。
そしてその焼き方は戦前のやり方を踏襲しているのだ。

「ちいちゃん」の野菜肉王そば、この後、麺と合体させる
「ちいちゃん」のネギそばは生地の上に麺を重ね、その上に具を積み上げる

古田家とお好み焼の歴史に思いを馳せながら食べると、一層おいしく感じられること間違いなしだ。


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