お笑いについて語りたいよね

よね。

お笑いを語ってもいいじゃないか。M-1の後くらい。

M-1は確か2003年大会(フットボールアワー優勝年)から毎回楽しみに観ている。もちろん過去大会もDVDで何回も見ているし、高校の頃友達の家に泊まる時にM‐1のDVDを持参して観たくらい熱心なファンだ。

最近こそTVを見なくなったので、お笑い番組を観ることは余りないのだがその変わりYoutubeで公式の漫才やコントが見れるのはやはりいい時代になったもんだと感心する。
今年のM-1も準決勝から敗者復活、決勝、その後の反省会と打ち上げまで全部見た後、今は延々と決勝の動画リピートしたり各芸人の個人チャンネルでのM-1解説までずっとM-1漬けだ。

やはりM-1は別枠で別腹で別格で特別だ。
それを一言でいうと「本気度」が好きだ。
本当に人生を掛けている人たちの熱量と、それに本気で答えるテレビ番組的な台本に則っとらないスポーツとしての漫才という楽しみがM-1にはある。

今回優勝したマヂカルラブリーは果たして漫才なのかどうかみたいない議論が世間を賑やかしているらしい。
正直これにはかなり怒っている。マヂカルラブリーがまるでレギュレーションに違反してるような言い草で優勝にケチがつくのが鼻持ちならない。
それこそ漫才の定義をするならマイク一本と体だけでやるものが漫才だ。
だからどれだけ暴れても、しゃべらなくても、掛け合いがなくても、歌っても、それが漫才になる。
「4分間という中でマイクの前で一番面白い奴らを決める」のがM-1グランプリなのだから、今回はマヂカルラブリーが優勝に何の問題もないはずだ。

だけれど、漫才という競技シーンの中でこういうケチが付くのは致し方ないのも理解できてしまうところもある。
他のスポーツであればルールに則って多く点数を取った方が勝ちとか、早いタイムを出した方が勝ちとか、勝敗は誰が見ても明確だ。
体操やフィギュアスケートなどのいわゆる表現系スポーツでさえ、それぞれの技に点数があって、後半にやると加算されて、といった明確な基準があるが、漫才にはそれがない。

漫才は観客の反応こそが点数になっているからだ。
ここが芸能としての漫才とスポーツの大きな差と言えるだろう。
スポーツはあくまで対戦相手がいれば成り立つが、漫才はそれを観る第三者がいないと成立しない。
しかもそれは第三者の一人一人のごく個人的な主観でしか判断することが出来ないのがもっとも難しくさせている。
例えば全く同じネタを準決勝でやって大ウケしたとしても、決勝で大コケすることは十分にあり得る。今大会でいえばアキナがまさしくそれだった。
成功する確固たる方法もない、正しさの基準もない、その場限りの空気や雰囲気などで全てが変わるという、対策のしようもない競技がM-1の難しいところであり、最も面白いところだ。


最近『ブルーピリオド』という漫画を読んだ。


倍率何十倍の難関美術大学である東京芸大を目指す高校生を描いた漫画だ。
狂気の世界だ。何が上手いだとか下手だとか劣っているとか優れているとかは見る第三者がいてこそ成立して、それは個人的な感性というか「言語化出来ない何か」が全てを占めている。
そこに正しさや正攻法もない、雲をつかむような狂気の世界を触れさせてくれるもの凄い漫画なのだが、漫才も全く同じように思う。

だから僕は芸人も芸術家も映画監督も作家もミュージシャンもあらゆる「表現」に携わる人間を掛け値なしに尊敬している。
正しさや確からしさもない、頼れるのは自分の感覚だけという狂気の世界にいてなお、誰かを喜ばせたり泣かせたり心を動かせたりするために何かを表現し続ける者たちを心から応援している。



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