神様という名の虚像・黄
——馬鹿馬鹿しい。そう唾棄しかけてすんでのところで踏み留まる。曲がりなりにも上官の前だ、私はこの男のことを慕ってはいないが、失言は己の目的を妨げる原因になりかねない。口を噤んで、真剣に演説に聴き入る振りをする。それが一体いつまで続くかは気掛かりだった。部下の士気を上げて扇動する術を掌握している者であればそれもいいだろう。しかし、己が地位を誇示したいだけのこの男の言葉には何一つ重みが存在しない。むしろ、私を含む周囲の人間から、信頼を奪い取る逆効果になってしまっている。私と違う列に並ぶ誰かが欠伸をし、当然ながら罵声じみた咎めを受けているのが聞こえる。同情するが何か行動に出ることはせず、私は意識して背筋を伸ばし、一刻も早く時間が過ぎ去るのを祈った。
……祈る。自らの脳裏に閃いたその言葉に、内心失笑する。一体何に対し祈るのか。父親か母親か、国の指導者か、それとも敬愛する師か何かか。私には信じるに値する者は存在しないし、本来は、他人の信仰にとやかくと口を出すべきではないが、少なくとも神以外の何者かであるべきだ。存在しないものに縋り、どんな意味がある。その点にしても、あの国は以ての外だった。首都の中心に築かれた恐るべき高さの塔に神が住まい、己が為すこと全てが神の思し召しであるなどと宣っているのだから。その癖、奴らがやることといえば、兎角侵略行為だ。ある時には物量で押し切ってありとあらゆるものを略奪し、またある時には国の中枢にまでスパイを送り込み、機密情報や技術を盗むなどと、その他枚挙にいとまがない始末だ。神を名乗る人間を旗頭に代行者を気取りやりたい放題。そんな国が周囲の反感を買わない筈なく、しかし今日に至るまで放置されたのは、蹂躙されてきた国同士もまた争っていたからであった。時を経て疲弊するにつれ、互いの間で繰り返し湧きあがった憎しみは薄れていき、そして、共通する敵を無視出来なくなったことでようやく我々は結束できるという強みに気付いたのだ。それは、絶望の中で生まれた、一縷の希望だ。
「ようやく終わったなぁ……」
演説が終わり、各自解散となると早速この軍で唯一友人と呼べる男が私の側に近付いてきて、そううんざりとして零す。声に表れる疲れは純然たる精神的疲労である筈だ。しかし、極限の状態に置かれる訓練中よりよっぽど、ぐったりしているように見えるのは気のせいだろうか。胡乱げな目を向けようが、奴は意に介した様子もなく、私の視線を受け流す。
「茶番は終いだ。しかしここからが本番だろう」
「茶番って、お前な……そういう発言、マジで気を付けろよ」
呆れた顔で言われても、そんな表情をしたいのは私の方だ。磨き抜かれて鏡のようにとまではいかないが、やりすぎて滑りそうな床をぞろぞろと歩いていく中、奴は密告を恐れるように周囲に素早く目を向ける。我々も似た境遇なので解るが、ここにいる者の殆どが元々は人員確保の為に強引に地方から連れられた身なので、愛国心はまだしも忠誠心には幾分欠けた。出身や身分による格差が水面下で小競り合いを生む現状だ、内輪揉めの可能性は充分ある。しかし、些事を気にしても仕方ない。
「何。仮に騒動になったとして両者の意見が食い違えば、最後に物を言うのは日頃の行ないだろう」
「……お前のそういうところ、俺は嫌いじゃないぜ」
「褒め言葉として受け取っておく」
横目で見れば、苦虫を噛み潰したような顔がそこにあって、むしろ私は珍しいものが見れたと顔には出さずに誇らしい気分になった。逆に奴は普段人前では飄々として振る舞うが、これで意外と繊細な性質であった。しかし、この監獄のような世界、ある程度強かにならなければ、とても正気ではいられないのが実情だ。牧歌的な故郷で暮らしていた自分と別人のようになった自覚はある。決して後悔はしていないが。
「本番……本番、か。やっとここまで来たんだよな」
「ああ。私もお前も、この時の為に生きてきたんだ。そうだろう」
私の言葉に奴が小さく相槌を打った。それは先程の私と似ていたが、この男が周囲で呟かれる上官への愚痴に紛れる低い声でそう頷いてみせると、途端に空気ががらりと一変したような錯覚を抱く。いつかの実戦を想定した訓練時に、まるで小動物のように無害に装っていたのが、獰猛な肉食獣が如く変貌して油断しきっていた同輩を理不尽なまでに嬲る——そんな騒動があったのも最早懐かしい。それで周囲から拒絶されるのではなく反対に、尊敬の念を集めるようになったのも人徳というものか。……何か違う気もするが。
「あれからもう、四年か」
その漠然とした一言で、私の脳裏にも間違いなく奴と同じ光景が浮かぶ。何年経とうと我々が生き続けている限り、忘れることはないだろう。——たとえ、遂に復讐を遂げたとしても、だ。
火の手が上がり勢いよく燃え広がる。ぱちぱちと家が焼ける音を背景にして怒号が飛び交う。それよりも大きく聞こえるのは誰かの叫び声だ。痛いやめて、嫌だ死にたくないと耳を塞ぎたくなる声。しかし大きいのは最初の内で、時間が経つにつれその勢いは徐々に失速していく。程度が浅い者は運ばれていき、そうでない者は声を出す気力も失って最終的には——。そんな地獄を見た我々に、ここで生きる以外の選択肢は一つもなかった。
歩き続けるまま人知れず拳を握った。あの頃から全て変わった。身長も顔つきも髪の長さも、性格も武器の握り方もだ——変わらないのは隣にいるこの男だけだろう。しかし奴は奴で、変化は私と似たり寄ったりに違いない。かつて交わした約束通りの未来はとうに失われた。
「神を気取って、玉座に踏ん反り返る……そいつを殺して全部終わる」
「……いや、違うな」
「何だと?」
奴が足を止めるので私は振り返った。反射的に時間が気になったが、この後は幾らかの余裕があった筈だ。多少立ち止まったところで何も問題はない。脇を通り過ぎる者から我々に対し視線が注がれるも誰にも咎められはしなかった。粗探ししようが徒労に終わるだけだ。訓練も座学も品性も隙を許さず高みを目指してきた。——全ては神殺しを、復讐を成し遂げる為。それが我々の新たな約束だっただろうと、口には出さずに、鋭い視線を投げつけ。しかし奴は私よりもずっと真面目な顔をして見返してくる。村で育てていた花と、私とも同じ色の瞳だ。自分でも理由は解らないが気圧され口を噤む。しかし奴は、肩の荷が下りたように私に向かい合い笑いかけてきた。
「神殺しを果たして、それが始まりだ。俺とお前が、もう一度一人の人間として生きる始まりの日だよ」
それをまるで過去の出来事のように、決まりきったことのように言った。へらへらと人に媚びへつらうような、本心から楽しいと思っていても苦い思い出に縛り付けられて笑いきれないような、そんな酷い笑顔ではない。……久し振りに見た。そう思うと、いつの間にやら私も笑っていた。無愛想だと、親しい故の遠慮のなさで周りに言われていた私が笑う方がよっぽど珍しいだろう。気恥ずかしさにむずむずと唇を結び直すが、奴が気付くのは当然で、あはは、と笑い声まであげた。私は無言で腹に握った拳をぶち込む。かなり本気の悲鳴を聞いて溜飲が下がった。
「ひっでえなおい!」
「お前が笑うからだ。……そうやって笑うのは後に取っておけ。カタをつけたら、私が思う存分お前を笑わせてやる」
「あらやだ、大胆♡」
「……どうやらもう一発くれてやった方がいいようだな?」
「冗談に決まってんだろうが、この堅物!」
ほんの少し遠慮しながらも肘で突かれて、私は奥の手に出た。籠手が邪魔臭く感じるが、この際気にせず奴の脇を思いきり擽ってやればすぐに間抜けな笑い声が響き渡る。ひと気はなくなっていたが軍学校内でこういうことをするのはやはり気が引けて、すぐ手を止める。そうすると次第に奴の甲高い笑い声も引いていった。
「……死ぬんじゃねえぞ」
「言われるまでもないな」
何も我々の国が正義などと主張したいわけではない。だが敵討ちの権利くらいはあるだろう。それで誰かに恨まれることも我々はもう覚悟している。生まれてからずっと一緒にいるこの片割れを失う覚悟も。しかし出来るならばと、願わずにいられないのだ。
神という名の偶像を叩き壊して、我々はもう一度人間になる。目の前にまで迫ったその日に、二人密かに拳と拳を合わせた。
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