神様という名の■■

 ——今日もつつがなく世界は回っている。神様がいなくなっても何も変わらなかった。一日が経ち一年が過ぎ、十年を越え、その後は数える気にならなかった。あの人がいないのに生きる意味なんかないし、誰が生きようと死のうと、世界が再生しようと滅びようと全部がどうだっていい。だというのにおれは生贄としての役目を果たさずに逃げ出して、遺跡で燻っていた時と何も変わらないまま、消極的な方法で自分の死を待ち侘びる子供だった。あの村に居続けていれば村人も様子を見に来て、おれに何かの罰を与えただろう。なのに、それを恐れて離れたという自らの行動はおれは生きたかったと、そう証明をしていて——理不尽にあの人を殺めたほどの、おれ自身の感情を否定した気分になって、酷く気持ち悪かった。今でも時折あの日の夢を見る。
 おれの前にひれ伏していた男が何事か言って、ゆっくり顔を上げる。おれは何も言わずにただ、そいつの目を見返した。ひくりと小さく痙攣した瞼に、畏怖の感情が見えた気がした。仕方がないだろう。何せ一言も喋らない、分かりやすい恩恵も与えない。意思疎通すら出来ない相手を恐れない方がおかしいだろう。それでもおれがここから排斥されないのはあの人と同じように、おれが神様として崇められているからに他ならなかった。……皮肉だなとは思う。おれの、そして少なくとも村人にとっても神様だったあの人を殺した奴が神になるなんて。ここの人の思い違いというわけでなく、どれだけ経とうと全く歳を取らないので、どうやら本当に神になったようだ。あの日から全く成長しなくなったおれはあの人から命以外に神様という立場も奪ってしまったのだ。あの人の家にあった本の内容みたいに身体を喰ったわけでもないのにな。きっと身勝手に殺した罰なんだろう。死にたくても死ぬ勇気がない上放っておいても死ななくなったとは、まさにおれに似合いの報いだ。
 過去を思い出している間にもおれが一切反応しないのはいつものことなので、特に気にした素振りもなく男は部屋を出ていった。聞き流していたので何の話なのか分からないが、おそらくはいつものように街で起きたトラブルについて報告していたんだと思う。直接働きかけたことも全くない、相槌も打たないから話し相手にすらもならない。なのに、わざわざどうしてこんなところまで来て語りたがるのか欠片だって気持ちが理解出来なかった。——まあ、誰かと深く関わる気もないし、放っておいてくれるなら、色々煩わしい事態にも巻き込まれずに済むので有り難い話だが。
 王すらも足元に及ばないような高みにある玉座から立ち上がり、一度扉の方に向かい誰も来る気配がないのを確認してから、今度は壁の前まで歩いていく。あの人と出会った遺跡で見た内壁によく似たそれにおれが手を触れれば、どんな攻撃が来ても大丈夫と話していた厚みのある冷たい壁が一瞬で透明へと塗り変わり、その眼下に遠くまで続く街並みが映った。前に意識して見た時よりも明らかに広がっているのが分かる。それはおれが生まれ育った村——は憶えていないので除外するとしても、あの人と過ごした村とはかけ離れている。この場所がそうなのと同様に、限りなく遺跡の見た目に近い。ともすれば超えてしまっているのではとも思った。過ぎ去った時が再び、人間という種族を栄光の時代に押し上げたらしい。
 遥か先まで広がった街は、空が完全な黒に覆われる頃なのもお構いなしに煌々とした明かりを灯し、未だ誰も眠ることなく、活動し続けているだろうことを教えている。それをあちこちから上がる煙がぼんやり霞ませる様は、空から降り注ぐ光と似ていて、でもそれより強くて眩しい。じっと凝視するのが難しくなって、おれは手で目の前を遮った。痛くはないけど、見ていても面白いものでもないし。奥に街並み以外の何かが見えないだろうかと、壁を透明にする度にいつも思うものの、もしかしたらここに来たばかりの頃はまだ見えたのかもしれないが、だんだんと、日増しに広がっていくから、今ではとても見えないだろうと大体もう諦めている。
 どれだけ時が過ぎて何度夢を見ても、あの人と過ごした思い出が遠ざかることはなかった。今でも鮮やかに脳裏に甦る。きれいな人なのに笑うと眉が下がって、あははと普段より高い声を出していたことも、言葉を教える時に本当に意味を理解したのか確認する為、質問しながらまっすぐおれの顔を見返していたことも、作ってくれた料理を美味しいと言った時の「ありがとう」と返す声の調子も全部。あの人の家にあった本に失って初めて大事なものだったと気付いた、そんな一節があったが当時は故郷のことなんてどうでもよくて、だから少しも共感出来なかったのを覚えている。でも今なら、それが痛いくらい解る——もし魂というものが実在し、あの人がおれのことを見守っているとしたら、彼は一体どんな気持ちなんだろう。死なないおれを憎んでいるか、喜んでいるか——視界を遮っている手を自分の顔の前まで持ってくると、固く握り締める。あの人の服の袖を掴むことも手を繋ぐこともない。だからもう、おれが誰かの温もりを感じることはない。それが寂しくて、そう思う自分の傲慢さを喉を震わせて嘲笑う。
 おれが神になったというのなら、この世界を好きに出来たっていいじゃないかと思う。そうしたら、あの時よりずっと身勝手に全部ぶち壊す。あの男のようにおれを訪ねてくるやつは何も知らないと思い込んでいるのかもしれないが、おれだってこの街のことをある程度知っている。たとえばこことどこか近くの街が何かの理由で争っていること。何せこの塔のすぐ下で、何百人かそれ以上の人間が闊歩してるんだ、いくらおれが世界に興味がなくても、気付かない筈がなかった。——それはおれの記憶が確かなら、軍隊というものだ。つまりは昔世界で起こったという、戦争の再現。それが今行なわれているのかもしれない。あの男だったり、あるいは女だったり、誰なのかはその時々で変わるが、理由や人数は伏せて、人死にが出たと報告してくることがある。今日のように聞いていない日もあるが、頻度が増えてきているのと時折くたびれた顔をするのは確かだった。ここまでやってくることはないものの、誰かが塔内に侵入して管理者を気取る人間につまみ出されていたのも知っている。たまに、塔のすぐ下を怪我人が歩いているのも見える。密かに漂う不穏な気配と、壁の側まで寄ると感じるあの日浴びたあれと同じ臭さ——おれがどうでもいいと見過ごしてきたものがいつか牙を剥く。ならおれがその前に幕を引く方がいいのではとそう思った。
 手を離したからか、気が付けば、壁は元通りになっていた。透明になるとはいえ四方を扉以外壁で覆われているというのはまるで牢獄のよう。自分で抱いた感想と想像力の高さに笑う。こんな所に来ても、驚くほどおれの世界は小さいままだ。
 ——どうかおれに終わりをくれないか。意気地なしでどうしようもないおれに出来るのは壊すことだけだ。多分そうしなければ生きられない、だからもしそれが嫌だというのなら。誰かが神殺しになっておれと代わってくれ。
 玉座にどかりと腰を下ろし、目を瞑る。今夢を見るとしたらきっと、またあの日の出来事を再現するんだろう。おれの唯一最大の失敗で、これはその罰で——そして何よりも、目を開けば見える現実が一番の悪夢だった。

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