神様という名の虚像・青
——物心ついた頃、自分が人と違うんだということをおれは嫌というほどに思い知らされた。元から両親や兄弟や村人たちから優しくされた記憶はこれっぽっちもなかったが、少なくともこの家で暮らしてご飯を食べて生きる、それくらいの価値はあるんだとそう思い込んでいた。それが間違いだったと気付いたのは馬鹿なことに、父親からお前を生贄にすると言われた瞬間だった。頭の中が真っ白で「え?」とたった一音を呟き、そこからもう二の句が継げない。そもそもおれは、他の同い年くらいの子供と違って学校に行ったことがなかったから、のちにあの人に教えてもらったような言葉は全く知りもせず、意思疎通に必要なことしか解らなかったので、もっと冷静だったとしても胸でぐるぐると渦を巻く感情を上手く言い表せなかったと思う。まあどちらにしても知恵もなければ体格も貧相で、兄弟が相手でも抵抗がままならない筈のおれに、その時その場で逃れる術はない。ただ明日には遺跡に連れていくという有無を言わせない宣言をただ黙って聞くだけだった。
そう言った父親がどんな表情だったのか、直視もしていなかったので、知ることは出来ない。もしかしたらおれに幾らかの情を持っていて、苦渋の決断と悲しんでいたかもしれないし、ずっと厄介者としか思っていなくて、せいせいすると笑っていたのかもしれない。兄弟はどうだか知らないが母親は少なくとも父親がおれにその話をすると分かっていて家を離れていた。おれがその輪に加わることはなくても家はいつも誰かの声がして賑やかだったが、その日は父親も部屋に閉じこもりっきりで、耳の奥で何か鳴っている音がするくらい静かで。ひとり、鏡の前に立ってそこに映る自分の顔を見た。髪も肌も白いのに瞳だけに色が付く。うみというおれが知らない何かと同じ色で、そしてそれはこの村の誰とも違っている。だからみんなおれと目を合わせないし、何もするなと言うし、生贄にすると言う。その言葉を知らせないまま捨ててくれればよかったのに。村で作る食べ物の出来が悪くなると神様に見放されそうになっているんだと恐れ、思い上がっていないと証しを立てるために、一番いらない人間を捨てる。おれは要らない子供——その事実を心の中で繰り返して、おれは、知っていた筈なのに傷付いている事実に理解して笑った。口の端の片方が歪んだ酷い笑顔だった。
走る。一度地面を蹴って思いっきり足を踏み出したら、後はもう止まりたくても止まらなかった。誰が追いかけてくるわけでもないのに、悪いことをしているという自覚はあったから、もしも見つかったらと思うと怖かった。だって、おれが大人しく言うことを聞き、従っていたお陰で何もなかっただけで、抵抗すると解ったら放っておかない筈だ。今まで人に触れる機会がなく、おれは話したことはないが、父親も母親も頭を下げていたので、多分村長の次かその次には偉いと思う人に手を引かれるあの感触は凄く気持ち悪くて仕方なかった。熱くてじっとりとしていて、おれの体温が移っているのか移されているのか、どちらか分からないが、腕に鳥肌が立つあの感じ。そこから緊張だとかおれを気味悪がっているのが伝わってきて、とにかくぞっとする。痛くなくてあんなに嫌だったのに、身体を掴まれて引っ張られでもしたら死んでしまいそうだ。だから無我夢中に逃げなくてはならない。
その時はまだ死ぬのが怖かったわけじゃなかった。どうせあの村から出て、独りきりで生きていく力なんてないし、生にしがみついてまでしたい何かもない。反対にこの歳までおれを育ててくれた家族になけなし程度の情はあった。だからおれが死んで、本当に生活が良くなるならそれでいい。そう本気で思っていたんだ。
じゃあ何故あの部屋から逃げ出したのかといえば、退屈で、暇を潰そうと中をうろうろとしていると、偉い人間が外から扉にかけた筈の鍵がかかっておらず、ちょっと押しただけであっさりと開いたからだ。ガチャッと音がして、南京錠が外れたのだから、別に同情して逃がそうとしたわけではなくて、おれが大人しく従っているので気が抜けていたんだと思う。それか、単純に疲れていたか。手の気持ち悪さ以外どうでもよくて、外の景色を見ていなかったのもあったから、それこそこれも神様の思し召しというやつなんだと思って、抜け出して——後になってもう一度見に来るのかもしれないと気付いた。何より触られるのが嫌だ。怒られるのも嫌だ。おれは無視されることはあっても怒られたことはないが、人が怒る時のあの大きくて鋭い声もそれを聞いて泣く声も、灰が家の中にまで入ってきたようなあの空気も嫌だった。だから村には絶対帰らないし捕まりたくない。その一心でデタラメに走り回ったらあの遺跡に辿り着いていた。
天井にぽっかりと空いた穴から、家の中にいた時よりもぼんやりとした光が降り注ぎ、それが何時間も見えなくなって、いつの間にやら夜になっていることに気付いた。それを何度繰り返しただろうか。遺跡にある機械を適当に叩くと水が零れ出して、その水は村にあったものより透明だった。それを舌を伸ばして飲み込んで、何とか生き永らえていた。それでもただ生きているというだけだ。相変わらず何もしたいことなんてないし、出来るとも思えない。水を飲むのを我慢して死を待ってみたって、苦しくもならない。嫌な気持ちも嬉しい気持ちもどこにもなくて、次第にあの村で暮らしていた日々も遠ざかり、家族がどんな顔をしていたのかも忘れていく。兄弟の名前も段々と忘れていって、両親の名前は元から知らなかった。
もう何も知らないことはないんじゃないかっていうくらい、遺跡の中は隅々にまで見て回ったから探索する気も起きない。かといって別のところに行こうとも思えない。人間は嫌だ。人間に会うくらいならここで独り、死んでしまった方がずっとマシというもので——。床に背中を預け、そっと手を伸ばす。空いた穴から光が見えた。だからまだ昼なんだろうと考える。
神様はあのもやもやの向こうにいるらしい。連れていってほしいと願いながら、でも一度逃げ出したやつなんか、神様もきっとお断りだろうと思う。神様もおれの目を見たら気味悪がるのかもしれないし。神様に見捨てられたらいよいよおれの居場所なんてないな。そんな風に思って笑うと、ぐっと拳を握る。世界が石ころだったらおれのこの小さい手でも握り潰せるのに。
耳鳴りの向こうで何か硬いものが跳ねる音が聞こえたのは、ちょうどその瞬間だった。はっとなって音がした方に振り向けば、そこには人がいて、よろめきながら一歩足を踏み出すところだった。両手を上げているけど残念ながらおれにはそれが一体何を意味するのか判らない。
「■■■、■■、■■■■■■■■■■■■■。■■■■■■■■■■■■■■■■——■■?」
その人が言った言葉も全く分からなかった。ただ近付いてきたことで、彼の顔にも光が落ちて、ちかちかしなくなったからよく見えるようになって——。おれとは違い、背が高くそれなりに筋肉もついていて、そして髪も肌も全部黒色をしていたんだ。何より暖を取るためにくべる薪の、あの火をつけた時に内側からぼっと燃え上がった赤とよく似た目の色がきれいで、おれは飛び上がるように起きてその人の顔を見つめた。おれは目の色だけ周りとは違っていたけど彼は、全部違う色をしていて。何となく脳裏に思い浮かべたのは、色々を忘れた記憶に残っていた神様という言葉だった。だって言葉も通じないし。彼が神様だとしたら、逃げ出したおれを探しに来たんだろうか。そんな風に思い至っても、連れていってほしいと願っていた割に感動はしなかったし、怖いから逃げ出そうなんて考えも抱かなかった。この人が、おれの目を見返しているからだと思う。おそらく初めての経験だ。生まれた瞬間から親に不気味がられていたに違いない。そう考えるとこの年齢まで捨てられなかったのが不思議だった。
彼はそわそわと落ち着きがない様子で、右を見たり左を見たりと繰り返す。顔に対する興味が薄れてきたので目を下げる。遺跡の硬い地面を歩いても平気そうな底が分厚い靴に、腕や足を覆う汚れた服と、それと手に提げた鞄。パンパンに膨らんでいるけど何が入っているのか。神様も怪我をするし、物は必要なんだなと、そんなことを考えていると彼はまた口を開く。
「……■■■■■■■■■■。■■■■■■■、■■■……?」
もう一度言われてもおれに話しかけていること以外、何も分からない。でも何だか困っている雰囲気は伝わってくる。おれがじっと黙ったままでいると、彼はもう一度足を前へと出した。今度は一歩だけじゃなく、二歩三歩と続く。その度に鞄の中に入った何かがカラカラ音を立てるのが気になった。
おれの前に膝をついた彼は鞄の蓋を開いて手を突っ込み、中身を見せてくれる。それはおれが逃げ出したあの部屋で見た石と似ていた。同じものかもしれないと、手に取って眺めてみる。あの時は何にもなかったけど、もしも罰当たりといって雷が落ちたらどうしよう。そう想像したものの、この人はおれに危害を加えたりはしない。そんな確信があった。だって何かする気ならおれみたいな子供なんて、声をかける前にしているはずだ。そうしないなら多分、敵意がないってこと。それに、きれいな人だから。この人が本当に神様だったら、生贄のおれはこの人のものだ。怒らないなら、無視しないなら、おれはそれで満足だ。少なくともここで死ぬのを待つよりはずっといい。
「■■、■■■■■■■■■■■……■■■■■■■■? ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
■■■。■■■■■■■■■■■■■。■■■■■■■■■■■■■■。■■■——」
裏返したり窪みに指を引っ掛けたりして遊んでいると、彼はまた何か話しかけてくる。やっぱり言葉は分からない——けど、言いたいことは分かる気がした。寂しいだとか、心配だとか、そういった感情だ。きっとこの人はおれのことを必要としているし、おれもこの人の為以外に生きる道はない。だから、躊躇する理由は何もなかった。手を伸ばし袖を引く。彼はほんの少し間を置いて、おれの腕に触れた。手にされて腕にされるのは嫌と思っていた。なのに、少しも気持ち悪く思わない。ちょっと冷たい神様の手だ。おれが壊れないように恐る恐る、優しく慎重に触れられるのが擽ったい。おれに鞄を渡した彼は、腕を辿り手を握って、そして立ち上がるとおれにもそうするよう促す。彼の口から漏れ出た音が「行こう」と言った気がした。おれは頷く代わりに、この人の厚い手を握り返す。
彼に連れられて辿り着いた村には彼と同じ肌と髪を持ち、赤い瞳をした人たちがいた。神様は一人じゃなかったのかとその時は思ったけど、一緒に暮らすにつれて彼だけが遠巻きにされているのを肌で感じて、他の人とは違う存在だと気付いた。
彼は何でもしてくれる。言葉が分からないおれに一から根気強く読み書きも発音も教えた。お腹が空けば食べ物を用意するだけじゃなく料理も作ってくれて、一緒に食べてもくれる。本当はおれが彼にそうするべきなんじゃないかと思いやってみたいと申し出ると、彼は嬉しそうな顔をして教えてくれた。村では特に何もしていなかったようだし、彼が村人と交流することもなかったからおれの見本はこの人だけだ。教えてもらうのも悪いしで見て盗もうと思ったけど、この人は優しいからおれをよく見ていて、おれが何も言わなければ全部してくれ、おれが教えて欲しいと言えばどんなに要領が悪くても少しも嫌そうな顔をしない。だから、勘違いした。
いつものように遺跡から村まで戻ってきて、そうすると、遠巻きに村人が話す内容が聞こえてくる。神様だから優しくするんだろうと、同じ色をして同じ村で暮らしている彼のことを他人事のように話す。おれはこの人と一緒にいられるならそれで充分だ。でもこの人はおれなんかより村人たちと仲良くしたいんじゃないかと、そう思うと何だか胸がもやもやする。服の裾を引っ張って彼の足を止めると、おれは訊いた。
「神様だから優しくしてくれたの?」
そんなの最初から分かってたことだ。なのに、ずっと隣にいて彼の存在がおれの中で大きくなるにつれて、きっかけは生贄を回収することだったのかもしれないけど、おれがおれだから側にいていいと、殺さずにいてくれるんだと勘違いをしていた。実際は神様だから人間に優しくしてくれているだけ。もしかしたら他の人たちと上手くいかなかったことのやり直しかも——。思ったら目の前が真っ暗になり、彼が優しくしてくれるたびに胸の中で黒々とした嫌な感情が大きくなるのが分かった。
さっきまでりんごを剥いていたナイフで、彼の腹を刺した。自分でも何が原因でそうなったか分からない。嫌いだとか家から出ていけだとか、そんな言葉を投げかけられたわけでもなくて。色んな感情がぐちゃぐちゃに混ざって潰れて、絵の具みたいに汚い色になる。何がしたいのか解らない。もう何にも——。
「神様なんか嫌いだ。そんなもの、おれは欲しくなかったのに……」
零れ落ちた言葉を聞いて初めて、自分がそう思っていることに気付く。神様じゃないこの人と家族になりたかった。一人の人間としてのこの人がただ好きだったんだ。一緒にいて笑い合い、少しでも明るく幸せな毎日を過ごしたかった。手が熱い——おれの体温よりもずっと。そこでやっと怖くなって手を引けば、思いの外あっさりとナイフは抜け、彼、おれの神様は倒れ伏した。起き上がる気配はなくてもう死んでしまったんだと思った。目頭が熱くなり、呼吸する。次第に荒くなる。視界が滲んで雨が降った。それはこの人の服を焼くことはなく、ただその色を変えていく。彼の目の色とよく似た赤がカーペットに広がり出した。
——なんでこんなことしたんだ。どうしておれはこんな、我が儘になってしまったんだろう。悲しくて苦しくて自分が憎くてたまらなくて——独りぼっちの部屋にずっと嗚咽が響いていた。
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